電脳筆写『 心超臨界 』

歴史とは過去の出来事に対して
人々が合意して決めた解釈のことである
( ナポレオン・ボナパルト )

読む年表 戦国~江戸 《 新井白石の幕政登用――渡部昇一 》

2024-07-28 | 04-歴史・文化・社会
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白石が危惧したのは、「現在の将軍家は、綱吉(つなよし)、家宣と養子が続いた。つまり二代にわたって世継ぎが生まれなかったことになる。皇室でもそういうことが起こるだろう」ということであった。だから皇統断絶を防ぐため、徳川御三家のように、跡継ぎの資格を持つ宮家を作っておいたほうがいいと考えたのである。この白石の建言(けんげん)がまさに功を奏して、今日まで朝廷が続いていることになる。


◆新井白石の幕政登用

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p148 )

1709(宝永6年)
新井白石の幕政登用
天皇家の未来を洞察した白石の功績

甲府藩主徳川綱豊(つなとよ)の侍講(じこう)であった新井白石は綱豊が六代将軍家宣(いえのぶ)となってからは幕政にも重用され、次の将軍家継(いえつぐ=7歳で亡くなった)まで二代にわたって政治を補佐した。

元禄(げんろく)以来の悪貨鋳造を廃し、長崎から流出する金銀銅の莫大なことを怖れて長崎貿易を制限するなどしたが、儒者が政治の中心にいるとどんなことになるかの例のほうが面白い。

まず、当時「大君(たいくん)」としていた朝鮮通信使との外交文書における徳川将軍の肩書を「日本国王」に改めさせた。白石は「『皇』と『王』とはそもそも意味が違う。皇は天に係わるから天皇と称し、王は国に係わるから国王という。この二者には天と地ほどの差がある」と主張した。

「徳川将軍」を「日本国王」と称することは外交文書上の問題だけでなく、天皇と将軍との制度上の問題にも関係していたらしい。白石は『読史餘論(とくしよろん)』の中でこういうことを言っている。

「将軍も朝臣(ちょうしん)であり、将軍の家来も朝臣という形になっている。しかし、どちらも天子の臣下だとすると、将軍の支配を受ける者が将軍を尊ぶ理由がなくなる。公卿(くぎょう)以外はすべて将軍の家来であるということにすれば、将軍に対し官軍の名を用いて反抗する大名はいなくなる」

家宣がもう少し長生きしていたら、白石はこの制度改革を実行していたかもしれない。そうなっていたら、幕末になって尊皇攘夷派の大名が出てくることは不可能に近かったであろう。

また白石は幕府の典礼を皇室のそれと同じくしようとした。水戸学(みとがく)の流れを汲む明治の歴史家内藤恥叟(ないとうちそう)は、そのことを「白石の罪を、萬世(ばんせい)に得る所以(ゆえん)なり」と批判している。

しかし、白石は皇室に対して大きな功績がある。白石の提案によって東山(ひがしやま)天皇の皇子の秀宮(ひでのみや=直仁(なおひと)親王)を初代とし閑院宮家(かんいんのみやけ)が創設されたことは非常に重要な出来事であった。現在の皇室はその閑院宮家の直系だからである。

白石が危惧したのは、「現在の将軍家は、綱吉(つなよし)、家宣と養子が続いた。つまり二代にわたって世継ぎが生まれなかったことになる。皇室でもそういうことが起こるだろう」ということであった。だから皇統断絶を防ぐため、徳川御三家のように、跡継ぎの資格を持つ宮家を作っておいたほうがいいと考えたのである。この白石の建言(けんげん)がまさに功を奏して、今日まで朝廷が続いていることになる。後の話になるが、第118代後桃園(ごももぞの)天皇(在位1770~1779)に後嗣(こうし)がなかったため、六代さかのぼって閑院宮家から養子を迎え、第119代光格(こうかく)天皇が即位した。

これは現在の問題でもある。悠仁(ひさひと)親王がお生まれになって国民は一安心したものの、男子がお一人しかいらっしゃらないから、これから先、何があるかわからない。皇室の血を受け継いでいくには、藩屏(はんぺい)になるものを作る必要があるというのが白石の意見だった。その意見は今日にも生きているのではないだろうか。
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