ISOな日々の合間に

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2006年03月04日 | お楽しみ
「ローマは1日にして成らず」(下)の巻末には、ローマ、イタリア、ギリシア、オリエントにおける紀元前2000年から前270年までの出来事が載っている。中国と日本の欄もおまけのようについているが、日本ではほぼ全ての期間が縄文時代であり、最後の紀元前300年代半ばになってやっと弥生時代の四文字が登場する。たったそれだけである。

この時代のギリシア、ローマと日本とは、どの程度の文化的・歴史的差があったのだろうか?

確かに日本の歴史を調べると、日本の弥生時代は紀元前300年から紀元300年頃までとされている。紀元前300年頃の縄文時代末期、中国大陸の長江流域で発達した稲作文化を持つ人々の一部が、戦いに敗れ、ボートピープルとなって日本に渡来し、稲作や青銅器および鉄器の加工技術を伝えたといわれている。これ以降、集落や村々の間に貧富の差が大きくなり、鉄器という強力な武器を得て戦いが広がり、数百年の時を経て西暦300年頃に邪馬台国の誕生を迎えることになる。

鉄器文明ということでは、紀元前1500年頃突然現れたヒッタイトによるといわれ、この強力な鉄器を武器にメソポタミア文明を滅ぼす。ヒッタイトが紀元前1150年に滅びると製鉄技術はエジプト・メソポタミア地方に広がり、やがて紀元前900年頃にイタリア半島のエリトリア文明に伝わる。

鉄器の伝来を尺度にすると、ヒッタイトで生まれた鉄器文化が文化的下流地域に相当する日本に届くには、イタリアに較べて更に約600年掛かったことになるらしい。更に、「東海の小島の礒の白砂に」混じる砂鉄を用いてタタラ製鉄が始まったのは6世紀であったといわれている。

この意味では、日本はやはりファーイーストと言ったところだね。
Boy!(やれ、やれ。)