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オリオン村(跡地)

千葉ロッテと日本史好きの千葉県民のブログです
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いざ北国へ 史跡巡り篇 新発田、長岡の巻

2009-01-22 22:55:25 | 日本史

 

山形から日本海側に抜ける途中で吹雪いた天候に遭遇したため、雪国の印象が強い新潟はどうなっているのかと恐怖していたのですが、これがまた驚くぐらいに雪がないという私の常識を覆すような風景が飛び込んできました。
新発田の市街地などは皆無と言ってもいいぐらいで、道ばたに少し残っている程度でした。
冬鳥である鴨がわずかに雪が残っている新発田城の堀にたむろっていましたが、暖冬の影響が北国にもあるのでしょうか。

駅から徒歩20分、ひたすら歩いた私を待っていたのは冬季閉館のお知らせでした。
ほとんど雪が残っていないのに何故に閉館なのかと愚痴りたくもなりましたが、これも事前調査不足と言いますか、思いつきで下車をしたので仕方がありません。
こういったアクシデントも旅の楽しみの一つと、前向きに心を奮い立たせました。

新発田城の表門です。
江戸時代からの遺構で国の重要文化財に指定をされていますが、当然ながら閉館中ですので門は固く閉ざされています。
通る人も少ないこともあってか、ここだけは不思議なぐらいに雪が残っていました。

こちらも同じく江戸時代からの遺構で、国の重要文化財に指定をされている二の丸隅櫓です。
新発田城と言えば上杉謙信の家臣であった新発田長敦や重家を思い浮かべますが、これらの遺構は上杉家が会津に移封された後に入った溝口秀勝が築城し、孫の宣直の頃までに完成させたものとのことです。

辰巳櫓は2004年の再建とのことですので、見るのは初めてのはずです。
おそらく前回に訪れた際には石垣のみであったと思われ、江戸時代の遺構に遜色のない再建がされているようで驚きました。
調べてみたところ明治初頭に撮影された古写真などを資料として考証・設計された在来の伝統的手法による復元の計画が進められたそうで、内部が公開されているらしいので次は開館している時期に訪れてみたいと思います。

さて、問題の三階櫓です。
辰巳櫓と同じく2004年に再建された、実質的には天守閣の役割を担っていた建物です。
しかし辰巳櫓とは違って内部の公開はされておらず、これは近接する自衛隊駐屯地との関係によるものだと思われ、上から覗き見られることを嫌った結果なのでしょう。
決して不快感を覚えた自衛官との遭遇による偏見ではないと、自分ではそう思っています。

そもそも位置関係的に、新発田駅から一番近い二の丸隅櫓から時計回りに歩けば三階櫓にはすぐに接近できていたものを、反時計回りに歩いたのが間違いの元でした。
よくよく考えてみると白石城でも上山城でも城の周りを回るときには反時計回りに歩いており、これは無意識な動きであることは間違いありません。
右利きだからか、あるいは心臓が左にあるからか、などの理由は必ずあると思うのですが、陸上のトラック競技も反時計回りですし、これが人間の摂理なのかもしれません。

表門の背後の空き地に、忠臣蔵で有名な堀部安兵衛の像がありました。
安兵衛は新発田藩の初代藩主である溝口秀勝の曾孫にあたるそうで、そんな所以もあっての像なのでしょう。
浪人というイメージがあった安兵衛が、実際に父が溝口家を追われて生まれながらの浪人なのですが、しかし母が藩主に繋がる由緒正しい出自だとは知りませんでした。

2日目の史跡巡りは新発田を最後にし、国盗りの都合もあって会津若松で2泊目の宿を取りました。
ぎりぎりまで会津若松城を訪れるかどうか迷ったのですが、下手をすると自宅までたどり着けなくなりそうだったので我慢をして、最終日となる3日目を迎えます。

3日目は初日と同じく千葉まで戻るための移動時間を要するために、史跡巡りは長岡のみとなりました。
その長岡でも駅にほど近い城跡のみで、旅の最後を飾るものとしては消化不良気味ではありました。
しかも二の丸跡の隣にある駐車場か何かの空き地で食の祭典みたいな催し物が開かれており、人が溢れかえっていて写真を撮るのにも一苦労でした。
この土地利用についてのアンケートをとっていたので「旅人にとっては邪魔なので配慮が欲しい」と書きましたが、これが偽らざる気持ちです。

駅前には本丸跡がありました。
以前に訪れたときには気がつかなかったのですが、今回は子どもがキャーキャー騒いでいるのに注意を引かれて振り向いたことで気がついたのにはラッキーでした。
もっとも石垣らしきものが残ってはいるものの、これが当時のものかどうかは分かりません。
どうやら長岡駅自体が本丸跡に建てられているそうで、当時の遺構はほとんど残っていないとのことです。

長いようで短かった、3日間64時間にわたる旅もこれで終わりです。
史跡巡りが5ヶ所に過ぎなかったのをどう見るかは微妙なところですが、これだけの距離を移動したのですから仕方がないかなと思っています。
学生時代であれば当時はワイド周遊券なる便利なきっぷがありましたので、おそらくは1週間はかけて回るぐらいの地域を3日間で走り抜けたわけですし、国盗りも史跡巡りも出発するときに目論んでいた以上の収穫がありましたので、自分としては満足のいく旅であったと思います。


【2009年1月 東北・北陸の旅】
いざ北国へ
いざ北国へ 旅情篇
いざ北国へ 旅程篇
いざ北国へ 史跡巡り篇 白石の巻
いざ北国へ 史跡巡り篇 山形、上山の巻
いざ北国へ グルメ篇

 

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いざ北国へ 史跡巡り篇 山形、上山の巻

2009-01-21 22:17:22 | 日本史

 

2日目は夜明けとともに山形城に足を踏み入れたのですが、ここで1つの誤算がありました。
今回の史跡巡りの目的に、訪れたことのない白石城と、数年前に再建されたらしい山形城の二の丸東大手門を挙げていたのですが、この二の丸東大手門がどう見ても見覚えがあり、帰ってから確認をしたところ二の丸東大手門の再建は1991年で鳴子温泉に行った際に足を伸ばして訪れており、2006年に再建をされたのは一文字門の大手橋とのことでした。
完全に事前確認ミスで、そもそも一文字門なるものも知りませんし、何のために5時半に起きたのか分からないような山形城となりました。
もっとも一文字門や高麗門は今年に復元が終わるらしいので、次の機会に大手橋とともに訪れてみたいと思います。

せっかくですので山形城の二の丸東大手門です。
天気は悪くはなかったのですが、さすがに完全に夜が明ける前ですので薄暗い感じがあるのはご容赦ください。
どうやら前日から夜にかけて雪だったようで、確かに山形入りをする電車の途中では吹雪いたりしていたのですが、時間も早かったこともあって新雪を踏みしめることになりました。

城外から最初の門をくぐって内側から見たところで、白石城風に言えば、これが一ノ御門にあたるのでしょうか。
白石城に比べれば規模の違いは明らかで、伊達氏の支城であった白石城と、羽州で覇を唱えた最上氏の本城との差をまざまざと見せつけられた感じがします。

白石城風に言えば二ノ御門になり、ここを通れば城内に至ります。
まだ月が見えている時間帯で、さすがに寒さを感じました。

城内から二の丸東大手門を撮影したものとなります。
これだけの規模となったのは最上氏改易後に鳥居氏ら譜代大名が入城してからなのかもしれませんが、羽州を統べる城としての風格はさすがなものがあります。

山形城と言えばお約束の最上義光像です。
学生時代に最初に訪れたときにはこの像しか無く、かなり寂しい思いをしたことを記憶しています。
もっとも今の二の丸東大手門あたりの石垣に足場が組まれていましたので、まさに再建中だったのでしょう。
最上義光歴史館の開館も1989年でしたし、私の学生時代を考えればいい時代になったものです。

次に訪れたのがかみのやま温泉にある上山城で、山形にほど近いこともあって積雪量も似たようなものでした。
開門前でしたので通路の雪かきも済んでおらず、むこうづねまで沈みながら城の周りをぐるっと回った後に足湯のお世話になったのは旅情篇に書いたとおりです。

と言うことで、開門までの待ち時間に城の周りをぐるっと一周してみた写真になります。
時間が許す限りは城の周りを回って歩くのが私の史跡巡りの基本であり、それは冬場に雪をかき分ける必要があっても変わりはありません。
上段右の写真の背後に足湯があり、また下段の左と中の写真を撮るために30センチはあろうかという新雪に足跡を残しました。

天守閣から見た上山市街です。
これも私の史跡巡りのお約束の1つで、天守などに登った場合にはそこから市街の風景をカメラに収めることにしています。
ファインダー越しにはなるのですが、撮影のために集中することで記憶が強く残り、後日に再び訪れた際には脊髄で行動できるのは富山城で実践済みです。
ちなみに天守閣とは書きましたが、上山城は残念ながら鉄筋コンクリートの模擬天守で、エレベーターが完備されているという代物です。

雪の多い内陸部での史跡巡りはこれで終わり、米沢を経由して日本海側に抜けることになります。
予定よりも早く山形を出たことで欲張って新発田で下車したことが、人生初体験の自衛官との遭遇に繋がりました。


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いざ北国へ 史跡巡り篇 白石の巻

2009-01-20 22:25:28 | 日本史

 

日本史が好きな私の旅の目的には、当然ながら史跡巡りが含まれます。
と言いますか、学生時代から史跡巡りを目的として旅をしてきたという表現の方が正しいです。
残念ながら景色を愛でるような感覚よりは、城跡や博物館、墓所などを訪れたいという気持ちの方が非常に強いのが私という生き物です。
沖縄以外の都道府県は全て足を踏み入れていますし、数多くの史跡を巡ってきました。
それでも交通の便や時間の都合などの理由で未踏の地はまだまだ多く、今回はそんな地を訪れることを楽しみに旅立ちました。

最初に訪れた白石城も、そんな場所の1つです。
東北地方は学生時代に何度か訪れているのですが、再建されたのが1995年で社会人になってからですから、ポッカリとエアポケットに入った存在でした。
白石市街はほとんど雪が残っていなかったのですが、この北側にあたる石垣などが北国らしい美しい白い衣装をまとって私を出迎えてくれました。

白石城は伊達政宗の片腕であった片倉景綱が関ヶ原合戦後に城主となって以降、幕末まで片倉氏の居城とされてきました。
他の多くの城郭と同様に明治維新後に破却されましたが、地元のシンボルとして再建されたそうです。

再建城郭の多くが鉄筋コンクリートであるのに対して、白石城は木造で再建されていることが好感できます。
コンクリートの床にエレベーターがあるというのでは趣きもへったくれもなく、費用面や維持管理の問題はあるのでしょうが、他の自治体にも見習ってもらいたいものです。
ちなみに右の写真は三階櫓、実質的には天守閣として機能していたものを幕府にはばかって櫓と呼んでいたらしいのですが、そこからの白石市街です。
中央にある大きな建物が城に併設されている歴史探訪ミュージアムで、片倉氏の甲冑などが展示されており、また片倉景綱らを題材とした3Dシアターの上映がされているらしいのですが、残念ながら開演時間までの待ち時間がかなりあったために今回は見送ることにしました。

こちらは同時に再建された、大手一ノ御門と大手二ノ御門です。
上の大きな造りが二ノ御門、下の小さな造りが一ノ御門になります。

城外から一ノ御門を通ると二ノ御門が控えており、そこをくぐると城内に至るといった道筋となります。
これらは本丸のみの遺構で、城郭としては二の丸などを含めてもう少し規模は大きかったのだと思いますが、非常に綺麗にまとまった再建がされていると感じました。

白石では白石城以外を回る予定は無かったのですが、城跡に二の丸大手門が市街の当信寺に移築されているとの看板があったため、足を伸ばしてみました。
これも白石駅で無料レンタサイクルのサービスがあったからこそで、こういった配慮は旅人には非常に助かります。
ちなみに当信寺には東口門との案内が立っており、これが二の丸大手門と同じことを指しているようです。

当信寺の境内には、真田信繁の次男である真田大八と、娘の阿梅の墓がありました。
手のような形のものが阿梅の、石碑のような形のものが大八の墓です。
真田信繁の嫡男である大助は父とともに大坂の陣で果てましたが、大八と阿梅ら4人の子供は片倉景綱の子である重長に保護されています。
大八はその後は片倉守信と名乗り、また阿梅は重長の後室に入ります。
守信の子である辰信が真田姓に復し、仙台真田氏として今に続いていますが、途中で養子が入っているようですので信繁の血が続いているかどうかは分かりません。

初日は東北入りをするまでの移動時間がかかったために、史跡巡りは白石のみとなりました。
そのまま仙台を経由して山形に入り、次の日を迎えることになります。


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ぶらり各駅電車の旅

2008-10-20 23:10:26 | 日本史

 

先週の半ばに体調を崩したことを愚痴っていたら、知人に体を動かさないからだと指摘されました。
運動しないことで毒素がたまって体に悪さをする、といった宗教がかった話は軽くスルーしましたが、ここのところ出不精に拍車がかかっていることは確かです。
しかし急にランニングなどをしたら膝を痛めることが必至ですし、その気力もないため、軟弱者の私は旅に出ることにしました。

旅のどこが運動かと思われるかもしれませんが、これがなかなか適度に体を動かすには最適だったりします。
私の場合はケータイ国盗り合戦をやっているので旅とは言っても各駅電車の旅で、時間つぶしの本などを入れた重みのあるカバンを背負って、各駅ですから乗り換えも多く階段の上り下りやダッシュも必要になりますので、実はいい運動になります。
どこかを観光する目的もなく、学生時代に戻ったような時刻表を片手の行き当たりばったりの旅で、今回は東海道を上って京都まで行き、そこから北上して敦賀に抜け、さらに日本海側を直江津まで行った後に甲府まで南下し、そこから船橋まで戻るという旅程と相成りました。

利用したのは「鉄道の日記念きっぷ」で、これは1872年10月14日に新橋~横浜間に日本最初の鉄道が開通したことを記念した「鉄道の日」にちなんで、毎年10月の一定期間にJR全線が乗り放題となるものです。
あまり知られてはいないでしょうが、有名な「青春18きっぷ」と同じ様なものと考えればいいと思います。
「青春18きっぷ」が5回(人)分で11500円なのに対して、こちらは3回(人)分で9180円と高いのですが、それでも普通に運賃を払うよりは安く済みます。
今年の利用期限が19日まででしたので使い切れずにお得さ加減は目減りはしましたが、途中下車が自由というメリットが大きいため、そこは目をつぶりました。

観光が目的ではないとは言っても、各駅電車ですからどうしても待ち時間が発生します。
そこで駅の近くに史跡などがある場合は、割と駆け足になってさらに運動になるのですが、きっちりと訪れてきました。
トップの写真は富山城で、北陸に行ったのは大河ドラマで「利家とまつ」が放映されていた2002年以来ですから6年ぶりです。
学生時代からあちらこちらに旅をしていましたし、かなり思い入れの強い性格であるため、6年経っても史跡の周りは地図を見ることなく歩き回れます。
前回に富山城を訪れた際も今回と同様に早朝で、その時間帯は富山城趾公園からは逆光になるため、脊髄反応で反対側に迷いもせずに行ったときには我ながら感動しました。

とは言え6年も経つと変化はあるようで、再建された鉄筋コンクリートの模擬天守閣とは違い、当時の唯一の遺構である千歳御門が民家から移設されていました。
観光案内所の人に聞いたところ、どうやら昨年ぐらいに引越作業が行われたようです。
こんなに大きな門があった民家とはどんなものかとは思いますが、こういった遺構が大切に保存されていることは喜ばしい限りです。
たまたまこの日は富山県知事選挙の投票日でしたが、当選された現職の知事さんには、こういった史跡の保存に力をいれていただきたいと思います。

ところで件の城趾公園ですが、庭園が白いコンクリートで塗り固められ、無機質な物体がいくつか立ち並んでいました。
城跡にはそぐわない異様な光景で、それこそ何か宗教関連の施設ではないかと思えるような感じです。
あれはいったい何なのか、かなり気になります。

こちらは初日に訪れた長浜城で、長浜駅から徒歩5分ちょっとのところにあります。
僅か20分ほどの待ち時間でしたので写真を撮るだけで終わってしまいましたが、やはり城を見ると興奮します。
ちなみに秀吉が最初に城主となった城として有名な長浜城ではあるのですが、模擬天守閣は当時とは姿が違うそうです。

電車での旅と言えばやはり駅弁、これは敦賀駅で買った鯛鮨です。
ます寿しも売っていたのですが、ます寿しの本家は富山県ですし、鯛鮨も有名だとお店の人に薦められてこちらにしました。
ますの代わりに鯛というだけで変わり映えもなく、ちょっと失敗した気分です。

こちらが本家本元のます寿しで、富山駅に堂々たる店構えで販売していました。
似たようなものを前日に食べましたし、朝っぱらから寿しってのはどうよ、と思って今回は見送りましたが、かなりのお客さんで繁昌していたようです。

時間つぶしに本をかなり持っていったのですが、結局は運動のための重りの役目しか果たしませんでした。
久しぶりの旅で忘れていたのですが、都心にしか住んだことがない自分にとっては車窓からの景色を眺めるだけでかなり楽しめます。
のどかと言ったらそこで生活している方には失礼になるかもしれませんが、延々と続く田園や久しぶりの日本海などの風景にぼーっとしているうちに、肝心の国盗りや城盗りを忘れそうになるぐらいの癒しになりました。
もっとも所々に置き捨てられたような建物や建築資材などを見ると、やはり地方は公共事業などがなければ苦しいのだろうかと考えさせられたりもします。
とは言え誰も乗り降りしない駅がいくつも続いたり、田圃が広がる中に高速道路建築のためと思われる橋桁のようなものを見ると、税金の無駄遣いではないかとも感じます。
もちろん土地の方からすれば必要な道などなのでしょうし、史跡巡りなどで旅をすることが好きな私としては無人駅と言えども電車で訪れることができるのは助かるのですが、巨額な税金が投入されていることを考えれば複雑な気分です。
もっと国税よりも地方税の割合を高くし、その地方で得られた税収の範囲内で優先順位をつけて投資していくのが正しい姿ではないでしょうか。
都心に住んでいる者の我が儘な部分もあるのでしょうが、やはり自分たちが収めた税金が公共事業という名で地方にばらまかれている、田圃の中にそびえ立つ建築物などを見るにつけ、その思いが拭えないのが正直なところです。

公共事業と言えば、大河ドラマこそが究極の公共事業ではないかと思います。
前回に金沢を訪れたときも金沢城で「利家とまつ」にちなんだ博覧会が開かれていましたし、来年の大河ドラマである「天地人」の主人公である直江兼続、彼にちなんだ土地では既に村おこし、町おこしが始まっているようです。
こういった機会にその土地を訪れれば、資料館などで珍しいものを見られることも多いので、来年にまた訪れてみたいと思います。

以前にもちょっと書きましたが、やはり旅は心が洗われてリフレッシュできます。
今回はケータイ国盗り合戦が中心でしたのでライフワークの史跡巡りはおまけに過ぎませんでしたが、のんびりと土地の人と交流するような旅をしてみたい、学生時代と同じ様なスタイルの旅がしたいとの思いは強くなりました。
なかなか社会人ともなると時間が取れませんし、宝くじが当たって第二の人生が始まるのがいつになるかわからないのですが、次回は国盗りや城盗りと史跡巡りのバランスをとった旅にしたい、そう強く感じた週末でした。

 

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なんと元親ブームだとか

2008-10-14 00:14:51 | 日本史

長宗我部フリークとして喜んでいいのかどうか微妙ですが、ゲームが火付け役となって元親ブームとなっているようです。
動機はどうであれ、若い人たちが日本史に興味を持ってくれることはよいことと、前向きに考えたいと思います。

若い女性に「戦国武将ブーム」 「写真撮らせて」「甲冑着たい」 (10/12 JCAST)

伊達政宗や真田幸村、長宗我部元親といった戦国武将が若い女性のあいだでブームになっている。
戦国時代を扱ったゲームソフトや大河ドラマの影響のせいか、武将ゆかりの地や博物館などで女性の姿が目立ち始めたのだ。
■ここ1~2年で「長宗我部元親ファン」が増える
「ゲームの影響なんでしょうか、最近若い女性が増えてきているのは確かで、(参拝客の)90パーセント以上は若い女性です。昔にはなかったことで、ビックリしてます」 と話すのは、高知市の若宮八幡宮の大久保千尭宮司(65)。
戦国武将の長宗我部元親が戦勝祈願したとされる同神社に若い女性の参拝客が増え始めたのはここ1~2年のことで、女性客はどうやら「長宗我部元親ファン」らしい。
大久保さんは「(坂本)竜馬さんは全国区だけど、まさか元親がそういう対象になるとは」と驚きを隠さない。
突然の「元親人気」を受けて、神社では元親にちなんだミニチュアののぼりや絵馬を製作したところ、売れ行きは好調という。
境内には長宗我部元親の銅像があり、こちらも「かっこいい」と評判に。
神社周辺にも元親ゆかりの史跡もあり、人気スポットになっているようだ。
「(長宗我部元親について)びっくりするほど知っていて、こちらも勉強しているんですが、逆に質問されたりして。刺激になりますね」 と大久保さんは話す。
こうした戦国武将人気はどうやら全国に広がっているようだ。
真田幸村ゆかりの地である長野県上田市では、毎年春に真田一族を模した武者行列がメインとなる「上田真田まつり」が開催されるが、08年4月29日の祭りでも女性客の姿が目立った。
同市観光課はJ-CASTニュースに対して、「若い女性のファンが多くて、甲冑を着た武将と写真を撮りたいという方もいます。女性ファンが増えたのはここ1~2年のことだと思います」 と話す。
真田家の家紋である「六文銭」のマークの入ったお土産などを買う女性の姿も多く見られるという。
■人気ゲーム「戦国BASARA」が火付け役?
伊達政宗の甲冑を展示している仙台博物館でも「以前はお年寄りや小学生が多かったが、2、3人連れの女性客が目立ち始めた」という。
同館では年に2回、政宗のレプリカの鎧兜を実際に着用するイベントを開催しているが、「2年前くらいから女性の応募者が増えている」。
なかには政宗の甲冑を見て「政宗サマ」と口にする女性客もいるようだ。
ブームの火付け役とされているのは、戦国時代をテーマにした大河ドラマや「戦国BASARA」という人気ゲームソフト。
ソフト発売元のカプコンは「女性より男性のユーザーが多いというのは他のソフトと変わらない」というが、ゲーム好きは「武将のキャラクターがみんなカッコよくつくられていて、女性にも人気だ」と口を揃える。
同シリーズは戦国時代の武将が対戦するアクションゲームでPS2とWiiで展開。現在までに100万本ほど売り上げている。
同社が08年8月に実施した人気投票では、1位が伊達政宗、2位が真田幸村、3位は長宗我部元親となっている。

記事からは動機が不純な人もいることが読みとれますが、それでも現地まで足を運ぶ熱意は買いたいです。
こういうゲームをきっかけに日本史に相対する人が増えることは、悪いことではありません。
私としても長宗我部元親の認知度が上がることは喜ばしく、一時のブームで終わらないことを願っています。

ちなみにブログのプロフィールの写真は長宗我部元親の肖像画から、暫く前に「戦国BASARA」の元親に変更しています。
単なる気まぐれだったのですが、今となってはブームの先駆けだったのかもしれません。

ところで記事中にもある若宮八幡宮、私も行ってみたくなりました。
長宗我部グッズにももちろん興味があるのですが、平成11年に除幕式があった元親像をナマで見てみたいと思っています。
高知には過去2回行っていますが、いずれも平成11年以前でこの像には巡り会っていません。
最初に行ったときは岡豊城跡は荒れ放題、2度目に行ったときには立派な博物館が建設されていましたが、今はどうなっているかも気になります。
土佐は山内家が長宗我部家の痕跡を消し去ることに注力したらしく、城跡や元親墓所以外には目立った史跡が残っていないだけに、これを機会に各市町村が長宗我部関係の発掘に着手していただけたらと期待もしています。

岡豊城跡の元親像もなかなか良かったですが、近いうちに若宮八幡宮の元親像にもお目見えしたいと思います。

 

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天下人の夢の跡

2008-08-02 23:56:34 | 日本史

 

近畿地方の城として外せないのが大阪城、やはりスケールが違います。
天守閣自体はエレベーターのある鉄筋コンクリート造りで興ざめな代物ではありますが、その敷地の広さは他を圧倒します。
豊臣秀吉が心血を注いで築城した大坂城は大坂の役で焼失しましたが、天下人の夢の跡として今も偉容を誇っています。

正面に当たる大手門です。
当時の遺構として重要文化財となっています。

大手門を入らずに外側の堀を時計回りに歩いていくと、最初に目にするのが千貫櫓です。
こちらも重要文化財に指定されています。

次は乾櫓、こちらも重要文化財です。
乾(戌亥)の言葉が表すように、城の北西を守る櫓となっています。

京橋口を経て城の北側をぐるっと回ると、青屋門に到達します。
城の北東方面に位置しており、大阪城ホールのすぐそばにあります。

玉造口を経て城の南側に回っていくと、一番櫓を目にすることができます。
南外濠の東側に位置するこの櫓も、重要文化財です。

さらに西に歩いていくと、同じく重要文化財である六番櫓が姿を現します。
これで大坂城の外側をぐるっと歩いたことになり、その規模の凄さを体感することができます。

最初の大手門を進んでいくと、多聞櫓を目にすることができます。
内濠と外濠の間にある唯一の櫓で、こちらも重要文化財に数えられています。

そこから東に歩いていくと桜門に到達し、いよいよ天守閣のある本丸に向かうことになります。
数多くの櫓や門と同様にこちらも重要文化財であり、当時の遺構を肌で感じることができます。

天守閣こそ再建されたものですが、その他は重要文化財のオンパレードです。
天守閣は豊臣天守と徳川天守の折半のような形になっているらしく、当初の豊臣天守に擬すべきだとの議論がされているとのことです。
また不思議なもので鉄筋コンクリートの再建であっても、登録有形文化財に指定されています。
あまり再建であることにこだわらずに、城跡という観点で訪れる価値のある場所なのかもしれません。


【2001年9月 近畿史跡巡り】
天下布武への足がかり
尾張名古屋は城でもつ
暴れん坊将軍を育んだ城
楠木正成の甥が築いた城

 


楠木正成の甥が築いた城

2008-04-14 23:37:57 | 日本史

 

次に訪れたのが岸和田城で、当時の遺構は石垣と堀だけです。
建造物は再建された鉄筋コンクリートの模擬天守と隅櫓や門ぐらいで、それなりに広い敷地でありながらも寂しい配置となっています。

岸和田城は楠木正成の弟で、兄と刺し違えて自害した正季の三男である和田高家が築いたと言われています。
元々の岸という地名に和田氏が入ったことで岸和田となった、との言い伝えもあるそうです。
とは言っても、和田高家が築城した場所は現在の位置とは違うとのことです。

かなり幅のある堀には水が満ちていて、まさに城という感じがあります。

城を囲むように遊歩道があり、ぐるっと一周することができます。

どこから見ても天守閣を見ることができる配置となっており、こぢんまりとしながらも綺麗にまとまっています。

本来は五層天守のところを三層で再建したらしいのですが、このぐらいの敷地であれば丁度いい具合だと思います。
地方のお城にありがちな結婚式などのイベントが開けたりと、いわゆる文化会館的な位置づけとなっているようです。

駅からは10分程度だったと思いますが、駅が南海本線でちょっと行きづらい場所にあります。
また小出氏という地味な大名の居城であったこともあり、世間にアピールするには弱い感じがします。
地元では町のシンボルとしているようですが、そうはあまり感じられなかったというのが正直なところです。


【2001年9月 近畿史跡巡り】
天下布武への足がかり
尾張名古屋は城でもつ
暴れん坊将軍を育んだ城
天下人の夢の跡

 


暴れん坊将軍を育んだ城

2008-02-11 22:47:39 | 日本史

 

ようやく近畿地方に入って最初に訪れたのが和歌山城です。
先の名古屋城と同じく徳川御三家の城で、徳川吉宗もここを居城としていました。

この和歌山城は藤堂高虎の縄張りにより豊臣秀長の城として築かれ、浅野幸長を経て徳川頼宣が入城します。
天守閣は国宝でしたが戦災によって焼失し、例によって鉄筋コンクリートで再建されました。

老朽化して倒壊したものを復元した大手門と一の橋です。

こちらの岡口門は挟間塀とともに重要文化財に指定されています。

楠門は木造で再建されています。

天守閣に連なる乾櫓、やはり再建されたものです。

同じく二の門櫓です。

赤門とも呼ばれている追廻門で、市指定文化財です。

もう少し大規模なイメージを持っていたのですが、意外とこじんまりとまとまった感じでした。
ただ天守閣、櫓、門が綺麗に配置されているため、城を見に来たという充実感を味わうことができます。
おそらく本丸の建造物は全て再建されているのではないでしょうか。


【2001年9月 近畿史跡巡り】
天下布武への足がかり
尾張名古屋は城でもつ
楠木正成の甥が築いた城
天下人の夢の跡

 


尾張名古屋は城でもつ

2008-01-19 23:43:03 | 日本史

 

清洲の次に立ち寄ったのが、やはり外せない名古屋です。
「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と謳われるように、名古屋の象徴となっているのが名古屋城です。

天守閣は戦後の再建で、石垣は当時のものらしいですが、やはり建物自体は鉄筋コンクリート造りです。
どこもそうですが、城の形をした博物館と考えればいいと思います。

西之丸にある正門ですが、こちらも戦後の再建です。

西之丸と本丸を繋ぐ表二之門、こちらは当時の遺構で重要文化財となっています。

本丸の西南隅櫓で、こちらも重要文化財です。

同じく本丸の東南隅櫓で重要文化財、当時の建物が残っています。
本丸にはもう1つ隅櫓がありましたが、こちらは戦災で焼失し、今は東北隅櫓跡として石垣だけが残っています。

その東北隅櫓跡から二之丸に向かう途中にあるのが清正石、加藤清正が運んだと言われているものです。
城内にも清正公石曳きの像なるものがありますが、この辺りは黒田長政の持ち場であったらしく、単なる言い伝えに過ぎないようです。

二之丸を東に抜けると東門となり、実は私が名古屋城に行く時はいつもこちらから入って正門に抜けています。
地下鉄の最寄り駅から歩いて入るには、おそらくここが一番近いからだと思います。

御深井丸にある西北隅櫓、内側からは木がうっそうと茂っていて見えづらいですが、清洲城から移築したとも言われています。
もちろん重要文化財で、外堀に面しているのはこの櫓だけです。

天守閣が残念なことになっていますが、当時の櫓が残されていて城全体が当時の雰囲気を残しているのは「名古屋の象徴」だけのことはあります。
史跡巡りで西へ行く時にはどうしても立ち寄ってしまう、そんな魅力のある名古屋城です。


【2001年9月 近畿史跡巡り】
天下布武への足がかり
暴れん坊将軍を育んだ城
楠木正成の甥が築いた城
天下人の夢の跡

 

コメント (3)

天下布武への足がかり

2008-01-09 23:27:49 | 日本史

 

2001年9月に近畿方面の史跡巡りをしましたが、往路の途中で訪れた清洲です。
当時はワイド周遊券というお得で便利な切符があり、出発地と周遊区域の往復経路は途中下車OKでした。

清洲と言えば織田信長が天下布武の足がかりとした地で、清洲城の模擬天守が再建されています。
ただ城跡とは離れた場所に建てられており、しかも当時の資料が残っていないために外観は想像で作られ、鉄筋コンクリート造りで資料的価値はゼロに近いと言えます。

敷地内には濃姫の像があります。

実際の城跡は川を挟んだ反対側で、ぽつんと石碑が立っているだけです。

その近くには清洲公園があり、織田信長像があります。
清洲時代の信長ですから、若々しい表情です。

清洲公園の近くには清洲古城跡公園があり、こちらにも石碑が立っています。

工事中の雰囲気が漂っていた石垣です。
当時の遺構で清洲に残っているのはこれぐらいらしいです。

徳川家康が名古屋城を築いた際に清洲城は資材として解体されたので、遺構が残っていないのは当然と言えば当然です。
不世出の英雄である織田信長の痕跡を消す、そういう意図があったと思われます。
今となっては残念としか言いようがありません。


【2001年9月 近畿史跡巡り】
尾張名古屋は城でもつ 
暴れん坊将軍を育んだ城
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史跡巡りがしたい

2008-01-01 23:22:16 | 日本史

 

新年を迎えて1年の目標を立てるとすれば、今年は何としても史跡巡りをしたいと考えています。
私、日本史が好きです。
小学校の卒業文集に書いた将来の夢は「考古学者」、今となっては守備範囲が中世~戦国なので分野は違ってきていますが、大きく路線を外れることなく成長してきました。
大学時代から長期休暇には必ず史跡巡りをし、各地の城跡や武将の墓、博物館などを訪れることを趣味としています。
日本全国津々浦々、行っていないのは沖縄県だけです。
社会人になっても続けてきましたが、いろいろと事情もあって2002年の夏を最後に5年間のブランクがあります。

私の旅行はハードです。
とにかく電車と足で稼ぐ旅で、旅行前に大まかな旅程を決めますが、基本的には時刻表を片手に気ままにフラフラとします。
ある場所で時間を費やしすぎて途中で帰ってきたこともありますし、半月以上放浪していたこともあります。
駅を拠点にレンタサイクルか足で目的地まで行くのが楽しみの1つでもあり、日に30キロ以上歩いたこともあります。
ちなみに写真は2002年の夏に北陸巡りをした時の七尾城跡で、これがまた標高300メートルぐらいのところまでひたすら1時間ぐらい歩いて登るという割と大変な山城でした。

こんなところを歩いていくと・・・

こんな感じになっていき・・・

ようやく城跡っぽくなってきたら・・・

石碑だけ建っている本丸跡が広がっている・・・

建築物ゼロの史跡でも充分に楽しい!

ただ心配なのは、重い荷物を背負って長距離を歩く体力が残っているかです。
この年代になってからの5年間は衰えが激しいので・・・いや、体を鍛えるためにも敢行すべきだと考えます。
何だか書いているうちにテンションが上がってきました。

問題は夏に長期休暇を取ると、日本シリーズ出場となった場合に秋に休暇が取れずに困ることです。
奇数年はパ・リーグのホーム開催は土日ですので何とかなりますが、今年は偶数年で火水木が千葉マリンでの試合となります。
幸いにも最近の日本シリーズはナイターですから、そこは特別日として早めに帰らせてもらうことで解決するしかありません。
年初から根回し工作に着手することにします(笑)

過去の旅行の写真などを適度に記事にしていきますので、数少ない日本史ファンの方はあまり期待せずにお待ちください。
本当はホームページでも立ち上げて盛大にいきたいのですが、そこは定年もしくは宝くじを当てた後のお楽しみにするとして、今年はロッテと日本史の二本立てで充実した1年にしたいと思います。

 

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元親Tシャツ

2007-06-30 12:48:06 | 日本史

週刊アスキーに(なぜか)戦国グッズショップの紹介記事があったので、早速webでチェックをしました。
すると長宗我部フリークの私にはたまらない、元親Tシャツを発見!

長宗我部元親Tシャツ (戦国SHOP しょうぶ屋)

正直なところ、デザイン的にも価格的にもイマイチです。
せっかくなら一領具足をデザインして欲しかったという気がしますが、こういったグッズが売っていること自体が涙ものですので、しょうぶ屋さんには頑張ってくれればと思います。
もう少し小物系を増やして欲しいのと、東京にも支店を・・・無理ですかね。
やはり手にとって見たというニーズがありますので、ちょっと彦根は遠いです。

とりあえずは、元親手ぬぐいを希望!

 


天地人

2007-04-27 20:25:08 | 日本史

2009年の大河ドラマが「天地人」に決まったようです。
火坂雅志の同名小説を原作に、上杉景勝に仕えた直江兼続の波乱の生涯を描く作品とのことです。

日本史ファンなら誰でも知っている直江兼続ですが、一般的にはあまり知られていないと思いますので、かなりの英断のような気がします。
信長・秀吉・家康や武蔵、忠臣蔵の様な手垢のついた題材には辟易しているので、来年の篤姫など世間的にマイナーな人物を取り上げてくれるのは非常に喜ばしいことです。

さて直江兼続と言えば関ヶ原の戦いの際の「直江状」が有名ですが、これ自体は偽書である可能性が非常に高いとのことです。
確か米沢市の林泉寺にも写しが飾ってあったと記憶していますが、そもそも原本は残っておらず、後世の写しのみだそうです。
ただ当時の武将の日記に直江兼続からの書状に徳川家康が激怒したという記述があるそうなので、似たような書状はあったと思われ、大河でもこれが最大の山場になるのでしょう。

直江兼続が仕えた上杉家は謙信-景勝と「義」を前面に押し出した戦国大名ですが、家臣団の全員が全員その「義」に承伏していたわけでもなく、謙信時代などは揚北衆らとの確執もあったわけです。
原作を読んでいないのでわかりませんが、おそらく御館の乱あたりから関ヶ原の戦いまでが中心となるのでしょう。
しかし小姓を務めた前半生や、関ヶ原の戦いの後に米沢へ移封されたことによる苦闘が続いた後半生を描いてくれることを期待してしまいます。

大河ドラマと言えば題材となった地域の活性化に繋がっているようで、そういう意味で題材は日本各地を転々としている気がします。
昨年の功名が辻(東海)、今年の風林火山(甲信)、来年の篤姫(九州)、再来年の天地人(北陸)ときたわけですから、2010年は四国が有力ではないでしょうか。

夏草の賦で長宗我部元親を主役に!

四国なら坂本龍馬だろ、などと言わず、是非ともお願いしたいものです。