電脳筆写『 心超臨界 』

今日あなたはあなた自身である
それは真実を超えた真実
あなた以上にあなた自身である者などいない
ドクター・スース

不都合な真実 歴史編 《 ナチスの殺人は戦争犯罪ではない――西尾幹二 》

2024-07-10 | 04-歴史・文化・社会
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


ヒトラーは外国に侵略し、そこを支配する統治目的からみてそうする必要がなにもなく、その口実すらないときでも、おびただしい数の人間を殺害しているのである。これがどうしても理解できない最も深い謎である。大量殺戮は実際上の観点からみても彼の軍事的利益に反していた。毎日のように全ヨーロッパから犠牲者を集め強制収容所へ送りこむ大量輸送は、軍事物資や兵員を補給する車輛をそれだけ奪い、ことに戦争末期には相当な負担を強いたはずである。しかし末期になればなるほどこの非軍事的努力のほうが加速された。アウシュヴィッツにガス室が設営されたのは1942年以後である。


◆ナチスの犯罪は戦争犯罪ではない

『異なる悲劇 日本とドイツ』
( 西尾幹二、文藝春秋 (1997/10)、p19 )

ユダヤ人はヒトラーが敵にするまでは、ある意味でドイツの最善の味方でさえあったといわれる。ドイツに住むユダヤ人は文化の最も高い層を代表していた。彼らは他のヨーロッパの国々に住むユダヤ人よりも、自ら居住する国ドイツを愛し、そこに融け込み、そこと情緒的な親愛関係さえ結んでいた。アメリカが第一次大戦でドイツを敵にするのをかなり長くためらった理由の一つはその点にあったともいわれる。第一次大戦の戦死者の比率でユダヤ人はドイツ人よりも若干高かったほどである。われわれは文学や音楽や演劇や科学の分野で20世紀の初頭にドイツがヨーロッパの他の国をしのぐ業績をあげた理由の一つに、ユダヤ人の貢献があったことを知っている。

そうしたことは「水晶の夜」を境にしてたちまち終りになった。ヒトラーはドイツに住むユダヤ人だけでなく、ユダヤ人と深く交際していたドイツ人をも一瞬にして敵にしてしまった。このことはナチスの体制を弱め、戦争遂行の目的に逆行し、まったく戦略に反している。ナチ犯罪が戦争行為でなかったことは、ここでも裏書きされる。

以上ユダヤ人とドイツ人の交渉史の流れからみても、ヒトラーの人種思想はドイツの政治の歴史、あるいは戦争の動機の歴史のなかに突然発現した非連続性の産物であるといえる。そして、共産主義的全体主義も、この点ではナチズムと共通点を持たない。人種思想はドイツの第三帝国の成立する前にも、後にも、あれだけの規模で存在したことはないし、実行されたこともない。これはまったく独自の、一回的な特徴であり、本質である。

第二次大戦中のヨーロッパ史をひもとくと、ドイツは矢継早に四方に戦線を拡大している。イギリスにも、最後にはアメリカにも宣戦布告しているが、しかしそれはいよいよ全面戦争という段階になってからであって、長い間、英米両国とはなるべく事を構えぬようにできるだけ用心深くしていたさまがうかがえる。それにはもちろん戦略的意味もあるが、イギリス人はドイツと同じゲルマン民族だというヒトラーの人種論的世界観にも関係がある。『わが闘争』のなかで彼は、ドイツが同盟を結び得るヨーロッパの国として、イタリアのほかにイギリスを念頭に置いている。イギリスとの同盟締結は、1935年ころまでは彼の主要な外交目標の一つだった。そして、それに比べ、彼がまったくなんのためらいもなく征服計画の対象と見定めていたのは、広大な東方の土地であった。地中海方面にもさして大きな野望を抱いていなかったように思える。ヒトラーの窮極の関心はソヴィエト・ロシアを打ち滅ぼし、東ヨーロッパにドイツの大帝国を建設することであった。なるほど、ソヴィエトにはたびたび外交的に接近し、1939年には不可侵条約を結ぶようなあっと驚くような手を打ったりもしたが、ロシアとそれに服属する周辺国家を征服し、ドイツ民族「生存圏」を東方に獲得することは、『わが闘争』の書かれた1920年代から、1945年の彼の自決の日に至るまで、ただの一度も念頭を去らなかった願望であったようである。

その際、東方における非ドイツ系住民は500まで数が数えられればよく、自分の名前を書ければよく、すなわち小学校4年以上の教育は必要でなく、それ以上の学校は廃止し、高等教育を受けた者は粛清されるべきことが、ヒトラーより指令されていた。ポーランドの占領が始まってから以後、この、20世紀の出来事とは考えることもできない恐るべき政策は現実に実行に移されていた。殺害されたポーランド人知識層の数は百万人を下らないと算定されている。指導層の皆殺しと住民一般の権利の剥奪(はくだつ)は、広大な旧ソ連の占領地区においても、2年ないし3年にわたって実施されたが、犠牲の実態はいまだに正確に分かっていない。

さて、今日のわれわれがにわかに信じることのできないこのようなナチスドイツの破壊行動は、いったい戦争行為なのであろうか。あるいはその犯罪は戦争のプロセスに随伴的に派生する戦争犯罪なのであろうか。今までにも何度か吟味の対象としてきたが、この疑問がわれわれによっていま取り上げられている非連続性の第三の要素にほかならない。

ヒトラーは外国に侵略し、そこを支配する統治目的からみてそうする必要がなにもなく、その口実すらないときでも、おびただしい数の人間を殺害しているのである。これがどうしても理解できない最も深い謎である。大量殺戮は実際上の観点からみても彼の軍事的利益に反していた。毎日のように全ヨーロッパから犠牲者を集め強制収容所へ送りこむ大量輸送は、軍事物資や兵員を補給する車輛をそれだけ奪い、ことに戦争末期には相当な負担を強いたはずである。しかし末期になればなるほどこの非軍事的努力のほうが加速された。アウシュヴィッツにガス室が設営されたのは1942年以後である。

大量殺戮はヒトラーの軍事的利益に反しただけでなく、政治的利益にも反している。連合国側は通例の戦争犯罪とは異なる犯罪が巨大規模で行われている情報を得て以来、外交交渉による平和的妥結をあきらめた。とことん勝利し、ヒトラーを裁判にかけるのでなければ、決着が図れない。このとき戦争目的が変わったのである。連合国側は正義の戦争の大義名分を確実にわがものにした。もしヒトラーの軍隊が、ソヴィエトを共産主義から解放するという明白な目的に従って行動し、それ以外の不可解な犯罪を犯していないとしたら、ソヴィエトを除く連合国側は、判断に苦慮し、ヒトラーとなんらかの取引をしたかもしれない。否、ソヴィエトの領内からさえドイツ軍を解放軍として歓迎する動きが出てきたかもしれない。ヒトラーはある点では政治的嗅覚の鋭い天才である。そんなことが分からなかったはずはない。しかし、政治的計算よりも、殺人のよろこびのほうがかれを圧倒した。理由なき殺人――彼にはむろん理由があるが――への果てしない誘惑に彼は屈した。

以上のとおり、ナチスの犯罪は通例の戦争犯罪とは別のものであったと理解されなくては、その本質を見誤ることになろう。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 悪魔の思想 《 すべてのロシ... | トップ | 不都合な真実 《 三つ巴の戦... »
最新の画像もっと見る

04-歴史・文化・社会」カテゴリの最新記事