電脳筆写『 心超臨界 』

悲しみは二つの庭を仕切るただの壁にすぎない
( ハリール・ジブラーン )

歴史を裁く愚かさ 《 便利すぎる歴史観――西尾幹二 》

2024-05-12 | 04-歴史・文化・社会
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歴史が一民族にとってあるときまで素晴らしく、あるときから汚辱に満ち、愚劣をきわめたという言い方は、現代日本人の欲求から出た単なる願望の反映で、問題そのものよりも答えを先に求めている心の現われではないのか、そういう疑問が強く浮かんでくるのである。つまり、便利すぎる歴史観なので胡散臭い、という疑問なのだ。


◆便利すぎる歴史観

『歴史を裁く愚かさ』
( 西尾幹二、PHP研究所 (2000/01)、p34 )
第1章 教科書問題を考える前提
2 便利すぎる歴史観

このところどういうわけか、日本人は日清・日露の戦いまでは、困難な国際情勢のなかを立派によく生き抜き、その愛国心は健全であったが、それ以後、同じ日本人とは思えないほど人間がだめになり、傲慢になり、道を誤った、というような前提で自国の歴史をとらえている論調に出会うことが多くなった、という気がしている。

私自身がついそういう前提で近現代史を考えている場合が少なくない。だから必ずしも他の誰かを批判しての話ではない。つい便利でそう考えるのである。

これを裏返して、逆の歴史観を立ててみると、たちまち説明に窮し、不自然に思えることから、二区分法的な上の見方が今のわれわれにいかに便利かに気がつくであろう。

すなわち、二区分法を廃して歴史を考えると、日清・日露から太平洋戦争を経て今日まで、日本は一貫して他国を侵す犯罪の道だけを歩み、傲慢で、その愛国心は不健全をきわめ、明治以後われわれは道を誤りつづけた、という言い方が一つ存在する。

その反対に、日清・日露から太平洋戦争を経て今日まで、日本は一貫して正義と誠実の立場をつらぬき、他国に解放と繁栄のモデルを示し、顧みて恥じるところはない、というもう一つの言い方も存在する。

この片寄った二つの歴史の立場をそれぞれ主張する人々がもちろん今も現にいるので、必ずしも克服された旧い見方ではないのだが、彼らの各々に反証を提供することはきわめて容易である。

自国の歴史を「悪玉」にするか、「善玉」にするかという違いはあるものの、どちらも善悪という道徳意識に極端にとらわれているという点では同一次元にあるといえよう。

これではどうも窮屈である。歴史のさまざまな屈折を説明できない。歴史はもっと複雑で、濃淡がある。

そう考えるわれわれは、歴史を全体として連続体として見る見方ではなく、ある時点まで正しくある時点から道を間違えたという、先述の二区分法的なものの見方につい取り縋(すが)りたくなるのである。日清・日露までは日本は良かった、あれ以後だめになった、という言い方がとても便利なのはそのせいである。われわれの今の感情にフィットする。日本人のプライドも自己反省もともにこれで満足させられる。

また、勝った戦争と敗けた戦争の違いは「賢」と「愚」の違いであり、「成功」と「失敗」の違いでもあるから、道徳感情は別にしても、今日風の合理的感情にもそれなりによく合致しているのである。

外交評論家や国際政治学者は必ずしも善悪ではものを言わない。そういう人でも、合理性と非合理性、戦略的思考と非戦略的思考の区別立てはたいへん気にしている。

日清・日露までは日本人に疑いもなく存在した戦略的思考が、1930年代以後の日本人からなぜ失われたかは、ある有名な外交評論家がたえず話題にしている。今日の日本人に魅力的なテーマである。

で、かく言う私も、そういう討議にときおり加わるし、そういう問題意識で日本の近現代史をとらえることも少なくないのだが、私の心には一寸待て、これは少し安易すぎないか、歴史が一民族にとってあるときまで素晴らしく、あるときから汚辱に満ち、愚劣をきわめたという言い方は、現代日本人の欲求から出た単なる願望の反映で、問題そのものよりも答えを先に求めている心の現われではないのか、そういう疑問が強く浮かんでくるのである。

つまり、便利すぎる歴史観なので胡散臭い、という疑問なのだ。
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