§7 心が臨界質量を超える――誇りある日本を取り戻すために
◆戦争には両者とも言い分がある
今になってわれわれだけが、戦争を謝罪するということになると、多くの国民は心の中で黙っていられないはずです。要するに、アメリカはナチス以上のことを日本列島でやったではないかということについて、ふつふつと国民の中から怒りや復讐の念がわき起こってくることになるでしょう。つまり、先ほどいったように、戦争というものは勝ったほうも負けたほうもそれぞれ根深い言い分があり、ある意味では、戦後も、心の中では戦争は続いているのです。
『歴史を裁く愚かさ』
( 西尾幹二、PHP研究所 (2000/01)、p270 )
しかし、こと戦争に関してだけは謝ってはいけない。ほかのことなら、どんなことをしてでも謝らなければいけないし、謝るべきです。だが戦争は、勝ったほうにだけでなく、負けたほうにも十分な言い分があるのです。ただ、負けたほうは自分の言い分が抑圧されている。この50年間、日本の言い分は抑制されっ放しでした。
両方に言い分があるのを調停して、講和条約によって和解するわけで、条約の締結はいってみれば手打ち式ということです。こういうかたちで法的に、それまでのことは水に流そうではないか、といって国家間の賠償もそこでけりをつける。お互いに、あとからごちゃごちゃいい出したら切りがないから、不満はあるだろうけれども、ここで手を打つ。これが国家間の約束事です。お互いに言い分があるけれども、これはいわない。あるところから先は沈黙、という以外にないのではないでしょうか。だから、日本は沈黙し続けているのです。
われわれはすぐ広島、長崎のことだけをいいますけれども、一夜にして十万余の人命を無差別爆撃で奪った3月10日の東京大空襲は、住民殺傷を直接の目的とした空爆です。そのとき、日本はすでに制空権を失っておりましたから、この3月10日を皮切りに8月15日の早朝まで、北海道の端から鹿児島の端まで、ありとあらゆる都市がやられっ放しでした。
アメリカの空軍は日本の軍隊と戦っていたのではなく、完全に無防備な市民たちが逃げ惑う地域を標的にして、市民を殺傷する以外のいかなる目的ももたない爆撃を続けたのです。その結果、70数万人が犠牲になるという、第二次大戦において空前絶後の悲劇を生んだのです。
東京大空襲の直後に、『ニューヨーク・タイムズ』の従軍記者は、「これはアメリカ空軍にとって道徳的にたいへん危険な賭けである。なぜなら、ナチスの無差別市民殺傷爆撃で有名なゲルニカをアメリカ国民に思い出させることになるからで、これに対する米国市民の道徳的反応が心配だ」と打電をしているのです。
しかしアメリカ国民は黙殺しました。すなわち日本民族の大量虐殺には、全く道徳的には反応しなかった。そして、いつのまにか虐殺したのは日本人のほうだという奇妙な論理がはびこりだして、われわれのほうが罪の意識にとらわれるというおかしなことになりました。
ですから、今になってわれわれだけが、戦争を謝罪するということになると、多くの国民は心の中で黙っていられないはずです。要するに、アメリカはナチス以上のことを日本列島でやったではないかということについて、ふつふつと国民の中から怒りや復讐の念がわき起こってくることになるでしょう。つまり、先ほどいったように、戦争というものは勝ったほうも負けたほうもそれぞれ根深い言い分があり、ある意味では、戦後も、心の中では戦争は続いているのです。ただそれを抑えて我慢しているだけのことですから、戦争に関してだけは謝罪してはいけない。それをすると寝た子を起こす。心の中に波風が起こってくる。そういうことが、どうして日本では分からないのでしょうか。日本人にだけ、日本の一定方向の政治家やマスコミにだけ、これが分からないのです。
◆戦争には両者とも言い分がある
今になってわれわれだけが、戦争を謝罪するということになると、多くの国民は心の中で黙っていられないはずです。要するに、アメリカはナチス以上のことを日本列島でやったではないかということについて、ふつふつと国民の中から怒りや復讐の念がわき起こってくることになるでしょう。つまり、先ほどいったように、戦争というものは勝ったほうも負けたほうもそれぞれ根深い言い分があり、ある意味では、戦後も、心の中では戦争は続いているのです。
『歴史を裁く愚かさ』
( 西尾幹二、PHP研究所 (2000/01)、p270 )
しかし、こと戦争に関してだけは謝ってはいけない。ほかのことなら、どんなことをしてでも謝らなければいけないし、謝るべきです。だが戦争は、勝ったほうにだけでなく、負けたほうにも十分な言い分があるのです。ただ、負けたほうは自分の言い分が抑圧されている。この50年間、日本の言い分は抑制されっ放しでした。
両方に言い分があるのを調停して、講和条約によって和解するわけで、条約の締結はいってみれば手打ち式ということです。こういうかたちで法的に、それまでのことは水に流そうではないか、といって国家間の賠償もそこでけりをつける。お互いに、あとからごちゃごちゃいい出したら切りがないから、不満はあるだろうけれども、ここで手を打つ。これが国家間の約束事です。お互いに言い分があるけれども、これはいわない。あるところから先は沈黙、という以外にないのではないでしょうか。だから、日本は沈黙し続けているのです。
われわれはすぐ広島、長崎のことだけをいいますけれども、一夜にして十万余の人命を無差別爆撃で奪った3月10日の東京大空襲は、住民殺傷を直接の目的とした空爆です。そのとき、日本はすでに制空権を失っておりましたから、この3月10日を皮切りに8月15日の早朝まで、北海道の端から鹿児島の端まで、ありとあらゆる都市がやられっ放しでした。
アメリカの空軍は日本の軍隊と戦っていたのではなく、完全に無防備な市民たちが逃げ惑う地域を標的にして、市民を殺傷する以外のいかなる目的ももたない爆撃を続けたのです。その結果、70数万人が犠牲になるという、第二次大戦において空前絶後の悲劇を生んだのです。
東京大空襲の直後に、『ニューヨーク・タイムズ』の従軍記者は、「これはアメリカ空軍にとって道徳的にたいへん危険な賭けである。なぜなら、ナチスの無差別市民殺傷爆撃で有名なゲルニカをアメリカ国民に思い出させることになるからで、これに対する米国市民の道徳的反応が心配だ」と打電をしているのです。
しかしアメリカ国民は黙殺しました。すなわち日本民族の大量虐殺には、全く道徳的には反応しなかった。そして、いつのまにか虐殺したのは日本人のほうだという奇妙な論理がはびこりだして、われわれのほうが罪の意識にとらわれるというおかしなことになりました。
ですから、今になってわれわれだけが、戦争を謝罪するということになると、多くの国民は心の中で黙っていられないはずです。要するに、アメリカはナチス以上のことを日本列島でやったではないかということについて、ふつふつと国民の中から怒りや復讐の念がわき起こってくることになるでしょう。つまり、先ほどいったように、戦争というものは勝ったほうも負けたほうもそれぞれ根深い言い分があり、ある意味では、戦後も、心の中では戦争は続いているのです。ただそれを抑えて我慢しているだけのことですから、戦争に関してだけは謝罪してはいけない。それをすると寝た子を起こす。心の中に波風が起こってくる。そういうことが、どうして日本では分からないのでしょうか。日本人にだけ、日本の一定方向の政治家やマスコミにだけ、これが分からないのです。