電脳筆写『 心超臨界 』

ひらめきを与えるのは解答ではなく質問である
( ウジェーヌ・イヨネスコ )

漢字漢文における表現力の限界――西尾幹二

2024-05-24 | 04-歴史・文化・社会
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漢字漢文の伝達力には必然的に制約がある。きわめて大雑把な、決まりきった定型しか表現できないという欠点がある。漢字漢文は不完全な言語である。情緒を表現することができない。論理とか道筋とかを正確に伝えることができない。だいたい品詞の区別がない。名詞、動詞、形容詞、形容動詞の区別がない。日本語の助詞として重要な役割を持つ「てにをは」がない。だから読みようによってはどうにでも読めるし、厳密な伝達ができない。


『国民の歴史 上』
( 西尾幹二、文藝春秋 (2009/10/9)、p184 )

6 神話と歴史

6-6 漢字漢文における表現力の限界

いうまでもなく私の関心は日本語の起源問題そのものにはない。前項以来、現代のこの方面の最新学説を紹介することで、日本語は孤立言語とは断定できないまでも、歴史的由来をただすことがきわめて困難な言語の一つであり、したがって日本文化そのものがユーラシア大陸から独立した“栄光ある孤立”を守る正当な根拠をもっている一文明圏だということに、読者が納得してさえくだされば、それで十分なのである。

文字は間違いなく中国から来て、それはいちじるしく変形され、日本化された。だからといって日本が中国文明圏だということにはならない。前にも言ったとおり、言語と文字は違う。言語はより根源的である。日本語は周知のとおり、中国語とは縁戚語ですらない。

人類が音声を使った言語を用い始めたのは、すなわちスピーキングは、確たることはわからないが約3百万年前に始まる旧石器時代である。それに対し文字の出現、すなわちライティングは最古のシュメール文字にしてもせいぜい数千年前である。現代でも文字を持たない言語がいくらも存在する。また、優れた文字を持つ文明下に生きているとしても、喋ったことを完全に文字で表現できるとは限らない。言語と文字表現との間にはつねに隙間がある。隙間という程度ではすまないほどの埋められない深い淵があるのが宿命だと言ったほうが、あるいは正しいかもしれない。

「書くことが話すことよりも完璧であるととかく考える誤解が、世には存在する。なかには書くことと言語とを同一視するような行き過ぎた間違いを犯す者さえいる」(Language Files, Materials for an Introduction to Language & Linguistics, Ohio State University Press, 19941)

書物に取り巻かれている文明社会の知識人が陥りがちな自己錯誤である。

中国の全国人民代表大会には約3千人が一堂に会する。しかし参加者は誰も発言しない。1人1秒もない、という時間の問題だけではない。中国は多言語社会である。誰かが突然立って発言しても言葉が通じない。江沢民が壇上で演説するのを聴いても理解できない参会者が少なくないそうだ。皆がワーッと拍手するだけである。そこで紙が配られる。書かれている漢字漢文を目で読んで納得する。各々が自分の国の音で読んで、理解はするが、隣の人にこれを朗読して聞かせたらもうわからないということだ。

中国のテレビではニュースキャスターが話している間、ものすごい速さで漢字のテロップが流れることがある。中国人同士でも、耳で聴くだけではまったく理解できない場合がある証拠だ。

「官吏」という言葉も中国から来たが日本とは意味が違う。「官」はキャリアの役人、中央から派遣され、しばらく勤務し栄転していく高級官僚である。「吏」は下積みのノンキャリア組で、それぞれの地方に縛られている。これは端的に通訳のことである。地方語のわかる人が「吏」である。そういう区別が多言語社会の実質を物語っている。

台湾出身の文明評論家・黄文雄氏から聞いた話だが、事情は台湾でも同様であるそうだ。双十節(そうじゅうせつ)(註・中華民国の建国記念日)で蒋介石が演説するのを何度も聴いたが、わからない人が大部分だった。台湾には高砂族(たかさごぞく)という原住民がいて、今でも9つの部族に分かれ、それぞれ独自の集団生活をしている。彼らは固有の儀式を行い、お互いに言葉が通じない。仕方がないので、今でも必要なときには日本語で意思疎通を図っているという話だ。

私は以上、政治的なテーマを語っているのではない。言語哲学的に非常に重要なことを言っているつもりだ。中国はヨーロッパみたいなものだと思えばいいでしょう、と黄氏はおっしゃった。フィンランド人はイタリア人が話していることがわからない。アイルランド人はポーランド人が話していることがわからない。それでは文字に書いた文章を見せればいいかというと、中国語と違って、ヨーロッパの文字は表音文字だから、それぞれ相手の言語を勉強していなければ理解はできない。

表意文字としての中国語はこの点断然有利だ。漢字漢文だと相互理解がたちどころにでき、有機的な1つの文明だと思わせることに成功しているのは、ひとえに表意文字の有効利用のせいであるが、他方、この有利さには別の面の不利が伴っている。

すなわち漢字漢文の伝達力には必然的に制約がある。きわめて大雑把な、決まりきった定型しか表現できないという欠点がある。漢字漢文は不完全な言語である。情緒を表現することができない。論理とか道筋とかを正確に伝えることができない。だいたい品詞の区別がない。名詞、動詞、形容詞、形容動詞の区別がない。日本語の助詞として重要な役割を持つ「てにをは」がない。だから読みようによってはどうにでも読めるし、厳密な伝達ができない。ヨーロッパ語のように性とか数とか格とかがない。そもそも語と語のつながりを表す言葉がない。したがって大略の内容表現しかできないで押し通してきたことが、偉大な古代文明を持つ中国がその後の発展を阻まれてきた原因かもしれない。魯迅も孫文もこのことを嘆いていた。毛沢東の文字改革はこの嘆きのうえになされたものだが、文字を簡略化しても根本問題の解決にはならない。それに比べ一語一音を廃し、訓読みを導入し、しかも2種の仮名文字を自由自在に混在させる知恵を発揮した日本語のほうが、言語の表記法としてははるかに進歩し、微妙に洗練され、かつ精緻正確な形態に発達していることは言をまたない。

過日、加地伸行氏という儒学の大家にたいへんに興味深いお話を伺った。日本語の助詞も持たず、ヨーロッパ語の格変化や人称変化も持たない漢字漢文で、語と語の連結はどのようにして行われているのですかという私の質問に、氏はふと思いついたように「端」という字をお示しになった。日本人はこの字を見ると端っこというイメージをまっ先に思いつく。そして、それ以上はなかなか意識に思い浮かぶものがない。われわれには漢字が依然として外来語である所以である。

加地氏によると、「端」はものごとを区切るということであり、礼儀正しいということであり、さらに、恭(うやうや)しく人に物を捧げ持ってさし出す様子などをさし示す言葉だという。私は知らないことを初めて言われた驚きを覚えた。「つまり『端』はじつにきちんとしているということを言い表す言葉なんですよ。たとえば日本語でも、『端正な芸風』、『端正な顔立ち』、『端然と座る』などという使い方をするでしょう」。そう言われて私は、なるほどと悟った。日本語では中国語の原義のもつ広い概念が、ばらばらの熟語として二字連結で入っている。「端的にいえば」はまさに、「ものごとを区切る」という最初の語義に発している。「端厳な態度」「端座する」は礼儀正しく、きちんとした姿勢を彷彿させる。

私のようなヨーロッパ言語を学ぶ者でも、日本語と対応させるうえでの概念のズレをつねづね経験している。constitution は組織や構成のことであり、体格や体質のことであり、かつ憲法のことだ。She is weak by constitution. は「彼女は生まれつき身体が弱い」の意で、憲法とはなんの関係もない。英語やドイツ語だと私はある程度の概念の広がりを当然視しているが、漢字となると、自国語として用いているので、かえって一語のもつ広い概念範囲に平生気がついていない。

しかし中国人は「端」という一語を見ただけで、広範囲のイメージをじかに表象している。そしてひとつの概念の円が次の概念の円と次々に重なって、それによって語と語の連結をつづけていく。助詞や格変化がなくても不自由しないのはそのせいである。教養のある中国人は一つの概念の円が、当然大きくて広い。歴史的に使われていた中国語のありとあらゆる教養のうえで、大きな円を描き、そのつながりで意味了解がなされていくのが中国語の特徴であるから、古典の教養がなければ理解できないことがたくさん出てくると言われるのも、むべなるかなである。加地氏は自作の漢字漢文を中国人の先生に見せると、たいてい、ここはいらない、これも不要だ、と文字を削られ、短くされてしまうという。一つの概念の円の範囲がたぶん中国人の先生の方が広いためである。

中国の科挙がなぜ膨大な量の古典文学の学習を強いたかという謎もここにあるのかもしれないと思ったが、現代の大衆社会に適用できる話ではないので、漢字漢文の伝達力の限界という先の問題を解消させる話ではない。

平成10年9月14日「新しい歴史教科書をつくる会」は歴史家の岡田英弘氏をお招きして、「中国史家の語りたがらない中国像」と題して、ご講話をいただいた。この演題はお招きした側の私が勝手につけた題であることをお断りしておく。氏はそのとき次のように語った。

  日本には大和言葉がある。つまり話し言葉がある。口でしゃべって
  耳で聞いて意味がわかる言葉でありますが、中国には言葉はありま
  せん。ごく最近まで、20世紀の初めまでありません。中国語とい
  う観念はなかった。あったのは漢字漢文にすぎない。漢字は、あれ
  は表意文字であって、表音文字じゃない。言葉は音です。ところが
  表意文字であるということは、これは言葉を書いてるんじゃない。
  つまり表意文字であるということは意味だけしか表現していない。
  しかも変化がまったくない。格変化もないし時称もないし、性も数
  もないし、要するに文法がまったくない。漢字と漢字の間の関係を
  示す方法がまったくない。そうすると文法のない文章をどうやって
  解読するか、という難問題がある。それでこれは簡単にいうと、古
  典の字の並べ方をそのまま踏襲するしかない。ですから独創的な意
  見や独自の感じ方を、漢文で表現しようとするとまったく不可能。
  ありきたりのことしかいえないというのが漢文の宿命なんです。し
  かもこのことは、論理の表現の方法がない。それから感情の表現の
  方法がないというおそるべきことです。ですから漢字漢文というの
  は非常に情報量が少ないんです。しかも古典の文章をそのまま踏襲
  して、述べてつくらずというのが中国の文章の書き方の基本である。
  そのために、あれだけたくさんの文献があるけれども、いくら読ん
  でも新しい用法にぶつかるということはほとんどない。同じ用法の
  繰り返しだけなんです。だから中国史というのは実は非常に不利な
  立場にある。必要な情報がほとんど手に入らないんです。非常に貧
  弱なんです。そういうことがある。

  しかしそれはだからこそ漢字漢文は中国で非常に便利なんです。な
  ぜかというと、中国全体に通じる共通の中国語というのが存在しな
  かったからです。いつの時代にもなかった。地方ごとにまったく違
  う話し言葉があった。それを書き表す方法がない。そのために漢字
  が非常に便利だった。それで大雑把なコミュニケーションだけれど
  も、ともあれ漢字で書けばなんとか意味が通じさせられる。ただし
  ありきたりの情報を繰り返せばという条件付きだけど。

漢字漢文の言語的視野について私が先述した問題点が、ほとんど総ざらいに、徹底的に、専門家の経験と知恵とそれなりの悪意をもって抉り出されている。

伝統的に日本の東洋史学は中国中心史観、すなわち中華思想に忠実な歴史学であった。それは吉川幸次郎とか、貝塚茂樹とか、宮崎市定といった大学者にしてそうであった。しかしそれならばなぜ偉大なる中国が停滞し、過去千年混迷を繰り返し、今なお文明からほど遠い――私はあえてそう言っておく――ほんとうの理由が説明できないことになるではないか。
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