電脳筆写『 心超臨界 』

勝つという意志はそれほど重要なことではない 
勝つために準備するという意志に比べたら
( ボビィ・ナイト )

後発資本主義国の日本は、一貫して国民国家モデルを追及した――田中直毅さん

2008-01-17 | 04-歴史・文化・社会
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[21世紀と文明――多元化する世界と日本]経済評論家・田中直毅
  [1] 国家とは公人とは
  [2] 一国モデルの幻想
  [3] 主権国家を超えて
  [4] 自己統治と日本
  [5] 自己統治の世界化
  [6] 原子力と日本
  [7] 新興国と世界秩序
  [8] 新たな挑戦と日本


[2] 一国モデルの幻想
【「やさしい経済学」08.01.16日経新聞(朝刊)】

後発資本主義国の日本は、第二次大戦後も一貫して国民国家モデルを追及した。そのため、1960年代後半の高度成長末期において「封鎖経済」は可能か、という理論的課題が設定されたと思われる。これはグローバル化し始めた世界経済にあって、日本一国内で完結するマクロ政策運営は可能か、というテーマとして提示された。

世界経済の変容とそれへの日本の対応は次のようにも特徴づけられる。戦後の「ドル不足」は60年代に入ると「ドル過剰」の様相を呈し、フランスでは金こそがドルに代替すべきとの主張が強まり、国際通貨基金(IMF)と世界銀行を軸とする米国による支配体制の揺らぎが生じた。

しかも、ベトナム戦争で苦闘する米国は、68年初めに受けたテト(旧正月)攻撃を転機として、軍事的制圧を事実上放棄せざるをえなくなる。戦費急拡大のなか、経済の需要のひっ迫に伴い同国のインフレ圧力は膨張した。

ドル不安、海外から押し寄せるインフレ要因のなかで、日本が自立的なマクロ経済運営を目指すならば、もう一つの政策手段の開発が不可避とされた。政策目標に見合った同数の政策手段の「割り当て」問題の浮上である。

ドル不安の帰結である固定相場制から変動相場制への移行期(71-73年)にあって日本で高まったのが、まさに変動相場制は海外インフレ要因からの「隔離」政策に割り当てられるとの期待であった。そしてその後、「隔離効果」を手にすれば自立的なマクロ経済運営は可能との命題が日本に根付く。一見整合的な政策体系への固執は「日本ナショナリズムの確立過程」の象徴と呼べるものだ。

70年代、米国の動揺が世界に波及するなか、日本ではこの「隔離効果」に期待した財政金融政策を通じる経済のファインチューニング(微調整)や、時には「調整インフレ論」などという一国経済モデルの構築への固執が目立った。第一次石油危機を西ドイツが通貨金融政策などで乗り切ったという歴史的経緯の意味も重かった。しかし、モデルであった西独が地域経済統合による不安定の克服に向かっていたのに対して、日本では「国民国家モデル」がその後四半世紀以上も続く。

文明史のなかで、日本を海外要因から隔離して整合的なマクロ経済の調整モデルを築こうとした試みはどう評価されるのだろうか。バブル発生とその崩壊後のマクロ政策の混迷が、この時の幻想に発していたこどだけは確かである。

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