電脳筆写『 心超臨界 』

一般に外交では紛争は解決しない
戦争が終るのは平和のプロセスではなく
一方が降伏するからである
ダニエル・パイプス

活眼 活学 《 東洋の没我的精神――安岡正篤 》

2024-07-13 | 03-自己・信念・努力
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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政治社会を見まわしても、政党に属する政党員、日本の政党員というものは、明確な主義主張は持っているかも知れませんが、持っておらんでもよい。陣笠代議士でも済む。皆それぞれ親分とか主人とかいうものがあって、派閥を作っておる。その中に没我的に存在しておる者が多い。親分の言うことには何でも皆賛成。そこで政党というものに強力な親分、首領が現われた時には、実によく自分の手足を動かすように政党を率いていくことができます。善悪共に自由をきかせること、無理をきかせることも首領はできるわけであります。西洋ではなかなかこれは通らない。


『活眼 活学』
( 安岡正篤、PHP研究所 (1988/06)、p76 )
[1] 活眼・活学
4 日本人の心

◆東洋の没我的精神

今まで衣食住とか絵画とか詩とかいうようなことをお話しして参りましたが、これを個人生活、家庭生活、社会生活、国家生活、あらゆる方面に徴しましても、このことがやはり一貫して観察されるのであります。西洋の方は非常に自我の観念が明確でありまして、従って人間が個我的・主我的・個人主義的であります。

西洋文化は大体 individualism、個人主義の上に立っておる。これに対して我々の方は、統一、含蓄、言い換えれば、自分というささやかなものから、少しでもこれを摂取する根源の大生命に帰一して生きてゆこうという本領を持っておりますから、没我的である。個我的・主我的なる精神の発達として、権利観念・平等思想というものが生じる。これが正しく発展いたしますと、各人各個の自覚が明瞭になりまして、お互い同士の間に、義務を明らかにして共同組織、共同動作が発達します。これによって社会という大きな体系的生活が自治的に調和的に営まれていくということができます。ところが一度これに失敗しますと、権利・義務の観念、平等主義の観念が、排他主義・利己主義・分裂破滅となります。

西洋の家庭生活を御覧になりますと、夫婦というものは、原則として平等である。おのおの自己を知り、相手を理解し、そして共同生活を営む。妻も財産権を持っておる。夫は自分の経済的失敗によっても、累を妻に及ぼさないで済む。妻は自分から進んでなさん限り、夫の財産上の破綻とは無関係でいられる。金では他人で、妻が財産を持っておっても夫を助けることをしないでも済む。同じように、こちらに資力がないと、結婚が行われ難い。子供は子供、夫は夫、妻は妻、父は父というふうに、明確に個人的生活が限界を保ってゆかれる。

議会制度などを見まわしても、向うの政党はこれを構成する代議士たちが、それぞれの見識を持ち、それぞれ主義を持って、明瞭に自己の政策を持っておる。それが協同して、ここに生まれるものが政党です。そこで政党の首領というものでありますが、首領の党員に及ぼす影響は東洋とはだいぶ違う。よほど機械的であります。組織が主で、首領はその中にある。従って首領というものの如何に拘らず、政党及び政党員は独立性を保ってゆく。その政党に属する党員が平気でその党の政策を批判もすれば、反対もする。他の党員があえてそれを怪しみもしない。

経済社会を見まわしても、資本家は資本家、労働者は労働者で、仲良くいった場合には資本・労働両方面の協調がよく行なわれる。労働者は労働者としての自覚を持ち、資本家は資本家としての自覚を持って、対立もするが協調もする。これが過つと果てしもない闘争となる。

東洋は、なかなかそう簡単明瞭、常識的には参りません。戦後だいぶ変わってきたとはいうものの、こちらの方の家庭は、まだ決して、夫なり妻なり、親なり子なりというものが、明確に相対的平等的な自覚の共同生活、本当の意味の民主的な特徴はそれほど現われておりません。どちらかといえば、お互いに没我的になって相愛し相扶け合うというのが原則で、親は子のために己を忘れ、妻は夫のため、夫は妻のために全く自己を捧げる。そして夫や子供の喜ぶのを見て、母や妻は喜ぶ。夫あり子あることを知って自分あることを忘れる。親も子に対してそうでありますが、それが普通、それが正しい。だから西洋と違って、夫が物をもらえば、妻が礼を言う。子供が物をもらえば、親が礼を言う。

政治社会を見まわしても、政党に属する政党員、日本の政党員というものは、明確な主義主張は持っているかも知れませんが、持っておらんでもよい。陣笠代議士でも済む。皆それぞれ親分とか主人とかいうものがあって、派閥を作っておる。その中に没我的に存在しておる者が多い。親分の言うことには何でも皆賛成。そこで政党というものに強力な親分、首領が現われた時には、実によく自分の手足を動かすように政党を率いていくことができます。善悪共に自由をきかせること、無理をきかせることも首領はできるわけであります。西洋ではなかなかこれは通らない。

経済社会を見まわしても、やはりそうでありまして、労資というものが西洋のように常識的・理性的によく妥協する、機械的によく提携をする、ということでは日本人は満足できません。何かそこに感激があり、熱情があり、没我的な結びがないと収まらない。皆さんは幡随院(ばんずいいん)長兵衛とか清水次郎長とかいうものを何と考えておいでになりますか。あれは現代的に言いますと、ちょうど今日で言うところの労働組合長・兼職業紹介所長・兼簡易宿泊所長といったものを、一身に統一・含蓄しておるものであります。そして労働者は皆身内(みうち)というもので、労働というものを一つの道徳的行為、人間的感激のあるものに昇華させておるのであります。こういうところに、東洋社会のいろいろの特質がよくあらわれております。
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