電脳筆写『 心超臨界 』

ものごとの意味するところはそれ自体にあるのではなく
そのことに対する自分の心構えにあるのだ
( サンテグジュペリ )

日本史 古代編 《 なぜ道鏡は死刑にならなかったか――渡部昇一 》

2024-08-26 | 04-歴史・文化・社会
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ここで面白いことは、絶対的権力者であった時代の道鏡も、和気清麻呂を死刑にできなかったことと、それよりもっと面白いのは、道鏡が失脚し、その野心が明らかになってからも、光仁天皇は道鏡を死刑にせず、田舎の寺の別当(べっとう)(寺務統轄官)にするという、ゆるやかな罰しか与えていないことである。権力闘争の敗者が殺されなくても済む、という新現象が出てきたのだ。


『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p207 )
2章 上代――「日本らしさ」現出の時代
――“異質の文化”を排除しない伝統は、この時代に確立した
(4) 「カミ」と「ホトケ」の共存共栄

◆なぜ道教は死刑にならなかったか

ところで聖武天皇は仏事に専念されることを望まれて退位され、次の天皇は年若き女帝ということになると、どうしても皇后が政治を助けなければならない。それで皇后宮職は紫微中台(しびちゅうだい)と改められ、藤原仲麻呂(なかまろ)(恵美押勝(えみのおしかつ))がその長官となって権力を得た。この制度は昔の則天武后のやり方に倣ったものだと言われているし、形式上の類似はある。

しかし、光明皇后は則天武后ではなかったのである。

もちろん、上皇と女帝というふうに、政治の命令が三ヵ所から出るような形態は好ましいものでなく、実際ごたごたはあったのであるが、それはすべて仲麻呂の野心が中心となっていることであり、光明皇后が武后のようなことをやったわけではない。

仲麻呂の後に女帝の下で権力をふるったのは、例の道鏡である。はじめは女帝の病気を癒したことから宮廷入りをした道鏡は、しだいに権力を得て法王の称号を賜わり、儀式は天皇に準ずるようになった。この背後には女帝と道鏡の間に特殊な関係があったらしく、実際に神護景雲(じんごけいうん)3年(769)には、道鏡を天皇としようという動きさえもあった。このときの政治は、道鏡を中心として多くの僧侶も政治の中心部に加わったものであるから、僧俗混合の珍奇な光景であったと思われる。

道鏡は、日本の正統にとっての真の危機を意味することとなった。彼は宮中において、天皇に準ずる待遇を得たのみならず、さらに神宮寺(じんぐうじ)を建てたのであった。

神宮寺というのは、神社の側(そば)に寺を建て、僧俗が神宮とともに神事を行なうという、両部神道から出たものらしいが、道鏡はそれをまず伊勢神宮の側に建て、しだいに全国の神社にその形式を押し進めていったのである。このため神宮は僧侶の下に付属するようなことになった。

さすがに伊勢に建てることには反対が強く、伊勢の神宮寺は遠いところに移された。伊勢はこのようにして免(まぬか)れたが、ほかの多くの神社ではカミがホトケに支配される形になったのであった。そして宮廷ではカミのカミたる天皇が、僧侶である道鏡に、身も心も奪われた状況にあり、まことに危険であった。

しかし、女帝も「道鏡を帝位に即(つ)ける天下泰平になるだろう」という宇佐八幡の神託があったと言われたときは驚き、和気清麻呂(わけのきよまろ)に命じて、もう一度神託を受けに行かせた。

もちろん清麻呂には、道鏡のほうから賞罰をちらつかせての圧力があったが、清麻呂は「道鏡を絶対に皇位に即けてはならぬ」という神託を持って帰ってきた。このために皇位は危ういところで救われたのである。

道鏡はこれを怒り、和気清麻呂を別部穢麿呂(わけべのけがれまろ)という名に変えさせて流罪にした。しかし、野望実現の見込みは消えたのみならず、女帝が亡くなられてからは、逆に関東地方の田舎の寺に追放されてしまう。そうして、天智(てんじ)天皇系の光仁(こうにん)天皇が即位され、長い間の政治の異常状態(アノマリ)は解消することになり、世の中は藤原時代へと流れていくのである。

ここで面白いことは、絶対的権力者であった時代の道鏡も、和気清麻呂を死刑にできなかったことと、それよりもっと面白いのは、道鏡が失脚し、その野心が明らかになってからも、光仁天皇は道鏡を死刑にせず、田舎の寺の別当(べっとう)(寺務統轄官)にするという、ゆるやかな罰しか与えていないことである。

権力闘争の敗者が殺されなくても済む、という新現象が出てきたのだ。

失脚しても前の総理大臣の首が飛ぶ恐れがなくなったのは、ヨーロッパでは18世紀イギリスのウォーポール内閣以来のことである。

日本では平安時代の何百年かの間、政治的理由で死刑になったものがないという、ヨーロッパでは18世紀のイギリスを待たなければならないような素晴らしい文明状態が、はやばやと出てくるのであるが、これらのきざしは、すでに道鏡事件に見られると思う。

政権を握っていた男が、その政権を失ってからも生命が安全であったということは、ついこの間までのソ連のことや、現在の北京政府などを考え合わせるとき、やはり素晴らしいと言ってもよいであろう。
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