電脳筆写『 心超臨界 』

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( ソルジェニツイン )

悪魔の思想 《 横田喜三郎――反日的日本人の戦後第1号/谷沢永一 》

2024-08-09 | 04-歴史・文化・社会
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日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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東京裁判が進行している真最中という時間帯を測って、横田喜三郎は口をきわめて皇室弾劾の論理を展開したのです。その本の刊行は昭和22年10月20日でした。東京裁判の開廷から18ヵ月目、結審の6ヵ月前、東京裁判がうなりをたてて進行しているその途上なのです。おそらく横田喜三郎には、さあ、皇室をどうか処分してくれ、と訴える気持ちがあったのでしょう。幸いにして、東京裁判は天皇陛下を審理の埒外(らちがい)において事なきをえましたが、横田喜三郎の思惑が少しでも効を奏していたらと想像するだけで鳥肌がたちます。まこと危うい局面でした。


『悪魔の思想』 「進歩的文化人」という名の国賊12人
( 谷沢永一、クレスト社 (1996/02)、p135 )
反日的日本人第1号・横田喜三郎(よこたきさぶろう)への告発状
第5章 栄達のため、法の精神を蹂躙(じゅうりん)した男

  横田喜三郎
  明治29年生まれ、東京帝大卒。東大教授、最高裁長官を歴任。昭
  和56年、文化勲章受賞。“東京裁判史観”の初代煽動者。平成5
  年没。

  東京裁判は無理矢理に行なわれた私刑(リンチ)でした。基準とすべ
  き拠(よ)るべき法律がなかったからです。開廷を命じたマッカーサ
  ーはのちに帰国したとき、東京裁判は間違いだったと証言しました。
  しかるに、その違法であり無法である東京裁判を、これこそ正当で
  あると全面的に支援し、そのためにあらゆる屁理屈(へりくつ)を総
  動員して、東京裁判を神聖化し合理化しようと努めたのが横田喜三
  郎です。進駐軍に身をすり寄せて阿(おもね)った第1号がこの東京
  帝国大学法学部教授でした。

5-10 反日的日本人の戦後第1号

思えば東京裁判という茶番の私刑(リンチ)が行なわれたとき、それを見ていた日本人にはほぼ三とおりの型があったと見ていいでしょう。

その第一は、戦勝国が寄ってたかって拠るべき法律もないのに敗戦国の人びとを裁く法的に違法な復讐の儀式を苦々しく眺め、憎んでいた人たちです。その第二は、勝った国が勢いに乗じて勝って気儘(きまま)にやる合法的殺人行為を押し留めるだけの力がこちら側にないゆえ仕方がないけれど、罠(わな)にはめられたわが国民の被告は、まことに気の毒だからその刑が少しでも軽くすみますようにと、こころひそかに願っていた人たちです。その第三は、東京裁判を大歓迎し、同期である被告がなるべく多く、できるだけ厳しく裁かれるようにと期待した人たちです。

横田喜三郎は、その第三種のとびぬけた代表であり、反日的日本人の戦後第一号でした。

年を経てのち、横田喜三郎は『私の人生』(昭和51年8月6日・東京新聞出版局)および『余生の余生』(昭和62年7月10日・有斐閣)と、2冊合計1000頁の厖大(ぼうだい)な自叙伝を書きましたが、そこには、自分が書いた著述のどこかに間違いがあったなどという類(たぐ)いの反省の言葉はついに一言半句も見当たりません。

さて、横田喜三郎は東京裁判が戦争犯罪人の中に天皇陛下を加えなかったことに対してひじょうに不満であったと思われます。この吸血鬼(ドラキュラ)は、次には皇室を血祭りにあげようと乗りだしました。なかなか忙しいことでしたねえ。

繰り返しますが、東京裁判の開廷は昭和21年5月3日、結審は翌々23年4月16日でした。この間は世をあげて緊張の連続であり、次に誰が被告として身柄を拘束されるやら、あらためて誰が重要証人として喚問(かんもん)されるやら、先の見通しが立たない時代だったのです。国民の誰もが戦々兢々(せんせんきょうきょう)としていました。

表向き口にだすのは憚(はば)かられたものの、陛下のお身の上が危ういのではないかと、国民の多くが内心でふかく案じていました。どんなことが起こるやらわからない非常時でした。皇室のご安泰は、まだ完璧に確実ではなかったのです。

東京裁判がどこまで極端に走るのか、誰にも見当がつきませんでした。そういう一触即発のなにが起こっても不思議でない時期をねらって、東京裁判が進行している真最中という時間帯を測って、横田喜三郎は口をきわめて皇室弾劾の論理を展開したのです。

その本の刊行は昭和22年10月20日でした。東京裁判の開廷から18ヵ月目、結審の6ヵ月前、東京裁判がうなりをたてて進行しているその途上なのです。おそらく横田喜三郎には、さあ、皇室をどうか処分してくれ、と訴える気持ちがあったのでしょう。幸いにして、東京裁判は天皇陛下を審理の埒外(らちがい)において事なきをえましたが、横田喜三郎の思惑が少しでも効を奏していたらと想像するだけで鳥肌がたちます。まこと危うい局面でした。

皇室弾劾の論拠――「てっていした民主主義」 へつづく
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