電脳筆写『 心超臨界 』

一般に外交では紛争は解決しない
戦争が終るのは平和のプロセスとしてではなく
一方が降伏するからである
D・パイプス

人間学 《 己を無にする作業――伊藤肇 》

2024-09-27 | 03-自己・信念・努力
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命を投げ出す、といえば山岡鉄舟と大親分、清水次郎長とのやりとりが面白い。鉄舟が次郎長に「お前は随分と子分をもっているけれど、そのうち何人がお前のために体を張ってくれるかね」ときくと、「残念ながら一人もおりません」と答えた。鉄舟が怪訝な顔をすると、次郎長はいった。「しかし、わっちでしたら、子分どものために何時でも命を投げ出す覚悟ができておりやす」。剣禅一如の極意に到達していた鉄舟が「うーん」とうなったままだったという。


『人間学』
( 伊藤肇、PHP研究所 (1986/05)、p110 )
第4章 出処進退の人間学

◆己を無にする作業

「人を見る明」の第三のメルクマールは「出処進退」である。特に「退」を重視する。

何故、「退」が大事か、というと、「退」には、のっぴきならぬものが出るからだ。

まず退くに当って、二つの「人間くさい作業」をやらねばならない。

一つは「退いて後継者を選ぶ」という作業である。これはきわめて当り前のことである。だが、「退いて後継者を選ぶ」ということは、企業において、自分がいなくなっても仕事がまわっていくようにすることである。いわば、「己を無にする作業」をしなければならぬのだ。これがなかなかむつかしい。

「パーキンソンの法則」に皮肉なのがある。

「サラリーマンは自分の部下ができることは気にしないが、競争相手ができることは大きな脅威だ。だから、できるだけライバルがでてこないようにいろいろな手を打つ。たとえば、部下ができて、これまでの仕事の半分ずつ受けもつようになることは絶対に反対である。というのは、将来、その男が自分のライバルになる可能性があるからだ。そこで、こういう場合は部下を二人つけてもらって、その二人にそれぞれ半分ずつの仕事を与えて、自分だけがその仕事の全般をしる立場に立とうとする」

こんな環境に育ってきた経営者にとって、「己を無にする作業」がいかに至難の業か。

ある一流企業の常務がこぼしていた。

「社長が後継者を選ぶ第一の基準は、どうやって、自分の権力が温存できるか、ということだ。有能で実力があり、まごまごすると自分を棚上げしかねないような副社長を選ぶことは、まずない。必ず、自分が会長や相談役になっても、もと社長として精神的に物質的にも遇してくれる人物を選ぶ」

残念ながら、これが後継者選びの一面であることは否定できない。

あるトップなどは、「後継者? それは、このわしが死んでからも、ちゃんとお墓参りにきてくれる人物を選ぶよ」といってのけたが、常務の告白を説明したことになろう。

「無私」とは何か。

フランスの原子力潜水艦が地中海で故障したまま、再び浮上しなかったことがある。

乗務員の家族や関係者たちは続々ツーロン軍港に集まり、やがて「原潜乗り組み反対」のデモにふくれあがってフランス海軍が動揺しはじめた時、ドゴールは自ら、同型同種の原子力潜水艦に乗り込み、同じ場所で同じ深さまで潜って、「原潜は大丈夫だ」ということを身をもって証明した。

この自分の命を投げすててかかる「無私」の迫力で、デモはおさまってしまった。

命を投げ出す、といえば山岡鉄舟と大親分、清水次郎長とのやりとりが面白い。

鉄舟が次郎長に「お前は随分と子分をもっているけれど、そのうち何人がお前のために体を張ってくれるかね」ときくと、「残念ながら一人もおりません」と答えた。

鉄舟が怪訝な顔をすると、次郎長はいった。

「しかし、わっちでしたら、子分どものために何時でも命を投げ出す覚悟ができておりやす」

剣禅一如の極意に到達していた鉄舟が「うーん」とうなったままだったという。宗教的な「こころの詩」を得意とする坂村真民が、その辺の呼吸を一言にしていい現わしている。

「生かされて生きるということは、任せきって生きるということであり、任せきって生きるということは、自分を無にして生きるということであり、自分を無にして生きるということは、自分の志す一筋の道に命をかけ、さらには、他のために己の力を傾けつくすということである」

宗教家でもない生ぐさい仕事にとり組む経営者がそこまで徹するのは無理かもしれないが、せめて、出処進退にあたっては「無私六割、私四割」くらいのところがギリギリのバランスで、その線くらいは、どんなことがあっても保ってもらいたいものだ。

もう一つの「人間くさい作業」は「仕事に対する執着を断ちきる作業」である。

実際の話が、仕事をやっている時にはこの「執着」はわからない。仕事を離れてみて、はじめて、自分の生活に仕事がどんなウェイトを占めていたかがわかるのである。

仕事をひいた直後は、どんな人間でも、胸中を去来するのは仕事に関する思い出ばかりだ。

苦しかったこと。楽しかったこと。やりとげて生きがいを感じたこと。失敗して切なかったこと……さまざまな思い出が走馬燈のように次から次へとうかびあがってくる。

しかし、まだ、このうちはいい。だんだんそれが昂(こう)じてくると、何だか、自分だけがとり残されたような孤独感に陥り、下手にまごつけば、気の弱い人はノイローゼになる。

  夕暮は買物の母のあと ついていきたいという退職せし父

朝日歌壇にのっていた短歌だが、誰しも、多かれ少なかれ、こんな気持ちを痛切に味わう。

見事な出処進退でしられている阪本勝(故人)ほどの人物でも、兵庫県知事を去る時には、この「仕事に対する執着」を断ちきることの苦しさを散文詩に託している。

  すべての仕事というものは「始なく、終りなきもの」だ。
  種まくもの、咲き出る花を愛でるもの、結実を祝うもの、みな、そ
  れぞれのめぐりあわせというものだ。
  自分の播(ま)いた種が稔(みの)るをみたいのは人情だけれども、そ
  れはいわば小乗論(しょうじょうろん)だ。
  中国の詩人、謝朓(しゃちょう)のうたうらく
    大江日夜流レ 客心悲シミ未ダ盡キズ
  歴史の大江にかげろうの身をうかべる人の身の限界を粛(しゅく)と
  して知るべし。
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