電脳筆写『 心超臨界 』

偶然は用意の出来ている人間しか助けない
( ルイ・パスツール )

真理のひびき 《 人が人の世のためを本位として活きる時——中村天風 》

2024-07-07 | 03-自己・信念・努力
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[箴言四]

人が 人の世のためを 本位として活きる時
その心の中に 卑しい不平不満の 火は燃えない
Live devotedly for the sake of the world, then the fire of low
discontent or dissatisfaction will not be in flames in your mind.


『真理のひびき』
( 中村天風、講談社 (1996/7/18)、p46 )

およそ人間がこの人の世に生きるとき、何をおいても重大に考えねばならぬことは、人生に対処する、その精神態度である。

ということは常に私の講述するところであるから、もちろん会員の皆さんも充分に理解されていることと確信する。そしてその精神態度の完全決定という人類の最高の人生理想が、この文化の高潮期であるにもかかわらず今なお未解決のまま推移されつつあるとき、既に半世紀の以前に、私が努力研鑽(けんさん)して一つの方法組織を体系づけ、それを教示することを講習の本旨(ほんし)として、汎(ひろ)く真人の養成に主力を注ぐという尊い聖業を天風会がその終始一貫の目的としているということも、これまた会員諸子の熟知されるところで、同時にまた皆さんにおいても、この会の会員として真理を践行(せんこう)して現在人生に活きるということに、大きい誇りと幸福とを感じておられることと、これまた断固として確信する。

が、平素折あるごとに、私が講述しているとおり、何としても現代は物質文化の特異な発達に引きかえて精神文化の進歩が著しく後れている関係上、特に人々の大切な精神統御なるものがとかく平衡を失するため、人々の多くはややもするとその精神態度が消極的になり、その当然の結果として心の力が極度に低下、またそれに伴って気力の減退となって、結局神経過敏な人間が老若の男女を通じてすこぶる多くなったのである。そしてそのまた結果として、人間の心の力をアンバランスにするもっとも顕著な原因である、不平不満という卑しむべき心的状態が、人間というものの共通的な当然の心もちのようにさえ思われるようになったのである。

実際、現代の多くの人々は、不平不満という心もちを心の中にもたせるということが、すこぶる価値のない、卑(いや)しむべきものだということを正しく認識している人があまりにも少ない。

否、反対に不平不満というものは、人間に与えられた当然の権利のようにさえ思い込んでいる人が多いというのが、しばしば見聞される事実である。

そして中には、不平不満を主張することのできない人間は、いわゆる俗にいう意気地のない人間か、さもなければ良識が欠如している人間であるかのごとく、極端な誤った解釈を、平然としてしている人すらある。

だから、この種の人というものは、不平不満という心的状態を卑しい価値のないことというのは、何ゆえの理由が存在するためかなどというようなことは、毛頭知っていない。

もちろん、それを知らないから、事ごとに盛んに不平不満を常習的に口にするのであろうと思う。

しかし、知る識(し)らざるとを問うことなく、不平不満を口にするという心もちをその心にもたせると、人間それ自身を不幸にする場合が多く招来されて、決してその心的態度から幸福というものは発生しないのである。

というのは、常に私の講術で耳にされる心身相関の真理の帰結で、直接的には判断力、断行力、さらに精神能力というものがどんどん萎縮減退し、間接的には体力や胆力(たんりょく)、果ては精力まで、そのよくない影響が波及されて、結論的にいうと、生命力の一切が劣弱(れつじゃく)になってしまうのである。

生命力の一切が劣弱になれば、いかなる努力をしたとて、幸福というものは来ない。それは電圧の低下した電流では、モーターが回転しないのと同様である。

ところが実際はたいていの人が、いろいろ難しい議論や、ややこしい理屈を口にする割に、この大切な人生理解がその理智の中に、何ごとぞといいたいくらい、判然としていないのである。

だから、どうすれば不平不満という、価値の向下的な心的状態を心に発生せしめないようにうまく意のままに防止することができるか、というような階級の高い貴重な人生理解などは微塵(みじん)もない。

すなわち、まず人の世のためを本位とするという心もちで活きるという人生への活き方を、実行すべしであるということをまったく理解していないということである。そしてそれを現実にするのには、第一に権利の主張よりも義務の実行を先にすることを常にその心がけとして、そしてこの心がけを実行に移すには、できうる限り不当の欲望や、身の程を顧みない要求を捨てるという、高貴の心を堅持(けんじ)するということが何よりの要訣(ようけつ)だということを知らない。

否、そうしたことに気づいても、それがなかなか容易に実行できることではないと思い込んでいる。

もっともそれは無理からぬ次第で、世間の多くの人々は、天風会員なら知っているような積極精神の現実完成法たる「観念要素の更改法」も、「神経反射の調節法」も、また「積極観念の養成法」というがごとき尊貴(そんき)の精神改造法などは全然皆目知らないからである。

そして、その当然の因由関係で、精神の感応性能が極度に弱性化しているため、たまたまそれが実行できないのである。そのため、不平不満のごとき卑しい心もちが、ややもすると勃発するということになるのである。

このことをよく考えると、真理を知り、真理に順応する践行をその生活と生存の方法として、常に明るく朗らかに活き活きと勇ましく日々の人生にこうして価値高く活き得られるお互い会員は、ほんとうにありがたいうれしいことだと痛感する次第である。

そして同時に、多々益々(たたますます)人生真理の実行者としてのその資格を、決してなくしたり冒瀆したりすることのないように、より更に心意を新たにして、実行にいそしもうという正念が、勃然(ぼつぜん)として煥発するのを感ずるであろうとあえて断言する。ほんとうに活きがいのある真人となるために……。
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