電脳筆写『 心超臨界 』

人は歳をとったからといって遊ぶことを止めない
人は遊ぶことを止めるから齢をとるのだ
( バーナード・ショー )

悪魔の思想 《 横田喜三郎――人間はどれだけ破廉恥になりえるかの標本/谷沢永一 》

2024-08-02 | 04-歴史・文化・社会
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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さすがは法律学者です。東京裁判で裁こうとされている行為が「なぜ犯罪を構成するか」という肝心要(かなめ)の法律問題については、冒頭陳述で一言半句の「説明」もなされていない根本的な欠落を衝(つ)いています。法律なくして裁こうとするのですから「説明」できないのは当然のことでしょう。ところが、そこで横田喜三郎は見事に反転するのです。「説明していないこと」、それはそれで一向にかまわないのであって、「くりかえし述べている」から、繰り返し、繰り返し述べているのだから、だから「犯罪を構成すること」疑いなし、と言うわけです。


『悪魔の思想』 「進歩的文化人」という名の国賊12人
( 谷沢永一、クレスト社 (1996/02)、p115 )
反日的日本人第1号・横田喜三郎(よこたきさぶろう)への告発状
第5章 栄達のため、法の精神を蹂躙(じゅうりん)した男

  横田喜三郎
  明治29年生まれ、東京帝大卒。東大教授、最高裁長官を歴任。昭
  和56年、文化勲章受賞。“東京裁判史観”の初代煽動者。平成5
  年没。

  東京裁判は無理矢理に行なわれた私刑(リンチ)でした。基準とすべ
  き拠(よ)るべき法律がなかったからです。開廷を命じたマッカーサ
  ーはのちに帰国したとき、東京裁判は間違いだったと証言しました。
  しかるに、その違法であり無法である東京裁判を、これこそ正当で
  あると全面的に支援し、そのためにあらゆる屁理屈(へりくつ)を総
  動員して、東京裁判を神聖化し合理化しようと努めたのが横田喜三
  郎です。進駐軍に身をすり寄せて阿(おもね)った第1号がこの東京
  帝国大学法学部教授でした。

5-3 人間はどれだけ破廉恥(はれんち)になりえるかの標本

もっとも、横田喜三郎だって法律学者の端くれですから、東京裁判に法律上の根拠がないことについては、これはしぶしぶながら認めざるをえません。

  以上によつて、すでに不戦条約の前に、しばしば、侵略的戦争が国
  際犯罪であると宣言されたことがわかるであろう。もつとも、正式
  に成立した条約で宣言されたことはない。まだ条約案にすぎないも
  の、または単純な決議にすぎないものにおいてである。したがって、
  正式に法的拘束力をもつかどうかは、いくらか疑問である。しかし、
  ほとんどすべての国家の間で、侵略的戦争を国際犯罪と見ようとす
  る強い意向のあることは、疑いをいれない。
                     (『戦争犯罪論』98頁)

これまた、鷺(さぎ)を烏(からす)と言いくるめる論法の見本でありましょう。宣言は単なる一方的な言いっ放しであって国家が国家としての責任において批准した条約ではありません。そんなものが「正式に法的拘束力」を発揮することは断じてないのに、それを「いくらか疑問である」と格好(ポーズ)をつけ、「いくらか疑問である」が、しかし残りの「いくらか」においては「法的拘束力をもつ」ものであるようにほのめかす。この論法は、なかなか技巧的ですね。

そして「国家の間」の「意向」を楯にとって「国際犯罪」が成立するかのように持ってゆく論法には工夫のあとがしのばれます。いくらかの国がある種の「意向」を示せば、それだけでもって「国際犯罪」が成立するのでしょうか。法律ではない、条約でもない、誰かさんと誰かさんの「意向」によって処置されるというような密林(ジャングル)の掟に、あなたは甘んじて喜んで従われるでしょうか。そもそも基準となる法律も条約もないところに、どうして裁判官の資格が成り立つでしょうか。それに対する横田喜三郎の明快な弁護論を聞きましょう。

  国際社会を代表し、その名において活動し、そのために行動すると
  いう機関はほとんどない。不法行為に対する制裁についても、国際
  社会を代表して行動する検察官がない。したがつて、もし国際社会
  が制裁を加えようとすれば、これを構成している諸国家が共同して
  制裁を加えるほかない。同時に、これらの諸国家が共同して制裁を
  加えるならば、それは国際社会そのものが制裁を加えたことになる。
                     (『戦争犯罪論』100頁)

学校で、一人の生徒がもう一人の生徒に単独で意地悪したら「いじめ」と見なされるでしょうが、学級の大多数が「共同して」嫌がらせをした場合、それは学級社会という「国際社会そのもの」による正当な「制裁」である、と肯定しなければならないんでしょうかねえ。

多数が「共同」して行なうことは正義であり、少数者はおそれいって泣き寝入りしなければならないのでしょうか。横田喜三郎は法の根本精神をふみにじっています。

多数派のすることが常に正しく、少数派は多数派の制圧に甘んじることが至当であるのなら、世に法の存在理由はありません。どれほど多数の者がある人を犯人だとみなしているとしても、それは真実と無関係な雑音にすぎないと斥(しりぞ)け、疑いをかけられているというだけで特定の人を処罰する軽率に、断じておちてはならないのが法の根本精神であるはずです。東京裁判は「諸国家が共同して」寄ってたかってやっていることだから正当だ、というのは腹に一物あっての暴論です。

横田喜三郎は、なにが何でも東京裁判の冒頭陳述を全面的に支持しなければなりません。

  劈頭(へきとう)陳述は侵略的戦争が国際法上で違法であり、犯罪を
  構成するとしている。なぜ犯罪を構成するかということは説明して
  いないが、犯罪を構成することそのことはくりかえし述べている。
                     (『戦争犯罪論』113頁)

さすがは法律学者です。東京裁判で裁こうとされている行為が「なぜ犯罪を構成するか」という肝心要(かなめ)の法律問題については、冒頭陳述で一言半句の「説明」もなされていない根本的な欠落を衝(つ)いています。法律なくして裁こうとするのですから「説明」できないのは当然のことでしょう。ところが、そこで横田喜三郎は見事に反転するのです。

「説明していないこと」、それはそれで一向にかまわないのであって、「くりかえし述べている」から、繰り返し、繰り返し述べているのだから、だから「犯罪を構成すること」疑いなし、と言うわけです。どんなに曲がった無茶苦茶な屁理屈でも「くりかえし述べ」たら権威を持ち真実となるのだそうです。東京裁判に迎合し、進駐軍に身をすりよせるためには、人間はどれだけ破廉恥になりえたかの標本ですね。

刑法の基本・罪刑法定主義を否定する無法者 へつづく
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