電脳筆写『 心超臨界 』

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( ソルジェニツイン )

活眼 活学 《 混然として中処す――安岡正篤 》

2024-10-17 | 03-自己・信念・努力
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我々は、天地という父母から生じた全くちっぽけな、しかし万物の中に在って、ちゃんと生成化育(中処)しているものである。この中処という言葉は大変に意味が深い。その中に処(お)ると、平たく言うならば、それでも一応宜しいのだが、もっと深い意味があることに着眼せねばならない。中というのは、西洋流に言うと、正に例の弁証法的発展、つまり正―反―合である。


『活眼 活学』
( 安岡正篤、PHP研究所 (1988/06)、p188 )
[3] 座右銘選話
4 天地はわが父母

◆混然として中処す

こういう英邁な碩学が作ったのでありますから、西銘という作品は非常に珍重されました。

乾稱父。坤稱母。予茲藐焉。乃混然中處。故天地之塞吾其體。天地之帥吾其性。民吾同胞。物吾與也。大君者吾父母宗子。其大臣宗子之家相也。奠高年所以長其長。慈孤弱所以幼吾幼。聖其合徳。賢其秀也。凡天下疲癃殘疾惸獨鰥寡。皆吾兄弟顚連而無告也。于時保之子翼也。樂且不憂純于孝者也。違曰悖徳。害仁曰賊。濟惡者不才。其踐形者惟肖也。知化則善述其事。窮神則善繼其志。不愧屋漏爲無忝。存心養性爲匪懈。惡旨酒。崇伯子之顧養。育英才。穎封人之錫類。不弛勞而底豫。舜其功也。無所逃而待烹者申生其恭也。體其受而歸全者參乎。勇於従而順令者伯奇也。富貴福澤將厚吾之生。貧賤憂戚庸玉女於成也。存吾順事。沒吾寧也。

乾を父と称し、坤を母と称す。予茲(ここ)に藐焉(えん)たり。乃(すなわ)ち混然として中処す。故に天地の塞(そく)は、吾れ其れ体とす。天地の帥(すい)は、吾れ其れ性とす。民は吾が同胞、物は吾が与なり。大君は吾が父母の宗子。其の大臣は宗子の家相(かしょう)なり。高年を尊ぶは、其の長を長とする所以(ゆえん)なり。孤弱を慈(いつく)しむは、吾が幼を幼とする所以なり。聖は其れ徳を合す。賢は其の秀なり。凡そ天下の疲癃(ひりゅう)殘疾、惸獨鰥寡(けいどくかんか)は、皆吾が兄弟の顚連として告ぐる無きなり。時(ここ)に之を保つは、子の翼なり。楽しんで且つ憂へざるは、孝に純なる者なり。違ふを悖徳(はいとく)と曰(い)い、仁を害ふと賊と曰ふ。悪を済(な)すは不才なり。其の形を践(ふ)む者は、惟(こ)れ肖なり。化を知れば則ち善く其の事を述ぶ。神を窮むれば則ち善く其の志を継ぐ。屋漏(おくろう)に愧ぢざるを忝(はずか)しめ無しと為す。心を存し性を養ふを懈(おこた)るに匪(あら)ずと為す。旨酒(ししゅ)を悪(にく)むは、崇伯(そうはく)が子の養を顧みるなり。英才を育(やしな)ふは、穎(えい)の封人(ほうじん)の類を錫(たま)ふなり。労を弛(ゆる)めずして豫(よろこび)を底(いた)すは、舜が其の功なり。逃るる所無くして烹(ほう)を待ちし者は、申生が其の恭なり。其の受くるを体として全きを帰すものは、参(しん)か。従に勇にして令に順なる者は伯奇なり。富貴福沢は、将(まさ)に吾が生を厚うせんとするなり。貧賤憂戚は、庸(もっ)て女(なんぢ)を成に玉にす。存は吾が順事なり。沒は吾が寧なり。

我々は、天地という父母から生じた全くちっぽけな、しかし万物の中に在って、ちゃんと生成化育(中処)しているものである。この中処という言葉は大変に意味が深い。その中に処(お)ると、平たく言うならば、それでも一応宜しいのだが、もっと深い意味があることに着眼せねばならない。中というのは、西洋流に言うと、正に例の弁証法的発展、つまり正―反―合である。

この考え方は西洋ばかりではない。東洋の学問、芸術など皆使っておる。民族の思想・文化の歴史を調べてみると、いくらでもある基本的な考え方であります。例えば日本の剣道にも、なかなか深い思索・工夫・叡智がある。その極意に守・破・離ということがある。在来の型を守る、それがまず正道だ。ところがあるところまで進んでくると、型にはまり、いわゆる因襲的になり易い。それでは生命がなくなる。そこでその型を破る。いわゆる破格、最近流行語では「脱」だ。それはまだ相対的で、その上またこれらを綜合超出する――即ち離。その無限の進行が「中」です。

中処というのは、つまり矛盾対立の中にいないで、常に解脱創造の立場におるという意味。折中という言葉もそこで初めて分かる。「折」はくじくという字。何で「折」なんていう字がついているのか。資本家と労働者の間に争議が始まる。普通「中」というとまん中を取るというふうに考える。これを妥協という。折中妥協、これでは折中という言葉が迷惑する。そうではない、折という字がついておるのは、資本家と労働者と矛盾衝突しておるが、資本家が悪ければ資本家をくじ(折)いて、労働者が悪ければ労働者をくじ(折)いて、そうして正しい高所へ進めてゆくというので折中、折という字がついているのです。ただ歩み寄る、合わせて2でわるなんていうのは真の「中」ではない。それは中毒の方だ。妥協という語も本来好い言葉であるが、今は苟合(まあまあ歩み寄って合意する)の意味に俗用する。せっかく意味深い熟語が、調べてみると、随分悪用・誤用・濫用されておるものが多い。

混然中処。万物の中に混じておるのだけれども、その中にまごまごしておるのではなく、その中に在って、常に、それこそ創造の道を進歩向上―中しておる。これが混然中処の正解です。たた四句だが、思想は深い。そして卓見である。
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