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一日一句(466)







虫時雨ただ一本の夜の杉






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一日一句(465)







深閑とやまだうどんの秋の空






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一日一句(464)







十月の食器の音に目覚めをり






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一日一句(463)







秋の虫ケトルの音がうち混じり






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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(15)


■旧暦8月3日、火曜日、

(写真)新蕎麦

このところ、いろいろ、忙しく、ブログ更新が一ヶ月以上も空いてしまった。その間、俳句をずっと書いていた。写真と俳句を合わせると、昔の俳画のように、面白い効果があることに気がついた。これは、むしろ、結果として出てくる客観的な効果よりも、俳句を写真が誘発する主体的な効果が大きい。この試みは、今後も、継続してみたいと思っている。

村松論が一段落して、今後の展開の余地がはっきりしてきた。話を聴いてくれた人の手ごたえもあったので、書籍化を前提に、今後深めていきたいと考えている。今、ぼくと同じように、村松に関心を持つ、韓国の近代日本文学研究者の朴裕河さんに、原稿を送って、読んでもらっている。彼女の著書『和解のために』(平凡社)は、村松論の発表後に入手したので、まだ、じっくり読んでいないのだが、パラパラ見た限り、領土問題を近代の国民国家成立と関連づける視点や従軍慰安に関するジェンダー的な視点など、はっとする部分や共感できるところが多い。



この春も盧同が男居なりにて   史邦

さし木つきたる月の朧夜   凡兆

■下僕の「居なり」を「さし木つきたる」で受けている。これは、前の句の人間世界を、自然世界に「翻訳」したものだろう。こういう展開もあり得るのか。展開は、軽く流している風に読めるが、安東次男によると、「月の朧夜」は「朧月夜」とは違って、まだ、挿し木が花木になるとは決まっていない微妙な言い回し、ということになるが、むしろ、「月の朧夜」は、「朧夜」に「月の」が連体修飾することで、月が強調・独立され、月のイメージが、「朧月夜」よりも際立つように、感じられるが、どうだろうか。





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一日一句(462)







秋の暮突如家人に手を振られ






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一日一句(461)







颱風は柱時計の音の中






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一日一句(460)







特養はいま梨園の中にあり






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一日一句(459)







特養の空に雲なし敬老会






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一日一句(458)







夜長き橋に出でたる子猫あり






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