goo

一日一句(1878)







春の灯やほのかに石の影に色






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

レヴィナスの時間論批判―<TB-LB thoery>の展開のために―






レヴィナスの時間論批判―<TB-LB thoery>の展開のために―



※ 地の文がレヴィナスのテクスト。<>がわたしのコメント。



エマニュエル・レヴィナス「時間と他人」

わたしは、この関係を、実存主義の側から、またマルクス主義の側から提起されているものとはまったく異なったものとして、示すことができればと思う。今日のところは、せめて、時間そのものがこの他人との向かい合いという状況に準拠していることだけでも、指摘しておくことにしたい。

<「時間そのもの」(時間存在ではなく)という観念的な表象から抜け出ていないが、時間が他人との関連性に準拠するという時間の社会関係的契機に着目している点は評価できる>

死がもたらす未来、出来事の未来は、まだ時間ではない。というのも、誰のものでもないこの未来、人間が引き受けることのできないこの未来は、時間の一要素となるにはやはり現在との関係に入らなければならないからである。まさしく合間を、現在と死とを隔てるまぎれもない深淵を―取るに足りないものでありながらも、しかも、それと同時に、無限のものであり、そこには常に希望のための十分な場所のあるこの余白を―かかえこんだこの二つの瞬間をつなぐ絆とは、どんなものなのだろうか。

<時間論としては、レヴィナスの問題関心は<現在と死(未来)>の関係であり、未来の出来事である死が現在との関係に入ってはじめて、死が時間になると述べている。時間として現在を重視するのは、現在が労働現場の現在である反響である。レヴィナスの議論では、なぜ、そもそも、「現在」と「未来」が生じるのか、解明されない。解明すべきもので解明している。 さらに、最大の問題である「過去」の生成がテーマ化されていない。これが問題化されなければ、「過去の操作」という大きな問題にアプローチできない。>

時間を空間に変換するのは、確かに純粋な隣接関係ではないが、しかしまた、それは呪術や持続の飛躍でもない。というのは、現在にとって、それ自身の彼方に存在し、未来を侵食するこの力は、まさしく死の神秘そのものによって排除されているように、われわれには思われるからである。

<日本語がよくわからないが、時間を空間に変換する力は、死そのものである、ということだろう。死が時間と空間の交換のポイントになっている点は興味深いが、そもそも、時間は時間存在であるから、死に至らなくても空間的規定性は受けている。だからこそ、時間の操作は空間の操作と同時に起きる>


未来との関係、現在における未来の現前は、やはり他人との向かい合いのなかで実現するように思われる。向かい合いの状況は、時間の実現そのものである、というわけだ。現在による未来に対する浸食は、単独の主体の所業ではなく、間主観的(相互主観的)関係なのである。時間の条件は、人間同士の関係のうちにないし歴史のうちに存在するのだ。

<時間の条件を人間同士の関係あるいは歴史に見ている点は、TB-LB theoryと近い。時間の本質は人間の社会関係(労働活動)である。ただし、レヴィナスの「人間」は、無色透明の非社会的実存である。人間と人間は、社会的存在として出会う。職業や社会的属性を帯びている。その本質には労働活動がある。この点で、レヴィナスの時間論は不徹底と言わざるを得ない。>

(『時間と他者』エマニュエル・レヴィナス著 原田佳彦訳 法政大学出版会 1986年 pp.72-73)

時間と他者 (叢書・ウニベルシタス)
クリエーター情報なし
法政大学出版局






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

川端康成『名人』







川端康成の『名人』を読んだ。本因坊秀哉名人の引退碁の半年にわたる実際の戦いを描いたものだが、囲碁を知らなくても、そうとうに引き込まれる。盤上の戦いが、いかに凄まじいものか、ほとんど、棋士はいのちがけで戦っている。この小説は1938年に執筆が開始されている。この年は、大陸へ大規模な動員が行われ、すでに侵略が本格化している。大陸の各地で、殺戮が行われていた年である。その気配は、この小説からはほとんど伺われない。そのことで、この小説の価値が下がるとは思えないが、戦後に完成されたこの小説の、「歴史性」は、希薄と言わざるを得ない。

よく知られているように、川端康成は、幼少から肉親の死に多く遭遇した結果、川端の小説にはどこか死の影がつきまとっている。この『名人』も、その例にもれない。不敗の名人と言われた秀哉名人が引退碁に敗北して、その戦いの最中から悪化していた心臓病が元で、死去するのだが、その二日前に川端は名人に熱海で会っている。帰りを、寂しがって引き留める名人をふり切って川端は帰るのだが、それからほどなく名人は死去する。このときのことを妻になじられて、川端が返すことばが、「止せよ、もう……。いやだ、いやだ。もう人に死なれるのはいやだ。」

これは多くの死に遭ってきた川端の本心だったろう。だが、注意しなくてはならない。この「人」には、大陸で日本軍の犠牲になった人は含まれていないのである。われわれは、されたことはよく覚えている。された者同士の想像力もよく働く。だが、いったい、なにをしてしまったのか、それを想像する力は、このノーベル賞作家をしても、難しいのである。解説の碩学、山本健吉をしても、この問題に触れることはできなかった。この名作を前にして、思うのは、作品を読む、ということは、テクスト内在的批評とテクスト外在的批評という二重のまなざしが常に求められる、ということだろう。そして、この二重のまなざしに耐えられる作品とはどういうものなのか。そこにこそ、本来の意味での「歴史性」が宿るのだろうと思うのである。

名人 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )