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映画『三里塚に生きる』





【三里塚に生きる】監督・撮影 大津幸四郎、監督・編集 代島治彦

久しぶりに渋谷に行った。大津幸四郎/代島治彦監督の『三里塚に生きる』を観るのが目的。なのだが、目的地に行くのに、駅から降りて30分もかかってしまった。ユーロスペースは、2、3度来ているはずなのだが、なにしろ、渋谷は久しぶりだった。南口に降りたのが、そもそも、間違いだった。まあ、それはいいとして、この映画は実に重厚だった。

三里塚と言えば、学生の頃、中核派だった先輩が、ときおり、三里塚に行っていたことや革マルとの内ゲバの様子を語ってくれことを思いだした。そのせいばかりじゃないと思うが、つまり、マスコミの報道の仕方もあると思うが、三里塚闘争は、一部新左翼の過激派が前面に出ていて、本来の主体である農民が、ぼくには、よく観えなかった。

この映画は、三里塚闘争の当時の若かった農民たちに、現在、インタビューしている。機動隊とのぶつかりあい(最終的には、殺し合いに近くなる)やなぜ、あれだけ抵抗したのか、などについて語っている。開墾した土地への愛着も、打算も生活も金目も率直に語っている。今は老いた人々が生気に溢れた瞳で語るのを聴いていると、たましいの深い処が揺さぶられる気がした。

ぼくがとくに、印象に残ったのは、二人である。いまも、葱やキャベツを栽培しながら、反対闘争を続ける柳川秀夫さんと、支援者として三里塚にやってきて、そのまま住みついてしまった小泉英政さんである。なぜ、柳川さんは、いまも、反対闘争をしているんですか。との問いかけに、三ノ宮文男の遺書の存在をあげている。三ノ宮さんと云うのは、柳川さんと同じ、青年行動隊のリーダーだった若い農民で、非常に優秀なひとだったらしい。三ノ宮さんは、1971年10月1日に自殺してしまう。亨年22。その9月には、第二次強制代執行があり、このとき、機動隊員3名が死亡している。この頃は、ほぼ、両者、殺し合いの状態だったらしい。この遺書の抜粋が、映画の中で、朗読されるが、家族一人一人と仲間に宛てた、大変、心動かされるもので、その趣旨は、「ここにずっと生き続けろ」「ここに生きる、生きられる環境を作れ」である。柳川さんは、これを正面から、真面目に受け止めている。

柳川秀夫さんに話を戻すと、闘争の渦中で、仲間だった22歳の若者が、神社で首をつってしまい、お母さんによれば、機動隊員3名の死亡の責任を取った、ということになるのかもしれないが、その杉の木に揺れる遺体をロープを切って地上で受け止めて、遺書を読み。その後、その後、じわりじわりと、遺書が効いている。その過程は、明るい顔で話をされていたが、あとで考えると、非常に恐ろしい。

この恐ろしさは、柳川さんの一途さとも関係し、また、三ノ宮さんへの感情移入とも関わっていると思う。柳川さんは、自由を尊重する人だが、ぼくには、宗教的に感じられた。遺書が聖典である。教団のない一人宗教。「ひとが死ぬと云うことは両者にとって、のっぴきならない局面に、人を追い込むということですよ」やはり、青年行動隊員だった大工の石毛博道さんが、語っていたが、敵討という性格が、以降の闘争には加わることになる。

書いていると疲れて/憑かれてくると言ったが、映画自体は、疲れない。ここが、この二人の監督の手腕なのだろう。見事なものである。

一つ、はっきりわかったのは、三里塚闘争は過去形では語れない、ということである。つまり、現在まだ続いているのである。メディアや権力は、空港が開港したので、すでに、勝負あった、と見なしている。いや、過去のものとしたがっている。だが、それは、ごく短いスパンのものの見方にすぎない。この三里塚闘争というのは、近代という大枠で考えないと、その本質が見えてこないと思う。近代は終りかけている。その一つの兆候だったのではないか。それと同じ文脈になるが、反原発の運動は、有効ではない、もっと「スマート」に国会でやればいいというようなことを述べる人もいる。だが、スマートではない「叫び」だからこそ、終わりかけている近代には有効なのである。なぜなら、それは、近代が恐れて封印してきたものだからだ。

殺し合いが正しい、暴力革命がいいと言っているのではない。感情の両義性を言いたいのである。つまり、三里塚闘争というのは、ある時期から、三ノ宮文男の自死から、宗教性を帯びてきた。この宗教性というのは、人間の人間への感情(人間が神になっていくプロセスでもある)と切り離せない。

もう一人、印象に残った人に、闘争支援者として、外部からやってきて、三里塚に住みついてしまった小泉英政さんがいる。このひとは、東京で、ベトナム反戦運動や非暴力の座り込みなどをしていたらしく、68年頃に、人に誘われてやってくる。この人のすみついた動機が象徴的である。大木よねさんという反対闘争していたおばあちゃんの気持ちに惚れたのである。養子になってしまう。よねさんは、7歳のときから、子守に出されて、読み書きはできない。一人で、どうにか、自然に囲まれて、農作業をしながら、生活ができていたところへ、土地屋敷込みで、100万で収用される話が持ち上がる。当然、生活ができなくなる。

その文字の読み書きのできない大木よねさんの「戦闘宣言」というのがある。収用される家の前に、板で横長に打ち付けた宣言文である。字が書けないので、代筆したものという。その下に横断幕が貼られ<全日本農民の名において収用を拒む>と大きな字で書かれている。その大木よねさんの戦闘宣言、なんて書いてあると思いますか。女優の吉行和子が朗読したけれど、泣きそうになって困った。

「みなさま、今度はおらが地所と家がかかるので、おらは一生懸命がんばります。公団や政府のイヌが来たら、おらは墓場とともにブルドーザーの下になってでも、クソ袋ととみさん(夫)が残して行った刀で闘います。ここでがんばらにゃ、飛行機が飛んじゃってしまうだから。おら、七つの時に子守にだされて、なにやるったって、無我夢中だった。おもしろいこと、ほがらかに暮らしたってのはなかったね。だから、闘争がいちばん楽しかっただ。もう、おらの身はおらの身のようであって、おらの身でねぇだから、おら、反対同盟さ、身あずけてあるだから、六年間も、同盟や支援の人たちと、反対闘争やってきただから、誰がなんといっても、こぎつけるまでがんばります。みなさんも、一緒に最後まで、戦い抜きましょう」

どうだろうか。現代日本の詩人で、これに匹敵できる詩を書ける詩人がいるだろうか。

そのよねさん、胆管がんをわずらってしまう。

どうも、今日は、この映画を観たので、仕事はできなくなってしまった。明日、朝からやることにして、感じたことや考えたことを述べておきたい。

さて、よねさんは、空港敷地内の東関東高速道路から、空港に入って、料金所のような処に、高速道路を分断するように、畑をもっていた。その畑は、夫の実さんと二人で開墾して畑にしたものだった。戦後、国からの払い下げがあったときに、面積の関係で、払い下げの対象にならないので、村の有力者の名義にしてもらって、実質的に、よねさん夫婦が所有し畑にしていた。ところが、その名義人が、よねさんの畑を空港公団に売ってしまう。よねさんが亡くなったので、もう、その畑は必要がない、養子がいたのは知らなかった、ということらしい。この件は、のちに、裁判になる。最終的に、国と空港公団が謝罪して、和解が成立するのだが、その「和解」は、一般的には、大金の金目をもらって、別の場所へ移転することを意味する。ところが、養子の小泉さんが採った方法は、空港敷地内に土地を戻せ、ということだった。高速道路ができてしまったから、まったく、元の場所には戻れないが、空港の敷地内に、よねさんの畑を再現するのである。

この人が、よねさんの気持ちに惚れて養子になって、その気持ちを死後も引き継いで、実現していくわけである。

さっきの柳川秀夫さんと自殺した三ノ宮文男さんの関係と同じことが、小泉英政さんと、大木よねさんにはある。柳川さんも、小泉さんも、農夫の恰好をしているが、表情は高貴で、わたしには、ほとんど聖者に見えた。



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