オリオン村(跡地)

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いざ北国へ 史跡巡り篇 新発田、長岡の巻

2009-01-22 22:55:25 | 日本史

 

山形から日本海側に抜ける途中で吹雪いた天候に遭遇したため、雪国の印象が強い新潟はどうなっているのかと恐怖していたのですが、これがまた驚くぐらいに雪がないという私の常識を覆すような風景が飛び込んできました。
新発田の市街地などは皆無と言ってもいいぐらいで、道ばたに少し残っている程度でした。
冬鳥である鴨がわずかに雪が残っている新発田城の堀にたむろっていましたが、暖冬の影響が北国にもあるのでしょうか。

駅から徒歩20分、ひたすら歩いた私を待っていたのは冬季閉館のお知らせでした。
ほとんど雪が残っていないのに何故に閉館なのかと愚痴りたくもなりましたが、これも事前調査不足と言いますか、思いつきで下車をしたので仕方がありません。
こういったアクシデントも旅の楽しみの一つと、前向きに心を奮い立たせました。

新発田城の表門です。
江戸時代からの遺構で国の重要文化財に指定をされていますが、当然ながら閉館中ですので門は固く閉ざされています。
通る人も少ないこともあってか、ここだけは不思議なぐらいに雪が残っていました。

こちらも同じく江戸時代からの遺構で、国の重要文化財に指定をされている二の丸隅櫓です。
新発田城と言えば上杉謙信の家臣であった新発田長敦や重家を思い浮かべますが、これらの遺構は上杉家が会津に移封された後に入った溝口秀勝が築城し、孫の宣直の頃までに完成させたものとのことです。

辰巳櫓は2004年の再建とのことですので、見るのは初めてのはずです。
おそらく前回に訪れた際には石垣のみであったと思われ、江戸時代の遺構に遜色のない再建がされているようで驚きました。
調べてみたところ明治初頭に撮影された古写真などを資料として考証・設計された在来の伝統的手法による復元の計画が進められたそうで、内部が公開されているらしいので次は開館している時期に訪れてみたいと思います。

さて、問題の三階櫓です。
辰巳櫓と同じく2004年に再建された、実質的には天守閣の役割を担っていた建物です。
しかし辰巳櫓とは違って内部の公開はされておらず、これは近接する自衛隊駐屯地との関係によるものだと思われ、上から覗き見られることを嫌った結果なのでしょう。
決して不快感を覚えた自衛官との遭遇による偏見ではないと、自分ではそう思っています。

そもそも位置関係的に、新発田駅から一番近い二の丸隅櫓から時計回りに歩けば三階櫓にはすぐに接近できていたものを、反時計回りに歩いたのが間違いの元でした。
よくよく考えてみると白石城でも上山城でも城の周りを回るときには反時計回りに歩いており、これは無意識な動きであることは間違いありません。
右利きだからか、あるいは心臓が左にあるからか、などの理由は必ずあると思うのですが、陸上のトラック競技も反時計回りですし、これが人間の摂理なのかもしれません。

表門の背後の空き地に、忠臣蔵で有名な堀部安兵衛の像がありました。
安兵衛は新発田藩の初代藩主である溝口秀勝の曾孫にあたるそうで、そんな所以もあっての像なのでしょう。
浪人というイメージがあった安兵衛が、実際に父が溝口家を追われて生まれながらの浪人なのですが、しかし母が藩主に繋がる由緒正しい出自だとは知りませんでした。

2日目の史跡巡りは新発田を最後にし、国盗りの都合もあって会津若松で2泊目の宿を取りました。
ぎりぎりまで会津若松城を訪れるかどうか迷ったのですが、下手をすると自宅までたどり着けなくなりそうだったので我慢をして、最終日となる3日目を迎えます。

3日目は初日と同じく千葉まで戻るための移動時間を要するために、史跡巡りは長岡のみとなりました。
その長岡でも駅にほど近い城跡のみで、旅の最後を飾るものとしては消化不良気味ではありました。
しかも二の丸跡の隣にある駐車場か何かの空き地で食の祭典みたいな催し物が開かれており、人が溢れかえっていて写真を撮るのにも一苦労でした。
この土地利用についてのアンケートをとっていたので「旅人にとっては邪魔なので配慮が欲しい」と書きましたが、これが偽らざる気持ちです。

駅前には本丸跡がありました。
以前に訪れたときには気がつかなかったのですが、今回は子どもがキャーキャー騒いでいるのに注意を引かれて振り向いたことで気がついたのにはラッキーでした。
もっとも石垣らしきものが残ってはいるものの、これが当時のものかどうかは分かりません。
どうやら長岡駅自体が本丸跡に建てられているそうで、当時の遺構はほとんど残っていないとのことです。

長いようで短かった、3日間64時間にわたる旅もこれで終わりです。
史跡巡りが5ヶ所に過ぎなかったのをどう見るかは微妙なところですが、これだけの距離を移動したのですから仕方がないかなと思っています。
学生時代であれば当時はワイド周遊券なる便利なきっぷがありましたので、おそらくは1週間はかけて回るぐらいの地域を3日間で走り抜けたわけですし、国盗りも史跡巡りも出発するときに目論んでいた以上の収穫がありましたので、自分としては満足のいく旅であったと思います。


【2009年1月 東北・北陸の旅】
いざ北国へ
いざ北国へ 旅情篇
いざ北国へ 旅程篇
いざ北国へ 史跡巡り篇 白石の巻
いざ北国へ 史跡巡り篇 山形、上山の巻
いざ北国へ グルメ篇

 

コメント (3)

2008年通信簿 126 田村領平

2009-01-22 21:35:33 | 千葉ロッテ

126 田村領平 投手 24歳 年俸240万円

【2008年成績】 E 11試合 0勝0敗0S 防御率9.00 13回 24被安打 3被本塁打 7与四球 2与死球 4奪三振

ロッテの育成枠選手の中では唯一の支配下選手登録経験者である田村ですが、そんなことは関係がないぐらいに打ち込まれたシーズンでした。
さすがにこのままでは育成枠と言えども短期間での解雇もありえる、そんな土俵際に追い詰められていると思いますので、奮起を期待をしたいところです。

阪神を解雇されたとは言っても2軍での成績は防御率が3点台、そしてイニング数以上の奪三振を誇っていた田村ですから、育っているどころか衰えているようにも見えます。
制球、球威ともダメダメでなければここまでの成績にはならないでしょうから、ちょっと厳しいような気がします。
高校時代は注目をされていた左腕でしたのでそれなりの期待をしていたのですが、やはり解雇されるだけの理由があったというところでしょうか。

しかし田村としてはそんなことも言ってはいられません。
とにかくラストイヤーだと思って、死ぬ気で2009年のシーズンに臨むしかありません。
同じぐらいの力でしたら左腕が重宝されるチーム事情をアドバンテージと考えて、何か特徴のあるピッチングを目指してもらいたいと思います。


【オリオン村査定】 240万円 → 240万円 (±0%)