電脳筆写『 心超臨界 』

自分を励ます最良の方法、それは人を励ますこと
( マーク・トウェイン )

潜在意識が働く 《 集合的無意識——柳澤桂子 》

2024-07-13 | 07-宇宙・遺伝子・潜在意識
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
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■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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  誰もがアラジンの魔法のランプを持っている。ランプをこすれば、
  強力な召使が現われ、願いを叶えてくれる。それを知る人は成功し、
  知らずに過ごせば平々凡々たる生涯を送ることになる。魔法のラン
  プの正体は潜在意識。仏教の唯識(ゆいしき)では阿頼耶識(あらやし
  き)ともいう。潜在意識が働くのは、あなたが自分の願いをどれだ
  け強く具体的にイメージしているかによる。


ユングの説明のどこまでが正しいかは別として、人類が集合的無意識と呼ばれるようなものをもっているということを、ユングは理論として思いついたのではなく、精神科の臨床医として、たくさんの人を診察する間に、事実として知ったのです。現在の脳科学では、まだ説明できませんが、ユングが事実としてこうしたことを見ていたということから、私は、おそらく集合的無意識と呼べるものはあると思うのです。


◆集合的無意識

『いのちの始まりと終りに』
( 柳澤桂子、草思社 (2001/06)、p178 )

爬虫類の脳である大脳辺縁系は、潜在意識の発現の場であると考えられています。本能というのは、辺縁系などの古い脳の記憶の中にあるのではないかと私は考えています。そこに、このような潜在意識の記憶に関する神経回路が形成されていて、今でも原始の記憶が意識にのぼってくることがあるのかもしれません。

私はユングの集合的無意識という概念がこれをうまく説明してくれるのではないかと思いあたりました。ユングは、一人ひとりの人間の心の中には、個人の記憶のほかに、原始時代から存在する膨大な量のイメージがあると考えました。大昔の心に刻まれてきたイメージを取り出して、意識にのぼらせる能力が遺伝すると考えたのです。イメージそのものが遺伝するのではなく、イメージを生じさせる可能性が遺伝するのだと、ユングは何度も述べています。

脳の中に意識にのぼらない記憶(イメージ)をたもつ神経回路があってそれを何かの折に意識にのぼらせるシステムがあるのかもしれません。

たとえば、自我意識の芽生える前の太古の人間が、朝日を見て何かを感じたとします。そうすると、そのとき、見た朝日の像が記憶として残って、何かの機会に、それが子孫に太陽に関する神話を想起させるような可能性として遺伝していくのだとユングはいうのです。ユングは、神話を想起させるような原始的なイメージは人類の最古の普遍的な思考方法であったと考えています。このようにイメージを想起させるような遺伝子が、代々私たちには伝えられているのかもしれません。

ユングの説明のどこまでが正しいかは別として、人類が集合的無意識と呼ばれるようなものをもっているということを、ユングは理論として思いついたのではなく、精神科の臨床医として、たくさんの人を診察する間に、事実として知ったのです。現在の脳科学では、まだ説明できませんが、ユングが事実としてこうしたことを見ていたということから、私は、おそらく集合的無意識と呼べるものはあると思うのです。

もしこのようなものが私たちの脳の中にあるならば、道徳観や倫理観というようなものも世界の人々に共通した感覚として、共有されているのではないでしょうか。おそらくこのような感覚は、遺伝と環境によってきめられているのでしょう。

私たちの日常でもこのような意識に支配されて、万人がおなじ感じ方をもつことができるのです。こうした多数の人がもつ感じ方を、常識というのではないでしょうか。常識は法律できめられたものではありません。それは民族によってちがう部分と、すべての人間に共通な部分とがあります。倫理観というのも、民族のあるいは人類の、さらには生物としての集合的無意識にささえられているのではないかと思います。倫理という言葉は広辞苑(四版)に「人倫の道。実際道徳の規範となる原理」と書かれていることを前に述べましたね。規範とは何か。それは集合的無意識が私たちに命ずる人の道なのではないでしょうか。

私がこのように考えるようになったきっかけのひとつは、クローン人間に対する人々の反応です。クリントンをはじめ、多くの国でもすぐにクローン人間をつくることを法で禁止しようとしました。それは、多くの人々の感情とも合致する考え方であったと思います。私たちの集合的無意識がクローン人間を「気味が悪い」と感じさせたのではないでしょうか。では、クローン人間をつくることがなぜ悪いのかと改まって聞かれると、きちんと答えられる人は、非常に少ないようです。

さらに倫理とは何かということを考えるために、尊厳死のところでもご紹介した宮川俊行氏の考えを見てみましょう。

  人間がすべて人間である以上、そこに共通普遍の人間性にもとづく
  万人に共通の意志なるものがあるのではないか。もしそうであれば、
  個人の意志が疑問の余地なく明確に示されている場合をのぞいて、
  このような普遍的意志をもって、その人間の意志としてよいのでは
  なかろうか。人には、自分勝手に自己の生命を処理することは許さ
  れない、人として乗り越えてはならぬ一定の枠があり、したがわね
  ばならぬ一定の道があり、尊重せねばならぬ客観的価値の序列があ
  る。

この考え方に私は同意できます。宮川氏は、この考えは、プラトンのイデア論にまでさかのぼることができると書いていますが、私はユングの集合的無意識の方に共通のものを強く感じます。
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