§7 心が臨界質量を超える――誇りある日本を取り戻すために
◆日本が持ち続けなければならない目標
パル判事の判決書をはじめとし、法律家、特に国際法の研究家たちの意見は、東京裁判は国際法に基づく裁判ではないという認識に落ち着いているように思われる。法律家も認めず、かつ、その軍事法廷を作らせたマッカーサー自身が、公の場でその設置を後悔しているのであるから、東京裁判に対する一種の無効宣言がなされるべきであろう。それも、日本がやるのでなく、その裁判を設置せしめたアメリカにやってもらうのが、最も有効である。
『日本史から見た日本人 昭和編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p409 )
3章 国際政治を激変させた戦後の歩み
――なぜ、わずか40年で勝者と敗者の立場は逆転したのか
(1) 敗者の悲劇――「東京裁判」と「南京(ナンキン)大虐殺
◇自らの誤りを認めたマッカーサー
悪名高き「侵略戦争」にしても、「侵略」の意味などは、それまで国際法的に定義されたことがない。最初に宣戦布告したのが悪いといえば、ドイツに戦線布告したのはイギリスのほうが早かった。最初に攻撃したのが悪いといえば、ソ連は日本を最初に攻撃している。
戦争を計画した「共同謀議」と言っても、日本はしょっちゅう内閣が交替しており、そんなことはそもそも不可能である。東条首相でさえも、アメリカとの関係を調整するために選ばれたのである。
真珠湾攻撃でキッド提督が死んだことが殺人罪ということになっている。これは真珠湾攻撃の計画者を有罪にするためである。しかしアメリカの原爆投下については、それを投下した者も、計画した参謀長も、その国の元首の名前も分かっているが、この人たちは殺人罪を犯したとは意識していない。それは、戦闘行為における殺人は正義であり、戦争自体は犯罪でないと思っているからである。
このような議論が弁護団側から続々と出されてくるとは、マッカーサーも予期しなかったと思われる。弁解の余地のないと思われていた日本のシナ大陸の行動も、中国共産党の意味が分かるにつれてマッカーサーにも、よく分ってきた。
戦前のアメリカ人はシナ人を善玉、日本人を悪玉として割り切り、日本つぶしを応援した。ところが、日本軍がいなくなってみると、中国共産軍がたちまち勢力を得て、シナ全土はソ連と手を組んだ中国共産党の手に落ちた。そのうち、朝鮮戦争が始まり、マッカーサーは、朝鮮の共産軍や中国共産軍と満3年の激戦を行ない、多数のアメリカ人将兵を死なせた。マッカーサーは共産国を敵と考えていたのであるが、日本軍がいなくなった今や、それと直面しなければならなくなったのである。
マッカーサーは、中国共産軍の策源(さくげん)地である満州(中国東北部)に原爆を使いたいと思った。しかし、トルーマン大統領と意見が合わず、解任されて帰国した(1951年4月)。
帰国後にマッカーサーは、上院において「東京裁判をやらせたのは間違いであった」と述べている。しかし、その時には、東京裁判は終わり、処刑も済み、さらに悪いことには、日本の思想界や言論界や教育界において、東京裁判史観、つまり、マッカーサーの当初の偏見は、動かしがたい根を張り、主流となっていた。そして、左翼政党を支える史観として、つねに利用されていたのである。
パル判事の判決書をはじめとし、法律家、特に国際法の研究家たちの意見は、東京裁判は国際法に基づく裁判ではないという認識に落ち着いているように思われる。法律家も認めず、かつ、その軍事法廷を作らせたマッカーサー自身が、公の場でその設置を後悔しているのであるから、東京裁判に対する一種の無効宣言がなされるべきであろう。
それも、日本がやるのでなく、その裁判を設置せしめたアメリカにやってもらうのが、最も有効である。
もちろん、このことは言うは易く行なうは難い。特に東京裁判を利権として活用してきた国々や、国内の団体や個人は、それに反対するであろう。それを政治日程などに載せることは、もとより不可能である。
しかし、日本はそれを、将来のいつの日かの目標として、持ち続けなければならない。
日系市民を強制収容所(リロケーション・キャンプ)に入れたのはルーズベルトの間違いである。こんな明白な間違いをアメリカ議会や政府が公然と認めて、補償措置を採ったのは、約45年後である。今後、40年から50年もすれば、東京裁判無効宣言の機会があるだろうと期待しよう。
◆日本が持ち続けなければならない目標
パル判事の判決書をはじめとし、法律家、特に国際法の研究家たちの意見は、東京裁判は国際法に基づく裁判ではないという認識に落ち着いているように思われる。法律家も認めず、かつ、その軍事法廷を作らせたマッカーサー自身が、公の場でその設置を後悔しているのであるから、東京裁判に対する一種の無効宣言がなされるべきであろう。それも、日本がやるのでなく、その裁判を設置せしめたアメリカにやってもらうのが、最も有効である。
『日本史から見た日本人 昭和編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p409 )
3章 国際政治を激変させた戦後の歩み
――なぜ、わずか40年で勝者と敗者の立場は逆転したのか
(1) 敗者の悲劇――「東京裁判」と「南京(ナンキン)大虐殺
◇自らの誤りを認めたマッカーサー
悪名高き「侵略戦争」にしても、「侵略」の意味などは、それまで国際法的に定義されたことがない。最初に宣戦布告したのが悪いといえば、ドイツに戦線布告したのはイギリスのほうが早かった。最初に攻撃したのが悪いといえば、ソ連は日本を最初に攻撃している。
戦争を計画した「共同謀議」と言っても、日本はしょっちゅう内閣が交替しており、そんなことはそもそも不可能である。東条首相でさえも、アメリカとの関係を調整するために選ばれたのである。
真珠湾攻撃でキッド提督が死んだことが殺人罪ということになっている。これは真珠湾攻撃の計画者を有罪にするためである。しかしアメリカの原爆投下については、それを投下した者も、計画した参謀長も、その国の元首の名前も分かっているが、この人たちは殺人罪を犯したとは意識していない。それは、戦闘行為における殺人は正義であり、戦争自体は犯罪でないと思っているからである。
このような議論が弁護団側から続々と出されてくるとは、マッカーサーも予期しなかったと思われる。弁解の余地のないと思われていた日本のシナ大陸の行動も、中国共産党の意味が分かるにつれてマッカーサーにも、よく分ってきた。
戦前のアメリカ人はシナ人を善玉、日本人を悪玉として割り切り、日本つぶしを応援した。ところが、日本軍がいなくなってみると、中国共産軍がたちまち勢力を得て、シナ全土はソ連と手を組んだ中国共産党の手に落ちた。そのうち、朝鮮戦争が始まり、マッカーサーは、朝鮮の共産軍や中国共産軍と満3年の激戦を行ない、多数のアメリカ人将兵を死なせた。マッカーサーは共産国を敵と考えていたのであるが、日本軍がいなくなった今や、それと直面しなければならなくなったのである。
マッカーサーは、中国共産軍の策源(さくげん)地である満州(中国東北部)に原爆を使いたいと思った。しかし、トルーマン大統領と意見が合わず、解任されて帰国した(1951年4月)。
帰国後にマッカーサーは、上院において「東京裁判をやらせたのは間違いであった」と述べている。しかし、その時には、東京裁判は終わり、処刑も済み、さらに悪いことには、日本の思想界や言論界や教育界において、東京裁判史観、つまり、マッカーサーの当初の偏見は、動かしがたい根を張り、主流となっていた。そして、左翼政党を支える史観として、つねに利用されていたのである。
パル判事の判決書をはじめとし、法律家、特に国際法の研究家たちの意見は、東京裁判は国際法に基づく裁判ではないという認識に落ち着いているように思われる。法律家も認めず、かつ、その軍事法廷を作らせたマッカーサー自身が、公の場でその設置を後悔しているのであるから、東京裁判に対する一種の無効宣言がなされるべきであろう。
それも、日本がやるのでなく、その裁判を設置せしめたアメリカにやってもらうのが、最も有効である。
もちろん、このことは言うは易く行なうは難い。特に東京裁判を利権として活用してきた国々や、国内の団体や個人は、それに反対するであろう。それを政治日程などに載せることは、もとより不可能である。
しかし、日本はそれを、将来のいつの日かの目標として、持ち続けなければならない。
日系市民を強制収容所(リロケーション・キャンプ)に入れたのはルーズベルトの間違いである。こんな明白な間違いをアメリカ議会や政府が公然と認めて、補償措置を採ったのは、約45年後である。今後、40年から50年もすれば、東京裁判無効宣言の機会があるだろうと期待しよう。