鳥取での二日目は米子、八橋、そして倉吉です。
朝からかなりの雨でしたので始発で向かった米子は散々なことになるかと思ったのですが、途中で雨は上がったのでラッキーでした。
その後も時折に降られはしましたが大したことはなく、まさについてる鳥取です。
まず米子で最初に向かったのが、中村一忠の菩提寺である感応寺です。
一忠は米子城に拠った米子藩の初代藩主で、感応寺は一忠が関ヶ原の戦いの後に旧城下の駿府から移ってきた際に一緒に移転がされました。
寺の背後に、その一忠の墓があります。
一忠は生駒親正、堀尾吉晴とともに豊臣氏の三中老、そもそもそういった役職があったかどうかは疑問視をされているようですが、その一人であった一氏の子です。
早くから秀吉に仕えた一氏は豊臣氏の譜代と言ってもいい家柄で、駿河駿府14万石を与えられたことからも信頼をされていたのでしょう。
しかし関ヶ原の戦いでは病床の一氏は東軍への参加を決め、戦後に一忠は伯耆米子17万5千石の国持大名となりました。
ところが一忠は20歳で病死をしてしまい、中村氏は二代で断絶となります。
そしてその一忠が大きく改築をして入ったのが米子城です。
標高は90メートルほどですのでさして高くはありませんし、おそらくは当時のものであろう石段がありますので登るのに苦労はないはずなのですが、直前まで降っていた雨のせいで足元が滑ったのには難渋をしましたし、登るよりも降りる方が大変だったのはいつものことです。
残念ながら明治に入ってから破却をされてしまい建物は何も遺っていませんが、なかなかに石垣は見事でした。
写真は左から内膳丸に至る石垣、内膳丸跡、鉄御門跡です。
近世の米子城は吉川広家が築き始めたもので、天守にはその広家の建てた四重の天守閣と、一忠の建てた五重の天守閣がありました。
説明には天守閣と四重の櫓とありましたので、あるいは広家のそれは櫓の扱いとされたのかもしれません。
登り口から見て奥の方に天守閣のものと思しき礎石がありましたが、広家と一忠のどちらのものかはよく分かりませんでした。
こちらは清洞寺跡です。
元は一忠の後に米子城主となった加藤貞泰が父の菩提を弔うために建立をした本源寺で、貞泰が伊予大洲に移った後に入った池田由之が海禅寺を、その後に入った荒尾氏のときに禅源寺、泰蔵寺、了春寺と寺号が変わり、そして別の場所に移されました。
その跡地に荒尾氏の家臣の村河氏の菩提寺として清洞寺が建てられ、今に至っています。
そういった変遷がありつつも、貞泰が建てた五輪塔、由之の子の由成が建てた五輪塔はそのままとなっています。
加藤貞泰の父の光泰は美濃の出身で、斎藤氏に仕えましたが織田氏に滅ぼされた後は木下秀吉の家臣となりました。
秀吉の出世とともに甲斐甲府で24万石を与えられるまでになりましたが、朝鮮の役で病死をします。
また池田由成の父の由之は元助の子で、輝政の甥にあたります。
輝政が大身となるにあたって引き立てられて家老となり、天城池田氏の初代がこの由之です。
写真は左が光泰、右が由之です。
妙興寺には横田村詮の墓があります。
村詮は中村一氏の妹を娶って家老となり、一氏が没した後は甥にあたる一忠を支えて米子藩の基礎固めに力を発揮しました。
しかしそれを妬む一忠の側近の讒言で謀殺をされてしまい、その騒動の際に柳生宗矩の兄の五郎右衛門宗章が横田氏に付いて奮戦の後に討ち死にをしたのは有名な話です。
ちなみに村詮の出自は阿波三好氏で康長の甥とも言われていますので長慶の従兄弟になりますが、はっきりとしたことは分かっていません。
その墓は破損をしたことでレプリカと置き換えられていますが、それにしてもこの色はないだろうとの理由は本堂の前にありました。
誰がどう見てもレプリカと分かるようにすることで「本物はどこ?」の注意喚起をすることが目的ではないかと、そう勝手に想像をしています。
そうでなければこの色はありえません。
墓石の縁の部分がかなり劣化をしているようで、讒言をした一忠の側近が幕府に何の申し開きもさせてもらえずに切腹に処せられるなどしたことからして有能かつ忠義の士として評されていたのでしょうから、それにあやかって墓石を削って持って帰る人もいたのでしょう。
米子の次は八橋です。
八橋には鳥取池田氏の家老で、伯耆八橋で8000石を領した津田氏の菩提寺の体玄寺があります。
その初代の元綱は平姓津田氏、つまりは織田氏の一族と名乗っていますが、詳しい出自は分かっていません。
もっともそんな体玄寺の目的は津田氏ではなく、中村一栄の墓です。
一栄は一氏の弟で一忠の叔父にあたり、一忠が米子城主だったときに後見役として八橋城にありましたが横田村詮が誅された翌年に病死をしています。
その墓は本堂の脇の扉を抜けた先にありますので、お寺の方に案内をしていただきました。
もちろん体玄寺は津田氏の菩提寺ですので、その墓所もあります。
池田氏とともに鳥取に移ってきたときの当主は三代の元匡ですが、その子の元茂のときに菩提寺に定められましたので以降の代々の墓があります。
家老とは言えども陪臣ですので事績などはよく分からず、その血脈を辿るのが精一杯でした。
右の写真が元茂です。
元茂の跡は元長、元善と続きましたが、そこで血が絶えたために同じ家老の荒尾氏から元知が入ります。
元知から元武、元義と続くものの再び荒尾氏から元謨が入り、その後は元謨の子の元貞、元統、元亮が立て続けに継ぎましたのですっかりと荒尾氏に乗っ取られた形ではあります。
あるいは女系として続いていたのかもしれませんが、上位の家老職である荒尾氏からの介入から逃れられなかったのかもしれません。
写真は上段左から元長、元善、元知、元武、元義、元謨、元貞、元統、元亮です。
電車待ちの時間があったので、駅前にある八橋城跡に足を運びました。
そうは言いながらも登るのに数分もかからないぐらいで、JRの開通でがっつりと分断をされてしまったことで遺構も何もありません。
それこそ時間があれば言ってみてもいいのでは、程度のものです。
この日の最後は倉吉で、まずは定光寺です。
目的は南条氏の墓所だったのですが、そこに至る道が工事中でしたのでお寺の方に聞いたところ、かなり遠回りをする必要があるとのことでした。
うーん、と唸ってしまったところ「あなたなら大丈夫かな、気をつけてくださいね」と許可をいただき、足元を確かめながらの墓参りです。
南条氏は伯耆の国人で、戦国期には尼子氏、そして毛利氏に属しました。
宗勝、その子の元続と羽衣石城に拠って乱世を生き抜きましたが、元続の子の元忠は関ヶ原の戦いで西軍についたことで改易となってしまい、大坂の役では大坂城に入城をしたものの裏切りが発覚をして切腹となり、ここで南条氏の嫡流は途絶えることになります。
写真は左から元続、元忠、そして元続の弟で元忠の叔父にあたる元秋です。
大蓮寺には脇屋義助の墓があります。
義助は新田義貞の弟で鎌倉末期から南北朝争乱にて活躍をした武将ですからやや守備範囲から外れるのですが、さして遠くないところにあるので寄ってみたといった感じです。
その義助は伊予で没しましたので墓がなぜに伯耆にあるのか、そのあたりの説明はありませんでした。
南朝を支えた義貞が討ち死にをした後も義助は新田一族をまとめてよく戦いましたが、四国に渡って暫くして38歳で病死をしました。
その後は子の義治、孫の義則も北朝と戦い抜いたものの力尽きて、脇屋氏のその後は不明です。
義貞の子である義顕、義興、義宗、義宗の子である貞方も南朝の忠臣として北朝に抗い続けましたが、その奮戦が報われることはありませんでした。
そして倉吉の一番の目的である大岳院です。
中村一栄の菩提寺ですので墓所もこちらにあってもよいのでは、とは余談で、ここには里見忠義の墓があります。
安房館山の2代藩主だった忠義は正室に大久保忠隣の孫娘を迎えていましたが、その忠隣が失脚をした余波で改易をされて倉吉に流されてしまい、この地で没しました。
忠義が没した際に側近の8人が殉死をしましたが、その戒名にいずれも「賢」が入っていることから八賢士と称されており、これが滝沢馬琴の南総里見八犬伝のモデルになったのではないかとの説もあるようで、当然のようにここ大岳院はその説を採っています。
里見氏墓所の両側の八基がその八賢士の墓と言われているとは、倉吉観光マイス協会に問い合わせをした際に教えてもらいました。
その他は里見忠義、正木時堯、堀江頼忠のものだとの情報は事前に掴んでいたのですが、どれがどれにあたるかはWEBで見ても諸説紛々のようで、それでも中央の一番に大きい墓の左が里見忠義、右が堀江頼忠というのはほぼ一致をしていましたし、右のそれは能登守の文字が読み取れましたので堀江頼忠で間違いはないでしょう。
そうなれば左が里見忠義でよいのか、正木時堯のものが中央のそれなのかになりますが、やはり倉吉観光マイス協会の回答では「大岳院さんに確認しました結果、専門家の最新の見解としては、中心にある最も高いのが正木大膳、正木大膳のすぐ右隣りが能登守、正木大膳のすぐ左隣りが里見忠義」でしたので、これが公式な見解になります。
写真は左から里見忠義、正木時堯、堀江頼忠です。
そして墓所を見守るかのように、八匹の犬が周りに配されています。
もちろん大岳院の方の遊び心と言いますか、南総里見八犬伝を意識した演出なのですが、ちょっと微笑ましくもなります。
それでいて「南総里見八犬伝の里」みたいな大々的なアピールをしているわけでもなく、このバランス感覚が何とも言えません。
こちらは山名寺です。
山名時氏の菩提寺で、山名氏の隆盛を築いた時氏の墓があります。
山陰地方で長きに渡って勢力を誇った山名氏は、この時氏から始まりました。
墓所は境内のやや奥を登っていったところにあり、お寺の方に場所を教えていただいて向かいました。
登り口には山名氏の一族の墓碑がまとめてあり、五輪塔や宝篋印塔の一部しか無いものもありましたので、当然のように誰のものかは分かっていないのでしょう。
また山名寺は三明寺古墳の方が有名なようで、山陰最大級の横穴式石室とのことですが興味外なのでスルーです。
山名氏は初代の義範が新田義重の子ですので新田一族ですが、しかし時氏は足利氏の縁戚である上杉重房の娘が母であることから南北朝の争いに際しては北朝に与して、伯耆・出雲・隠岐・因幡・若狭・丹波・丹後の守護になるなど山陰地方に根を張っていきます。
時氏の嫡男の師義は一門で全国の66ヶ国のうちで11ヶ国を領したことから「六分ノ一殿」と呼ばれましたが、師義の死後にそれを危険視した足利義満に手を突っ込まれて一門で跡継ぎにかかる内紛が勃発し、そして最後は明徳の乱でとどめを刺されました。
しかし再び持豊、宗全の名の方が有名ですが、じわじわと勢力を盛り返して応仁の乱の一方となり、その後は徐々に衰えて鳥取城の豊国が最後の輝きになります。
その時氏の墓は中央がえぐれたかのような不思議な風化の仕方で、まるでリンゴの芯を見るかのようです。
まだ暗くなるには少し時間があったので、打吹城跡に寄ってみました。
延々と続く整備をされた道を15分弱も歩けば、櫓を模した展望台まで行き着きます。
打吹城は山名師義が守護所とした城で、戦国期には南条氏が領しました。
その展望台は中に何かの展示がされているわけでもなく、かなり荒れ放題で、何を期待していたわけでもないのですが、ちょっとガッカリとしたのが正直なところです。
【2013年8月 鳥取、岡山の旅】
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