電脳筆写『 心超臨界 』

自分を励ます最良の方法、それは人を励ますこと
( マーク・トウェイン )

般若心経 《 悪業が大きければ、功徳も大きい――松原泰道 》

2024-07-13 | 03-自己・信念・努力
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
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そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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仏教語の「清浄(しょうじょう)」は、一般でいう「不浄」との比較でなく、清浄を好み不浄を嫌う揀擇(けんじゃく)(選り好みや選り嫌い)のない平静な心の状態をいうのです。揀擇の念が起こると、きれいなものを取り、汚ないものを捨てたり、あるいは、美しいものを愛し、醜いものを憎んだりする差別や対立観となるからです。すなわち不垢不浄は、差別のない空の相なのです。


『わたしの般若心経』
( 松原泰道、祥伝社 (1991/07)、p207 )
6章 不生不滅の教え――刻一刻、死に向かいつつある生(せい)を生き抜くために
(1) 来るべき「死」を見つめて
舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
しゃりし ぜしょほうくうそう ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん

◆悪業(あくごう)が大きければ、功徳も大きい

作歌の水上勉(みなかみつとむ)さんは「不垢不浄」について、並ならぬ体験を語られます。

  「私たちは凡夫であるがゆえに、不浄を美しいと思う時がある。私
  は、嘗(かつ)て、私の先の妻が入院して、お産をなした時、戦時下
  の苦しい時であったので、看護婦のいない病室で妻の恥部を洗った
  ことをおぼえている。また、早死にした嬰児(えいじ)が黄疸(おう
  だん)症状の、ひからびた尻から、青いウンチをたらすのを、何べ
  んもふきとったことをおぼえている。当時、綿花は配給で産婦一人
  に一袋しかなかった。妻の出血した恥部や、赤ん坊のお尻をふいた
  あとの綿は捨てるにしのびなくて、洗面器でよく洗ってから部屋の
  壁にさしわたした針金にとおして干し、これをまた次の機会に使っ
  たのもおぼえている。人が、いや、お釈迦さままでが不浄と名ざさ
  れたものが、私には、そう不浄とは思えなかった。凡夫の力という
  ものか。惚れた女のどこが汚なかろう。愛(いと)し子のどこがきた
  ないというのだろう。私は先に、私の感性として、不浄を遠ざけよ
  うとするものが、本来にあることを認めておいたが、愛着に狂えば、
  じつはその不浄と思う感性がにぶって、私は、妻子の汚物に嫌悪を
  感じなかったのである」
        (『般若心経を読む』PHP研究所刊・139ページ)

私たちは、身内の者には不垢不浄の自由なはたらきができても、他人にそれができないところに、人間の不自由さがあります。しかし、すべてにこだわらない空の相は、親族と他人との区別なく不垢不浄です。空という宇宙大の慈悲ともなれば、不垢不浄の相を示すわけです。

自然の営みを見ていると、すべて不垢不浄で汚いもきれいもありません。“清濁併せ呑む”といいますが、大海がそうです。

また大地は、汚水を厭わずに吸収して浄水にするし、汚物を肥料に転じます。自然の営みそのものが不垢不浄の空相を表わしているのです。それは不浄を清浄に昇華する、積極的で生産的な空相でもあるのです。

とかく原始仏教が、不浄を避け、清浄を求める選り好みの消極的で非生産的な傾向を持っていたのに対して、心経の大乗仏教思想は、浄と汚とを止揚して、不垢不浄という空相を展開するのです。

垢(く)とか汚は、また煩悩の意味です。煩悩に対するのが、さとりです。さとりを好み煩悩を嫌う生き方を、後期の仏教思想では超越しますが、たとえば親鸞は、この思想をわかりやすく、

  罪障功徳(ざいしょうくどく)の体となる
  こほり(氷)とみづ(水)のごとくにて
  こほりおほ(多)きに みづおほし
  さはり(障)おほきに みづおほし
               (『高僧和讃(こうそうわさん)』40)

と和讃に詠んでいます。親鸞は、この和讃の結句「さはりおおきにみづおほし」に、細字で〈アクゴウオホケレバクドクノオホキナリ〉――悪業(あくごう)多ければ(多いほどほとけの)功徳の大きなり――と注をしています。禅語に「泥(どろ)多ければ仏(ほとけ)大(だい)なり(材料の粘土が多ければ、それだけ仏像も大となる)」とあるのも、同じ意味です。

仏教語の「清浄(しょうじょう)」は、一般でいう「不浄」との比較でなく、清浄を好み不浄を嫌う揀擇(けんじゃく)(選り好みや選り嫌い)のない平静な心の状態をいうのです。揀擇の念が起こると、きれいなものを取り、汚ないものを捨てたり、あるいは、美しいものを愛し、醜いものを憎んだりする差別や対立観となるからです。すなわち不垢不浄は、差別のない空の相なのです。
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