電脳筆写『 心超臨界 』

人の心はいかなる限界にも閉じ込められるものではない
( ゲーテ )

日本史 古代編 《 記紀の驚くべき公平さ――渡部昇一 》

2024-07-09 | 04-歴史・文化・社会
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最近出てくる日本史年表というのは、ひじょうに変わっているのである。非常に科学的であろうと努め、しかも皇室中心の年表でなくしようとしているらしい。その意味ではそれなりの使い道はあるのだが、正式に天皇の名前が出されるのは継体(けいたい)天皇からになっている。伝統的な日本史では、二十六代目の天皇からが、はじめて史的であると日本の歴史学者は認めるらしい。


『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p73 )
1章 神話に見る「日本らしさ」の原点
――古代から現代まで、わが国に脈々と受け継がれたもの
(5) 日本的アイデンティティの出発点

◆記紀の驚くべき公平さ

では日本の記紀はどうか。ともかく、それは1250年以上前に系統的に書き記されたものであり、その伝承の内容は、それから少なくとも数百年はさかのぼりうるものであること、そして多くの伝承の集大成の面が強く、しかもその伝承の中心になった王朝も、それを取り巻く主要氏族も、現在まで続いているというところが、日本の古代史の持つ最大特色である。

たとえば、トロヤ戦争のギリシャ軍の総大将であったミケーネ王アガメムノンの子孫が現代もまだギリシャ王であったとしよう。その直系の子孫が千何百年も前にトロヤ戦史やその後の発展を編纂させ、しかもそれが現在も残っているとしたならば、西洋古代史はそれを軸として展開するであろうし、そうでなければおかしいところだ。いろんな修正や異説は出されても、アガメムノンの子孫である王室が編纂させた20巻もの古代ギリシャ史が残っているとすれば、何が何でもそれを中心として古代の理解がなされるよう努力するだろう。日本の記紀というのは、そうしたものなのである。

ところが、最近出てくる日本史年表というのは、ひじょうに変わっているのである。非常に科学的であろうと努め、しかも皇室中心の年表でなくしようとしているらしい。その意味ではそれなりの使い道はあるのだが、正式に天皇の名前が出されるのは継体(けいたい)天皇からになっている。伝統的な日本史では、二十六代目の天皇からが、はじめて史的であると日本の歴史学者は認めるらしい。

それでどういうことになるかというと、われわれの常識とはまったく違ったものになる。たとえば仁徳(にんとく)天皇(第十六代)については、たいへん人間的なエピソードがあり、その御陵(ごりょう)の底面積はエジプトのピラミッドや秦の始皇帝の墓よりも大きく、陵墓(りょうぼ)としては、おそらく世界最大のものとされている。しかもそれは現在でも大阪府に現存している。しかしこの墓まで現存している天皇が、科学的な日本史年表からは除かれたり、カッコ付きになっているから、日本史の学者の「科学」の理解の仕方は独特のものであると言わねばなるまい。

同じことは応神(おうじん)天皇陵についても言える。天皇の御陵は現存しているが、天皇自身は年表から抹殺されてしまっているのだ。

天皇が消されているくらいだから、皇子が消されるぐらいは何でもない。日本武尊(やまとたけるのみこと)という日本のアーサー王と言いたいほどの伝承の多い古代英雄は、すっかり消えてしまった。しかしこの皇子が使った草薙剣(くさなぎのつるぎ)もその戦場であった焼津も、その歌にうたわれている筑波山も現存している。ただ、そのもととなった皇子だけは歴史的でないと「科学的」史学者は言うのである。

日本武尊の出たついでに言うならば、この皇子は父の景行(けいこう)天皇(第十二代)に憎まれていたらしい。九州の賊をやっとのことで平(たい)らげて来たら、ろくに休む間もなく、しかも軍隊もつけないで、ただちに東の賊を討てとの命を受けている。そこでこの豪気な息子も、伊勢神宮の管理をしておられた叔母さんのヤマトヒメノミコトのところに行って嘆くのだ。

「このように私を酷使されるのは、父の景行天皇は、私を死んでしまえと思っていらっしゃるにちがいない」と。

これは天皇に対する皇子の悪口だ。しかも重大な悪口だ。しかし、これは『古事記』という皇室の御用の語部(かたりべ)の伝承によって保持されたものを正史として記録した本に載っているのだ。驚くべき公平さと言わねばなるまい。

戦後、記紀は皇室讃美の書として、その史的公平さを頭から問題にしない風潮があった。しかし悪い天皇の悪事は悪事として書いてあるのだし、また『日本書紀』は、つねに「一書ニ曰ク」として異説も併記しているのであるから、現在の共産主義国家の国史より、公平度がはなはだしく劣っているとは言えないであろう。少なくとも、今から13世紀以前に書かれた歴史書としては、その長所に感嘆するのが自然ではないかと思われるのである。
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