いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

閉鎖された塔の悲劇

2007年09月27日 00時08分06秒 | 俺のそれ
泣けた。

慣性のある生活 - ネットに何か書くことの利点を初心に帰って思い出す


閉じられた世界というのが悲しすぎる。

『Yさんは、何度も言うが、優れた切れ者だった。僕など永遠に及びも付かぬようなセンスにあふれていたし、そのセンスにおごらずに、論文と言う形に自分の思念を還元できる人だった。彼の言葉が、たった一言でもあの象牙の塔から外に出なかったと言うこの事実は、僕には凄い重たいことのように思える。』

論文に還元できたのに、その煌く才能が華開くことはなかった。重い。本当に重い。
無駄に才能を葬り去ったかのような罪悪感に苛まれる。私は勿論当事者でも関係者でもないが、世に出ることのなかったその人の文章というものに触れてみたかったと思う。こういうことを見過ごすことは、自分が加担者になった気分になってしまう。
「たった一言でもあの象牙の塔から外に出なかったという事実」は、大学という閉鎖的世界を象徴しているのかもしれず、そういう世界を許していることに何らかの責任を感じずにはいられない。

こんなことを言っても慰めにもならないだろうし、今更どうにもなるものではないのだが、指導者の問題というのはどうにもできないので、それを救済できる「道」みたいなものがあるべきなのだろうと思う。具体的には判らないのだが、隣の教室の先生とか、兎に角誰でもいいので相談できたり、教室を移動できたりする制度があった方がよいのではないかと思う。2、3年やっても、尚且つ自分の道が指導者によって閉ざされそうな時には、隣接分野の教室にでもいいから移れる方がいいのではないかな。よく判らないけれど、文学部にも色々な研究分野がきっとあるだろうから、どこかで面倒を見てもらえることにする方がいいと思う。正当な叱咤というものがあるとして、そういうのから大きく逸脱しているような教官だと一生浮かび上がれないもの。才能への嫉妬なのではないかとさえ思えてしまう。


彼は生きていてよかった。それが一番だ。
そんな教官の為に、貴重な命を失わずに済んで良かったよ。今の時代、ネットがあるから、ひっそりとでも書き続けていけば、何かの道が開けてくるかもしれない。彼には、諦めずに書いて欲しい、と願う。生きてさえいれば、書いていけば、いつかは膂力はついてくるようになるかもしれない。自分で扉をこじ開けられるようになれるかもしれない。

そんなことを思った。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。