電脳筆写『 心超臨界 』

悲観論か楽観論かの問いにはこう答える
私の知識は悲観的なものだが私のやる気と希望は楽観的だ
シュヴァイツァー

悪魔の思想 《 鶴見俊輔――無条件降伏という真赤な嘘の煽動者/谷沢永一 》

2024-07-20 | 04-歴史・文化・社会
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1977年に批評家江藤淳(1033~)は、1945年8月15日に起ったことは日本国家にとっての無条件降伏ではないという主張を繰り広げました。これに対して、はなはだご機嫌ななめな鶴見俊輔は沢山(たくさん)の注をつけて江藤淳は間違っていると食いさがります。さらに勢いあまって、次のようにやけっぱちの放言をするにいたりました。「さらに連合国側の意図と日本政府の意図は、ともに1945年8月15日に起ったことは、日本の無条件降伏であったととらえていました」。これは真赤な嘘です。どこにそんな証拠があるのでしょうか。


『悪魔の思想』 「進歩的文化人」という名の国賊12人
( 谷沢永一、クレスト社 (1996/02)、p80 )
日本罪悪論の海外宣伝マン・鶴見俊輔(つるみしゅんすけ)への告発状
第3章 「ソ連はすべて善・日本はすべて悪」の扇動者(デマゴーグ)

  鶴見俊輔(つるみしゅんすけ)
  大正11年生まれ。ハーバード大卒。京大、東工大助教授を経て同
  志社大教授。日本の経済発展を呪い、日本軍のシベリア抑留を当然
  とした。

  百日の説法、屁ひとつ、という諺(ことわざ)があります。共産主義
  ソ連がいかに美辞麗句を弄しようとも、10年を越す50万余の日
  本人シベリア抑留という理不尽な行為を、わが国びとはけっして忘
  れることができません。それは世界史上に未だかつてない没義道(
  もぎどう)な不埒な暴挙でした。しかし鶴見俊輔は断乎としてソ連
  を弁護します。当時のソ連は労働力の不足に悩んでいたのだから、
  日本人捕虜に強制労働を課すのは、ソ連人の知恵であったと言うの
  です。

3-3 無条件降伏という真赤な嘘の扇動者

鶴見俊輔の見るところ、日本はいまだかつて戦争に勝ったことはありません。

  1905年の日露戦争の終り(9頁)
  対露戦争を推し進めていき、そして敗北なしにそれを終わらせたや
  り方(9頁)

日露戦争で日本がロシアに勝ったなど、そんな失礼なことは口が避けても言うものか、と鶴見俊輔は共産主義ソ連に恭しく秋波をおくります。この紳士的な鶴見俊輔の自制力に較べると、スターリンのほうがはるかに率直で言葉を飾りませんでした。第二次大戦の終わり近く、いよいよ日本へ攻めこむとき、これから日露戦争の仕返しをするのだと、将士をはげましたことはよく知られています。スターリンのほうが鶴見俊輔に較べてよほど現実的で正直ですな。

さて、その鶴見俊輔がうって変わって、日本の場合は単なる降伏ではなく無条件降伏であったとしつこく、しつこく言い張ります。

  1977年に批評家江藤淳(1033~)は、1945年8月15
  日に起ったことは日本国家にとっての無条件降伏ではないという主
  張を繰り広げました。
                           (219頁)

これに対して、はなはだご機嫌ななめな鶴見俊輔は沢山(たくさん)の注をつけて江藤淳は間違っていると食いさがります。さらに勢いあまって、次のようにやけっぱちの放言をするにいたりました。

  さらに連合国側の意図と日本政府の意図は、ともに1945年8月
  15日に起ったことは、日本の無条件降伏であったととらえていま
  した。
                           (220頁)

これは真赤な嘘です。どこにそんな証拠があるのでしょうか。そこで鶴見俊輔がおごそかに持ちだす証拠はなんと次のようにいたって頼りないものなのです。

  後者、つまり日本政府の側がそのように8月15日をとらえていた
  という事実は、1945年8月から1946年にかけて発行された
  日本の新聞ならびに雑誌にのった意見にはっきりと現れています。
                           (220頁)

これはもう錯乱のあまりの言いがかりとしか申しようがありません。新聞なら新聞、雑誌なら雑誌、そこに載った実にさまざまな人の「意見」はいつの世にも必ず絶対に真実を射ているという保証がどこにあるのでしょうか。記事にせよ論説にせよ寄稿にせよ、いったん掲載された「意見」なるものは常に無謬(むびゅう)であると断言できますか。

新聞や雑誌をちらちら読んで、今ならテレビもそれに加わるでしょうが、その「意見」に接して、はあそうですか、よくわかりました。と叩頭(こうとう)するような根性では、時代の真実をきっちり把握することなど不可能でしょう。あるいは無条件降伏論が大勢を占めていたから、という逃げ口上を用意しているのかもしれません。しかし人の世では千人のうち999人が不覚にも誤った考えにおちいり、ひとりだけが的を射た見解を持していたという事態もありうることは常識じゃありませんか。一犬虚に吠え万犬実を伝う、という言葉があることぐらいご存知でしょう。

鶴見俊輔がやけっぱちみたいに証拠として持ちだした当時の新聞雑誌に、どんな迷説愚論がどれだけたくさん載っていようと、それらはすべて非常識な錯誤の間違いでしかありません。正しいのは、第2章で詳しく述べたとおり、石橋湛山であり江藤淳なのです。

日本の経済発展を呪う支離滅裂へつづく
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