電脳筆写『 心超臨界 』

人生の目的は目的のある人生を生きること
( ロバート・バーン )

読む年表 戦国~江戸 《 赤穂浪士の吉良邸討ち入り――渡部昇一 》

2024-06-24 | 04-歴史・文化・社会
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日本人が仇討を重視したのは、日本人は忘れやすく、過去は水に流そうとする傾向があるので、むしろパラドキシカル(逆説的)に仇討を重んじなければいけなかったという説がある。世の中が平和なときには、そういう話にものすごく人気が集まる。戦国時代に討ち入りのような事件があっても、それは毎日起きていることだからどうということはない。『忠臣蔵』パラドックスだからこそ、あれほど国民的な物語になったのである。


◆赤穂浪士の吉良邸討ち入り

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p144 )

1702(元禄15年)
赤穂浪士の吉良邸討ち入り
いまも歌舞伎の人気演目『忠臣蔵』のパラドックス

五大将軍綱吉の時代に、元禄文化が花開いた。関ヶ原の戦いからすでに九十年近く平和な時代が続き、経済が発展し、町人たちもバブル景気を謳歌した。綱吉が天下の珍令というべき「生類憐みの令」を出したのも平和な時代なればこそかもしれない。

文化面では、江戸に市川團十郎、上方に坂田藤十郎という名優が登場して、歌舞伎というジャンルが確立し、近松門左衛門の書いた『曽根崎心中』が初演された。井原西鶴が『好色一代男』『日本永代蔵』を刊行し、俳諧も発展して、松尾芭蕉が独自の流儀を生んだ。

絵画では土佐派を代表する土佐光起(みつおき)、琳派(りんぱ)の始祖尾形光琳が登場している。元禄という言葉からわれわれがイメージする華やかで絢爛たる文化を代表する画家たちである。

その元禄時代に起こった大事件が、「赤穂浪士の仇討」である。

元禄14年(1701)、赤穂藩主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が殿中松の廊下で吉良上野介(きらこうづけのすけ)に斬りつけて切腹させられ、その処分を不服とした家老大石内蔵助(おおいしくらのすけ)をはじめとする旧藩士が翌年吉良邸に討ち入って主君の仇を討った。彼らは「赤穂義士」として称えられ、この事件をもとに、人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』をはじめ、さまざまな芝居や講談が作られた。平和な時代が続き、怠惰に流れる風潮があった時期に、赤穂義士が反骨の気概をみせたものだから、世間は大騒ぎしたのである。これに対して学者たちが示した反応が興味深い。

学者の間には赤穂義士を批判する意見が多く、幕末の尊皇攘夷思想に大きな影響を与えた朱子学者山崎闇斎(やまざきあんさい)の高弟・佐藤直方(なおかた)は「殿中の大法を犯した浅野が死刑(切腹)になるのは当たり前である」と言う。「恨むのなら吉良ではなく幕府を恨むべし」という意見もあり、「文句があるなら赤穂城に立て籠もって戦うべきであった」という太宰春台(だざいしゅんだい)の議論もあった。

「吉良が欲に目がくらみ、浅野を指導しなかったのが悪いのだ。浅野が殿中で刀を抜いたのはよくないが、将軍家に恨みがあったわけではない。喧嘩両成敗がルールなのに、吉良におとがめがないのは不公平で、大石らが主君の恨みを晴らそうとしたのは当然だ」と、『忠臣蔵』の芝居のような考え方を述べたのが、山崎闇斎門下で最も硬派である浅見絅斎(あさみけいさい)であったのは面白い。

林鳳岡(はやしほうこう)は義挙であるとして義士たちの助命を主張し、荻生徂徠は法を曲げることはできないとしながらも、彼らの対面を重んじて切腹を主張したといわれている。

アメリカ軍が日本を占領していたとき『忠臣蔵』を禁じたのは、日本人は非常に復讐心の強い民族だと思っていたからではないだろうか。アメリカには原爆を落とした負い目がある。東京裁判ではアメリカ人の弁護人も「原爆を落とされた以上、日本人には復讐権がある」と言っているから、日本人に仇討の気分を起こさせないように『忠臣蔵』を禁止したと思われる。

ところが、日本では仇討が頻繁に行なわれたように思われがちだが、実際はめったになかったというのが本当のところらしい。だから、赤穂義士の派手な討ち入りが大評判となり、仇討が美徳のように伝えられるようになってしまったようだ。

日本人が仇討を重視したのは、日本人は忘れやすく、過去は水に流そうとする傾向があるので、むしろパラドキシカル(逆説的)に仇討を重んじなければいけなかったという説がある。世の中が平和なときには、そういう話にものすごく人気が集まる。戦国時代に討ち入りのような事件があっても、それは毎日起きていることだからどうということはない。

日本の武士が刀という武器を持っていながら、これを戦争以外で使うことは厳禁されていることは、幕末の頃から日本に来た外国人たちがみんな驚いて書き記していることである。それは「江戸時代の平和(パックス・トクガワナ)」で武士は戦闘者というよりは、官僚、役人になっていたからである。日本の警官が拳銃を持っていても、撃つことが極めて稀なのは、その伝統の名残があるからかもしれない。『忠臣蔵』パラドックスだからこそ、あれほど国民的な物語になったのである。
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