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一日一句(1190)







龍の玉働くひとに一つづつ






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日蓮宗不受不施派について



以下は、2014年9月6日に市川文学プラザにおいて開催された「第7回鳴海英吉研究会」において講演した原稿を元に再構成したものです。

第1章 日蓮宗不受不施派の起源

今日は、詩人・鳴海英吉が、40歳前後から研究を始め、70になっても研究論文を発表し、終生関心を持ち続けたライフワーク、日蓮宗不受不施派について、少し考えてみたいと思います。

不受不施派とは何か

不受不施とは<法華宗を前提にした僧と信者の排他的関係>を表す考え方ですが、日蓮教団にとっても、仏教各宗全般にとっても、普遍的で自然な考え方でした。

しかし、「不受不施」を説明するのは、意外に難しいです。宮崎英修博士の定義を引きましょう。<「不受」の名称の由来は僧に関することで、法華不信・未信の者から、布施供養を受けぬことを意味し、「不施」とは、信者に関することで、法華宗以外の僧には、供養をせぬこと、を意味します>ここで、混乱するのは「供養」という言葉の使い方です。現在では、「供養」は、死者や祖先を弔う「追善供養」の意味で用いるからです。

不受不施派を説明するのが、意外に難しいのは、言葉の意味の混乱に係っています。宮崎英修博士が「供養」と言っているのは、この言葉の本来の意味での使い方です。サンスクリット語の「プージャナ―」の訳で、「供物を真心からささげること」を意味しています。この場合、捧げる対象は人間の僧侶になりますから、「飲食などをふるまう」という具体的な意味になります。この「供養」という概念は、のちに、政治権力との関係で非常に重要になってきます。

江戸時代には、寺領は国主からの「供養」になるのかどうか、といった論点で不受不施派と受不施派の間で論争が起きます(身池対論)。さらに、道路・飲料水も供養に含めるといった世俗権力の拡大規定に対して、日蓮宗内部で論争になり、「悲田供養」(悲田とは、仏教用語で、貧者や病者などのことで、恵みを施すことで福を得られる存在)として受ける悲田派といった分派も生じさせることになります。ちなみに、土地や道路や飲料水など、信者が生まれる前から存在するものを、「供養」と規定された場合、どのように不受不施派は拒否したのか、というと、徳川は、「供養」の受領証を求めてきたわけです。

不受不施派の歴史は、政治権力によって拡大規定されてゆく「供養」を、受けるか受けないかで、その都度、妥協する分派を生じさせながら、一貫して受けない立場を守ることで、世俗権力からの弾圧を受け続けた歴史だと言っても過言ではないように思われます。また、ここでの「布施」とは、具体的には金品(衣服食料も含む)を指していると考えていいでしょう。

不受不施の思想は、日蓮教団にとっても、広く、仏教各宗全般にとっても、通規であり、なんら特殊なことではなかったわけですが、信者の位置に国主などの<不信・未信の権力者>が、現われた場合、当該の宗教教団にとって大問題になります。

この大問題が起きたのが、文禄4年(1595年)9月10日でした。この当時の日蓮宗の状況を少し詳しくお話しすると、中世以来の伝統宗学を踏襲し教権を世俗権力の上位に置く関東学派と、法華宗対比叡山の争乱や信長の法華宗撲滅運動によって壊滅的な状態に陥り、新しい宗門経営を必要としたため、教権を世俗権力の支配下に置く関西学派の二派に分かれていました。

文禄4年9月10日は、豊臣秀吉が東山妙法院に大仏を建立し、先祖亡父母追善のため千僧供養会を行うべく、各宗派に対して招請状を出したときにあたります。この千僧供養会の「供養」とは、宗派を横断して多数の僧侶が読経などを行い、秀吉の先祖亡父母の菩提を弔うという意味で、現在の「供養」の使い方と同じです。世俗権力による世間へのデモンストレーションあるいはアピールと言っていいものでしょう。

千僧供養会への日蓮宗僧侶の出席と不受不施の教義がどう矛盾するのか、ということですが、宗教行為を秀吉一族に行っても、布施や(言葉の本来の意味での)供養を受け取らなければいいではないか、「不受」になるではないか、と考えられますが、不受不施の名称は、この事件のあとに出来たものであることに注目してください。法華宗未信・不信の権力者と日蓮宗の僧侶は、宗教的な行為のやり取りができません。日蓮宗の僧侶が、宗教行為を施せるのは、信者に限られるからです。

わたしが、不受不施とは、<法華宗を前提にした僧と信者の排他的関係>と言ったのは、この意味です。つまり、そこには法華信仰が前提されているわけです。そうした宗教行為と物質的財の交換や、信仰の証としての寄進といった、法華信仰の全体を通じた僧侶と信者の排他的な関係性が、不受不施の本質なのです。ですから、法華信仰をほかの宗派に替えれば、基本的には、どの宗派にもあてはまる普遍的な思想なのです。

秀吉の千僧供養会には、当時の8宗派から僧侶がこぞって出席しました(日蓮宗の関西学派に象徴的なように、世俗権力の支配下に教権を組み込むことが、各宗ぎりぎりの生き残り戦略だったのだと思います)。具体例をあげると、真言宗、天台宗、臨済宗、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗の関西学派です。京都は、先にお話ししたように、日蓮宗関西学派の拠点でしたが、京都妙覚寺だけは、教権を重んじる関東学派の系譜を引いていました。

京都妙覚寺の日奥(1565-1630)は、秀吉の招請を拒否するという判断を下しました。強大な世俗権力と対決しながらも教権を上位に置いたことで、このときの判断が日蓮宗不受不施派の起源になります。日奥30歳のときのことです。

日奥は、この後、妙覚寺を離れて、丹波小泉に隠棲します。慶長4年(1599年)の徳川家康主催の供養会にも日奥は出席せず、大阪対論(家康が、受不施を主張する京都妙顕寺の日紹と不受不施を主張する妙覚寺の日奥を大阪城で対決させたもの)で、対馬に流罪になります。対馬で13年間をすごし、1623年には赦免され、不受不施の布教が許されますが、ふたたび、1630年に、受不施派と不受不施派の対立が再燃し、江戸城にて身池対論が行われ、またしても対馬へ流罪になります。このとき、日奥はすでに亡くなっており、遺骨まで流されたと言われています。ちなみに、徳川家は浄土宗で、日蓮宗不受不施派は、供養も布施も徳川から受けることができないのは当然だったわけです。

江戸時代になると、不受不施制は転換を余儀なくされ、教権は世俗権力の支配下に入ってゆきます。寛文5、6年(1665、6年)に、不受不施は禁止されますが、この宗制を貫こうとする僧と信者は、地下にもぐって不受不施を堅持しようとしました。こうして、不受不施の信条・制法は教義として独立し、特異な教団組織を形成し、非合法的活動によって秘密結社を持続していくことになるのです。この活動は、明治9年(1876年)に禁教が解かれるまで、約200年の間、持続されたのでした。

日奥の言葉を引くと、「この世界は五百塵点より已来、教主釈尊の御領なり…この世界においては二主なし本主は只一人、これ釈尊一仏のみなり…」これは徳川幕府から見れば、十分に危険な反逆思想だったことがわかります。

ここで、不受不施派の拠点だった、京都、岡山、千葉の様子を簡単に述べておきたいと思います。京都は、先もお話したしたが、日蓮宗関西学派の拠点でしたが、妙覚寺だけは、関東学派の系譜を引き、日奥が出て不受不施派の起源となりました。京都不受不施派の信者の中核は、上層商人でした。日奥自身、京都の辻家出身で生家は呉服商でした。このため、辻藤兵衛一族が有力な信者でした。辻とならんで、彫金家として有名であった後藤も熱心な信者でした。貨幣の大判と両替商が用いる分銅の鋳造を請け負い、家康のころには、大名をしのぐほどの権勢だったと言われています。寛文年間の弾圧以降は、豪商たち離れていくことになります。

岡山は、千葉とならんで江戸時代、厳しい弾圧下でも活発な活動を続けた地域です。現在、岡山の妙覚寺を中心に、各寺院から僧侶が代表として参加し、不受不施派研究所を形成しています。わたしは、二度ほど、不受不施派研究所に接触し、手紙で取材を試みました。かなり外部に対してガードが固く、やや閉鎖的な印象を受けました。しかるべき紹介者がないと、通常は質問には答えられないけれど、今回は特例で回答します、というファックスを受け取りました。この内容についでは、のちほど、不受不施派の近代化のところで、お話したいと思います。もともと、岡山の日蓮宗は「備前法華」と言われるように、戦国時代の松田氏の保護の下で発展しました。寺院の系列としては、京都妙覚寺系が有力で、これが江戸時代の不受不施派へつながります。日奥の師匠だった妙覚寺の日典は岡山の出身です。日奥も岡山に三度訪問しており、影響力が及んでいました。

千葉は、日蓮およびその高弟、日朗の出身地で、日蓮宗の伝統が強い土地でした。この地域の特徴は、談林が多くあったことです。談林とは、今で言う大学に近いもので、僧侶養成機関であると同時に信仰・布教の拠点でもありました。上総に野呂談林、養安寺談林、下総に松崎談林、玉作談林、飯高談林、中村談林(この跡はあとで写真でお見せします)などありました。わたしは、千葉の不受不施の拠点で、現在も正覚寺を中心に不受不施の信仰を守る多古町島へ今年の4月、5月と二度取材に赴きました。5月に行ったときには、不受不施の寺院、正覚寺の元総代さんに会うことができ、もう一人の信者の方も途中から加わり、村の中の道が迷路になっている島村の歴史について、都合、4時間、お話を伺うことができました。この内容については、のちほど、触れたいと思います。

第2章 不受不施派研究の現代的な意味

「日蓮宗不受不施派」という16世紀後半に成立した日蓮宗の中の一宗教団体が、本格的な宗教史研究のテーマとしてクローズアップされるのは、1960年前後以降と言っていいと思います。文献資料として残っている最も古いものは、1743年に日源が著した『不受不施真偽訣』(上巻)です。これ以外には、1817年に日鏡が著した『不受不施の記録:日奥時代』や、『不受不施再興顛末』(竜華新報社、1925年)、『日蓮宗不受不施資料』(立正閣、1929年)など、不受不施派の弾圧された当事者が著した日記や記録文献が多く、数も限られてきます。徳川幕府時代史や仏教史の一部として取り上げた文献は、戦前もありますが、不受不施派を正面から研究対象とした文献が現われるのは比較的最近です。

以上は、文献に限った話ですが、論文になると、戦前に発表されたものは、見当たりません。戦後、不受不施派の代表的研究者である相葉伸博士(俳人の相葉有流)(1907‐1993)が、東京教育大学に博士論文として、「日本に於ける不受不施的思想の展開」を提出したのが、1957年でした。また、鳴海英吉の学問的な師である宮崎英修博士(1913‐1997)が立正大学に「不受不施派の源流と展開」を博士論文として提出したのは、1968年です。また、鳴海英吉が本名、加川治良(1923‐2000)名で「房総禁制宗門史」を自費出版するのは、1965年です。この私家版の序には、妙覚寺38世法主の日学の、不受不施派殉教史が、最近、学会において研究対象として取り上げられつつあるのは誠に喜ばしいという言葉が掲げられています。ちなみに、不受不施派を扱った論文で最も古いものは、1955年に雑誌『印度學仏教學研究』に掲載された宮崎英修博士の「日蓮宗不受不施派の組織と統制」です。

不受不施派の研究拠点である岡山の妙覚寺の不受不施派研究所の創設は、1949年頃、立正大学の日蓮教学研究所の創立は1954年(前身の修学研究所は1944年)で、いずれにしても、不受不施派の本格的な研究は、1960年前後に開始された、と言っていいのです。

では、なぜ1960年前後に至って、不受不施派が一挙にテーマ化されるようになったのでしょうか。また、不受不施派研究は、どういう文脈あるいは社会的背景でテーマ化されるようになったのでしょうか。

この問題を考えるには、鳴海英吉が本名、加川治良名義で、雑誌『思想の科学』1967年12月号に発表したエッセイがヒントになります。この中で、鳴海英吉は、こう述べています。

「不受不施派の現証した、この驚くべき抵抗、長い期間を背教者もなく持続してきたものはなにか。百姓一揆的な形態ではなく、静かな信仰ということの示す恐ろしいまでの精神のきびしさ、これは一体何でしょうか。

現在、ベトナムの仏教徒の焼身自殺をバーベキューといった権力者は、それだけしか理解できなかったのです。焼身自殺がベトナムの人々の中に消えることなく燃え語り継がれることを少しも理解できないのです。(中略)

宗教とは、人間の生と死を語る思想体系です。決して経典に埋められるものでもなく葬式屋の飾物ではないのです。

僕はこの研究を、安保闘争の少し前から始め、抵抗とはなにか、そして土着日本人の泥くさいツラ構えの中にこれがあるかどうか、そして工場労働者の僕のツラにこの構えがあるかどうか、いつも問い続けています」

不受不施の研究が、過去の民衆の抵抗から学び、行動へと開かれたものであることが伝わってきます。そして、この研究の背景には、明らかに、ベトナム戦争、安保闘争といった時代との呼応が感じ取れるのです。不受不施派の代表的な研究者、相葉伸博士も、宮崎英修博士も、鳴海英吉も、戦争を経験しています。不受不施派研究は、社会の動向と無関係ではなく、むしろ、時代的に民衆の抵抗を必要としたからこそ、テーマ化されたものだったと言えるのではないでしょうか。

第3章 不受不施の村、千葉県香取郡多古町島

今年の4月と5月に、多古町島村へ取材に行ってきましたので、このときの様子を、写真をご覧いただきながら、お話したいと思います。島村は、全部落不受不施派の信者集団です。村全体が中世の城跡であったことを巧妙に利用し、村全体が迷路になっています。道幅と家の入口を同じ寸法にして、槙の生け垣を廻し、外来者は、どこが道なのか、わからないようになっています。道はU字型に作られ、直線的に進むことができず、目的地があっても、迷うように工夫されています。わたしは、村で元総代さんの家への道を尋ねましたが、村人も道順を説明できず、目的地まで、先導する軽自動車の後を小走りについてゆくだけでした。

道幅は狭くいったん島村へ入りこむと、迷って先に進めないため、背後から、村人に襲われたら、逃げ場がないと始め思いましたが、あとで、元総代さんに聞いたところでは、この迷路は、徹頭徹尾、逃げるための時間稼ぎに作られたものであることがわかりました。各家は、つながっていて、外来者が迷っているうちに、家と家を通じるルートを通って逃げるのだということです。

島村は、江戸時代、大きな法難に3回遭っています。元禄4年(1691年)の法難「元禄法難」幕府は、悲田寺院に対しても禁制令を発し、7月3日、島村の日舜が三宅島に流罪になります。在島18年、1708年に80歳で亡くなります。寛政6年(1794年)10月1日の法難、通称「多古法難」は、島村の本正院日誓が三宅島に流罪になります。日雅、日悟、日善、日亨(にっきょう)、日孝、日弁ら13人が入獄になります。天保11年(1840年)5月28日の天保法難では、関東取締役中村誠一郎が、多古へ出張し、上総・下総の52寺院の住職を取り調べました(日蓮宗以外にも、天台4、真言が1含まれています)。また、26村の名主、組頭を取り調べ、これら全員を江戸の寺社奉行に召喚しました。不受不施派と承知の上で、これに金品を布施し、当局への届け出を怠っていた名主・組頭には、過料、中村浄妙寺、日運ほか47人の住職を逼迫の刑(閉門の上、白昼の出入り禁止)に処しました。

不受不施派の人々は、幕府の供養である寺を出て、人別帳も離脱し、寺に代わる「庵」を創設して信仰の拠り所とします。これらの「庵」は隠れ庵として工夫され、天井裏や土蔵、また部屋を二分して一つに見せたりして、弾圧を免れようと工夫しました。現在も、郡司家の箪笥型階段が、正覚寺に残っています。一見、箪笥に見えて、天井裏の庵に通じる階段だったものです。この庵は、寛政6年の多古法難のときにわかっているだけで、多古町周辺に7つありました。

取材していて面白かった点をあげると、

・島村の中心にあり信仰の中心でもある正覚寺境内にある墓は、だれのものか判らないようになっている。名前は書かれず、一様に、「南妙法蓮華経」という日蓮宗の経が、特殊なひげのような書体で書かれている。だれのものか判明すると、墓が荒らされたらしい。
・不受不施派の子孫の二人0さんとHさんに、なぜ、300年間も命がけで抵抗したのか、聞いてみたところ、始めは、照れもあったのだろう税の負担が重かったことや不受不施にいる方が、経済的に得だったというような答え方をしていた。そのうち、突然、Oさんが、わたしらが教えを学んで、一番心に残っているのは、「不惜身命」と「異心同体」ということばだったと。みんなが平等で、お互いに助け合う社会の実現をめざしたのでしょうと述べたのが印象的だった。
・宗教村落の島村には、神社が4つある。これが不思議だった。不受不施の信仰を固く守る人々が神社? と思ったのである。具体的には、天満宮、妙顕様(千葉家のもの)、八幡様、三十番神である。この4つの神社は、正覚寺を守るような守護神と考えられている。なぜ、神社があるのかについては、諸説あるらしいが、「一杯やるのに他のからもってきた」というのが面白かった。神社は、人が集まり、酒を飲み合うのに好都合な場所だったということである。



Coal Sack 80

【参考文献】

釈日正聖人伝 長光徳和著 1959年 立正護法会
仏教による抵抗の歴史 加川治良著 思想の科学(1967年12月号)
日蓮宗不受不施派解説 芝山はにわ博物館 1967年
下総における内信寺の問題 加川治良 大崎学報(1967年7月)
不受不施派の源流と展開 宮崎英修著 1969年 平楽寺書店
不受不施派殉教の歴史 相葉伸著 1976年 大蔵出版
房総禁制宗門史 加川治良著 1977年 国書刊行会
不受不施派農民の抵抗 安藤精一 1976年 清文堂書店
成田・佐倉周辺における禁制不受不施派の成立と展開 加川治良著(大野政治先生古希記念房総史論集1980年所収)
禁制不受不施派の諸派 加川治良著 日蓮教学研究所紀要(1993年3月)

【協力御礼】

千葉県香取郡多古町
多古町島村 成田山正覚寺
島村のみなさん
立正大学日蓮教学研究所
日蓮宗不受不施派研究所
前橋市立文学館
ほか
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一日一句(1189)







風邪の神風邪をひいてしまひけり






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一日一句(1188)







冬銀河大往生となりにけり






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一日一句(1187)







柊の花はかの世へ香りけり






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一日一句(1186)







銀杏落葉天人の舞ふ予兆あり






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一日一句(1185)







コンビニへ入る勢ひ師走かな



the momentum
entering the convenience store

december night






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一日一句(1184)







ポインセチア赤しみじみと胸に開く



poinsettia
the red deeply
opens in my breast






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映画『三里塚に生きる』





【三里塚に生きる】監督・撮影 大津幸四郎、監督・編集 代島治彦

久しぶりに渋谷に行った。大津幸四郎/代島治彦監督の『三里塚に生きる』を観るのが目的。なのだが、目的地に行くのに、駅から降りて30分もかかってしまった。ユーロスペースは、2、3度来ているはずなのだが、なにしろ、渋谷は久しぶりだった。南口に降りたのが、そもそも、間違いだった。まあ、それはいいとして、この映画は実に重厚だった。

三里塚と言えば、学生の頃、中核派だった先輩が、ときおり、三里塚に行っていたことや革マルとの内ゲバの様子を語ってくれことを思いだした。そのせいばかりじゃないと思うが、つまり、マスコミの報道の仕方もあると思うが、三里塚闘争は、一部新左翼の過激派が前面に出ていて、本来の主体である農民が、ぼくには、よく観えなかった。

この映画は、三里塚闘争の当時の若かった農民たちに、現在、インタビューしている。機動隊とのぶつかりあい(最終的には、殺し合いに近くなる)やなぜ、あれだけ抵抗したのか、などについて語っている。開墾した土地への愛着も、打算も生活も金目も率直に語っている。今は老いた人々が生気に溢れた瞳で語るのを聴いていると、たましいの深い処が揺さぶられる気がした。

ぼくがとくに、印象に残ったのは、二人である。いまも、葱やキャベツを栽培しながら、反対闘争を続ける柳川秀夫さんと、支援者として三里塚にやってきて、そのまま住みついてしまった小泉英政さんである。なぜ、柳川さんは、いまも、反対闘争をしているんですか。との問いかけに、三ノ宮文男の遺書の存在をあげている。三ノ宮さんと云うのは、柳川さんと同じ、青年行動隊のリーダーだった若い農民で、非常に優秀なひとだったらしい。三ノ宮さんは、1971年10月1日に自殺してしまう。亨年22。その9月には、第二次強制代執行があり、このとき、機動隊員3名が死亡している。この頃は、ほぼ、両者、殺し合いの状態だったらしい。この遺書の抜粋が、映画の中で、朗読されるが、家族一人一人と仲間に宛てた、大変、心動かされるもので、その趣旨は、「ここにずっと生き続けろ」「ここに生きる、生きられる環境を作れ」である。柳川さんは、これを正面から、真面目に受け止めている。

柳川秀夫さんに話を戻すと、闘争の渦中で、仲間だった22歳の若者が、神社で首をつってしまい、お母さんによれば、機動隊員3名の死亡の責任を取った、ということになるのかもしれないが、その杉の木に揺れる遺体をロープを切って地上で受け止めて、遺書を読み。その後、その後、じわりじわりと、遺書が効いている。その過程は、明るい顔で話をされていたが、あとで考えると、非常に恐ろしい。

この恐ろしさは、柳川さんの一途さとも関係し、また、三ノ宮さんへの感情移入とも関わっていると思う。柳川さんは、自由を尊重する人だが、ぼくには、宗教的に感じられた。遺書が聖典である。教団のない一人宗教。「ひとが死ぬと云うことは両者にとって、のっぴきならない局面に、人を追い込むということですよ」やはり、青年行動隊員だった大工の石毛博道さんが、語っていたが、敵討という性格が、以降の闘争には加わることになる。

書いていると疲れて/憑かれてくると言ったが、映画自体は、疲れない。ここが、この二人の監督の手腕なのだろう。見事なものである。

一つ、はっきりわかったのは、三里塚闘争は過去形では語れない、ということである。つまり、現在まだ続いているのである。メディアや権力は、空港が開港したので、すでに、勝負あった、と見なしている。いや、過去のものとしたがっている。だが、それは、ごく短いスパンのものの見方にすぎない。この三里塚闘争というのは、近代という大枠で考えないと、その本質が見えてこないと思う。近代は終りかけている。その一つの兆候だったのではないか。それと同じ文脈になるが、反原発の運動は、有効ではない、もっと「スマート」に国会でやればいいというようなことを述べる人もいる。だが、スマートではない「叫び」だからこそ、終わりかけている近代には有効なのである。なぜなら、それは、近代が恐れて封印してきたものだからだ。

殺し合いが正しい、暴力革命がいいと言っているのではない。感情の両義性を言いたいのである。つまり、三里塚闘争というのは、ある時期から、三ノ宮文男の自死から、宗教性を帯びてきた。この宗教性というのは、人間の人間への感情(人間が神になっていくプロセスでもある)と切り離せない。

もう一人、印象に残った人に、闘争支援者として、外部からやってきて、三里塚に住みついてしまった小泉英政さんがいる。このひとは、東京で、ベトナム反戦運動や非暴力の座り込みなどをしていたらしく、68年頃に、人に誘われてやってくる。この人のすみついた動機が象徴的である。大木よねさんという反対闘争していたおばあちゃんの気持ちに惚れたのである。養子になってしまう。よねさんは、7歳のときから、子守に出されて、読み書きはできない。一人で、どうにか、自然に囲まれて、農作業をしながら、生活ができていたところへ、土地屋敷込みで、100万で収用される話が持ち上がる。当然、生活ができなくなる。

その文字の読み書きのできない大木よねさんの「戦闘宣言」というのがある。収用される家の前に、板で横長に打ち付けた宣言文である。字が書けないので、代筆したものという。その下に横断幕が貼られ<全日本農民の名において収用を拒む>と大きな字で書かれている。その大木よねさんの戦闘宣言、なんて書いてあると思いますか。女優の吉行和子が朗読したけれど、泣きそうになって困った。

「みなさま、今度はおらが地所と家がかかるので、おらは一生懸命がんばります。公団や政府のイヌが来たら、おらは墓場とともにブルドーザーの下になってでも、クソ袋ととみさん(夫)が残して行った刀で闘います。ここでがんばらにゃ、飛行機が飛んじゃってしまうだから。おら、七つの時に子守にだされて、なにやるったって、無我夢中だった。おもしろいこと、ほがらかに暮らしたってのはなかったね。だから、闘争がいちばん楽しかっただ。もう、おらの身はおらの身のようであって、おらの身でねぇだから、おら、反対同盟さ、身あずけてあるだから、六年間も、同盟や支援の人たちと、反対闘争やってきただから、誰がなんといっても、こぎつけるまでがんばります。みなさんも、一緒に最後まで、戦い抜きましょう」

どうだろうか。現代日本の詩人で、これに匹敵できる詩を書ける詩人がいるだろうか。

そのよねさん、胆管がんをわずらってしまう。

どうも、今日は、この映画を観たので、仕事はできなくなってしまった。明日、朝からやることにして、感じたことや考えたことを述べておきたい。

さて、よねさんは、空港敷地内の東関東高速道路から、空港に入って、料金所のような処に、高速道路を分断するように、畑をもっていた。その畑は、夫の実さんと二人で開墾して畑にしたものだった。戦後、国からの払い下げがあったときに、面積の関係で、払い下げの対象にならないので、村の有力者の名義にしてもらって、実質的に、よねさん夫婦が所有し畑にしていた。ところが、その名義人が、よねさんの畑を空港公団に売ってしまう。よねさんが亡くなったので、もう、その畑は必要がない、養子がいたのは知らなかった、ということらしい。この件は、のちに、裁判になる。最終的に、国と空港公団が謝罪して、和解が成立するのだが、その「和解」は、一般的には、大金の金目をもらって、別の場所へ移転することを意味する。ところが、養子の小泉さんが採った方法は、空港敷地内に土地を戻せ、ということだった。高速道路ができてしまったから、まったく、元の場所には戻れないが、空港の敷地内に、よねさんの畑を再現するのである。

この人が、よねさんの気持ちに惚れて養子になって、その気持ちを死後も引き継いで、実現していくわけである。

さっきの柳川秀夫さんと自殺した三ノ宮文男さんの関係と同じことが、小泉英政さんと、大木よねさんにはある。柳川さんも、小泉さんも、農夫の恰好をしているが、表情は高貴で、わたしには、ほとんど聖者に見えた。



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一日一句(1183)







食べすぎて眠くなるなよ大海鼠






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