電脳筆写『 心超臨界 』

人生は歎き悲しむよりも
笑いとばすほうが人には合っている
( セネカ )

出来損ない山頭火を拾った師――紀野一義

2024-07-06 | 03-自己・信念・努力
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


人生に絶望し、自分に愛想がつきていた山頭火は熊本市の公会堂の前で泥酔して電車の前に大手をひろげて飛び込んだ。自殺する気だったのかもしれぬ。急停車し、将棋倒しになった乗客たちに袋叩きにあおうとした山頭火を見つけた知人が、群集の中から引きずりだして、報恩寺へ連れていってくれたのである。望月師は、理由も問わず、名も問わず、咎(とが)めもせず、泊めてくれ、食を給してくれた。その絶対受動性そのもの、柔軟心そのものの温かさに出来損ない山頭火はうちのめされたのである。


◆出来損ない山頭火を拾った師

『生きるのが下手な人たちへ』
( 紀野一義、PHP研究所 (2003/4/1)、p16 )

山頭火が出家したのは大正14年3月、43歳の年であった。得度(とくど)の師は熊本報恩寺の望月義庵(もちづきぎあん)師である。そのころ熊本には一代の禅傑沢木興道(さわきこうどう)師がいて禅風を鼓吹(こすい)していた。山頭火はこの師のところへ行ったこともあるのに、この人を師とはしなかった。人間には相性というものがあり、また、出来損ないの人間向きの師がちゃんとあるのである。沢木師は自分自身どうしようもない性格や環境があっても、すさまじい意志の力でそれを超えていった人である。いわば楔(くさび)型、直進型の行動人である。この師に感化された人には、どういうわけか知識人やエリートが多い。出来損ないどもはついてゆけなかったのであろう。山頭火のような男がついてゆけるわけがない。

人生に絶望し、自分に愛想がつきていた山頭火は熊本市の公会堂の前で泥酔して電車の前に大手をひろげて飛び込んだ。自殺する気だったのかもしれぬ。急停車し、将棋倒しになった乗客たちに袋叩きにあおうとした山頭火を見つけた知人が、群集の中から引きずりだして、報恩寺へ連れていってくれたのである。望月師は、理由も問わず、名も問わず、咎(とが)めもせず、泊めてくれ、食を給してくれた。その絶対受動性そのもの、柔軟心そのものの温かさに出来損ない山頭火はうちのめされたのである。

まもなく山頭火は美しい妻を捨て、家を捨てて報恩寺に入り、掃除・坐禅・看経(かんきん)に明け暮れるようになった。やがて植木の町外れの味取(みとり)観音堂の堂守となり、大正15年4月、飄然(ひょうぜん)としてこの観音堂を去り、長い長い放浪の旅に出ていったのである。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 不都合な真実 《 「佐藤さん... | トップ | 農業が工業に変わる――丸元淑生 »
最新の画像もっと見る

03-自己・信念・努力」カテゴリの最新記事