電脳筆写『 心超臨界 』

知識の泉の水を飲む者もいれば
ただうがいする者もいる
( ロバート・アンソニー )

◆『菊と刀』《 『菊と刀』パラダイム 》

2024-06-25 | 05-真相・背景・経緯
◆『菊と刀』《 『菊と刀』パラダイム 》


実は、『菊と刀』も、対日戦争・占領政策の一環として取り組まれた文化研究の一つだったのです。ベネディクトは、1944年6月、連邦政府の諜報機関である「戦時情報局」(OWI:Office of War Information 1942~45年)から国民性研究チームの一員として日本研究を手がけるよう依頼されます。研究目的は、対日戦争を最終的に勝利に導き戦勝後の占領政策を成功裏に遂行するために、日本を「理解」することでした。


『日本人としてこれだけは知っておきたいこと』
( 中西輝政、PHP研究所 (2006/10)、p218 )

こういった「日本人論」の先駆けとなったのが、アメリカの文化人類学者ルース・ベンディクトの『菊と刀』(原題“The Chrysanthemum and the Sword”1946年)でした。戦時中に敵として叩きつぶさねばならない日本人に対し、馬鹿げた独自の「恥の文化」や「暴発しやすい日本人」を強調するために書かれた同書は、早くも昭和23年に翻訳出版されています。

敗戦にうちひしがれていた日本人は、この書に大きな衝撃を受けます。「これほどまでに日本人は特殊で変っていて、世界の流れから孤立していたのか」「こんなにアメリカは日本を研究し尽くしていたのか」と。この本がどれだけ戦後の日本人を呪縛することになるか。私は、『菊と刀』によって植え付けられた、日本人の自虐的な思考の枠組みを、「『菊と刀』パラダイム」と呼んでいます。

例えば、いまでも、こんな話をよく耳にします。日本人旅行客は西洋人に比べて旅先で行儀が悪い。これは、日本人が外聞だけを気にして行動する「恥の文化」だから、「旅の恥はかき捨て」と考えるのに対し、西洋人は内部の良心の働きに基づき罪の自覚を持ちつつ行動する「罪の文化」だから、人が見ていようといまいと旅先でも一貫した行動をするのだ、と。

これが、『菊と刀』の中でももっとも日本人に知られるところとなる「恥の文化」論です。すなわち、西洋=「罪の文化」=「内部の良心の働き」、日本=「恥の文化」=「外部の世間からの強制」という二分法で西洋と日本を対立的に捉える比較文化論です。

いまとなっては、この議論がおかしなことは、誰でもわかると思います。

例えば、西洋文化では「外部からの強制」が行動規範にはなっていないのかというと、まったくそんなことはありません。そもそも、西洋文化つまり一神教世界では、神は自分の心の中というよりも「外部」に存在します。外部の神と個々人が契約を交わして戒律を守る。戒律を守れば救われ守らなければ罪となる。というのが西洋文化です。一方、日本の精神文化の根底に流れるのは、記紀の神話的世界につながる神道です。神道の世界に戒律はありません。われわれは先祖から受け継がれてきた美意識――穢(けが)れに敏感な道徳意識――に基づき、内省的に自らの行動を律してきたのです。むしろ、すぐれて内省的なのは日本文化だ、とさえいえます。

また、日本に「罪の文化」がないかといえば、そんなことはありません。神道的な「罪(つみ)」「科(とが)」の意識は、日本人の精神の根底に鋭くあるのです。日本人は仏教思想に基づく「罪の文化」によっても自らを律してきました。要するに、「罪」の定義の問題にすぎないのです。自分たちだけにしか適用しない定義を一方的に他にあてはめる「罪の文化・恥の文化」という二分法こそ、あまりにも未熟な独りよがりの文化論にすぎなかったのです。

そもそもベネディクトは、アメリカ人類学会を代表する非常に有能な文化人類学者ではあっても、ジャパノロジスト(日本研究の専門家)ではありませんでした。彼女は、文化相対主義の「文化の型」研究や、スケールの大きな文明論で知られていました。彼女は、「すべての文明・文化は、等価値である」ことを大前提として受け入れているトインビーやシュペングラーら20世紀を代表する文明史・比較文明論の巨人が残した足跡を正しく踏まえた文明論研究者だったといえます。

それなのに、『菊と刀』の執筆にあたっては、単純に西洋文化を優位とする見方に傾き、日本の思想や文明についても自ら精査することをしませんでした。日本人を考察する上で先行研究以外に材料としたのは、日本人について戦前に英語で書かれた――ペリー来航以来、欧米人などによって描かれた――日本見聞記、印象記の類、あるいは在米日系一世に対する面接調査などでした。ここから、「生身の日本人」と「理想的な西洋人」を対比するちぐはぐな「日本人論」が生まれてしまうのです。なぜ、ベネディクトほどの文化人類学者が、このように拙速ともいえる日本人論を展開する必要があったのでしょう。

答えは、『菊と刀』の冒頭に明示されています。

〈日本人はアメリカがこれまでに国をあげて戦った敵の中で、もっとも気心の知れない敵であった〉(『菊と刀――日本文化の型』長谷川松治訳)

実は、『菊と刀』も、対日戦争・占領政策の一環として取り組まれた文化研究の一つだったのです。ベネディクトは、1944年6月、連邦政府の諜報機関である「戦時情報局」(OWI:Office of War Information 1942~45年)から国民性研究チームの一員として日本研究を手がけるよう依頼されます。研究目的は、対日戦争を最終的に勝利に導き戦勝後の占領政策を成功裏に遂行するために、日本を「理解」することでした。すでに幾度も述べたように、日本を改造して「民主主義」を根づかせ、アメリカに対する脅威を取り除くためには「日本文化を根底から変えねばならない」とアメリカ政府は考えたのです。彼女は愛国者でしたから、そういった国家的要請に一生懸命応えました。

GHQが日本打倒の後、あたかも客観的な研究であるかのように粧(よそお)って、熱心に翻訳を促したのは当然のことでした(もっとも、彼女自身は、教え子たちに「『菊と刀』は、あまり読まないように」と漏らしたと伝えられています)。
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