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( L・ヒューズ )

不都合な真実 《 国や体制によって異なる「命の価値」――渡邉哲也 》

2024-10-13 | 04-歴史・文化・社会
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実際、普通選挙が行われている国と普通選挙が行われていない国とでは、「命の価値」は大きく乖離している。普通選挙が行われていない独裁国家では「貧者の一票」が反映されることはなく、各民族が自らの意思に基づいてその帰属や政治組織を決定するという「民族自決の原則」も採用されない。逆にこうした横暴を許さなかったのが、日本が属する西側諸国であり、先にも述べた通り西側諸国は「自由・平等・人権」を世界共通の普遍的価値観とし、それを同一市場で戦ううえでのルールとした。


◆国や体制によって異なる「命の価値」

『貧者の一票』
( 渡邉哲也、扶桑社 (2016/12/24)、p150 )

今、世界では「貧者の一票」の重みが増している。このことは、グローバリズムとともに世界に蔓延した新自由主義や金融主導型経済の下で、個人の自由や平等、人権によって担保される「命の価値」が、いかに軽んじられてきたかを物語っているといえるだろう。

さらに言えば、これまで社会に蓄積されてきた歪みが選挙や国民投票といった場で反動を起こし始めている中で、今後の世界経済や国際社会を動かす1つの大きな力として、「命の価値」という概念がより重要になってくると思われる。

そして、世界には「命の価値」が高い国と低い国があり、一般に、人権が守られる先進国では「命の価値」が高く、独裁体制を取る国や新興国、途上国では低いという傾向がある。

それをよく表しているのが、航空機事故の賠償金で、たとえばマレーシアの大手LCC(格安航空会社)エアアジアの所有機が2014年末にインドネシア沖の海で墜落事故を起こした際、同社は遺族への賠償金として、1人当たり総額約12万5000ドル(1ドル=113.4円として1417万5000円)を支払うことを表明した。

一方、日本では、航空機事故で死亡した場合の賠償額は、現在では1億円は下らないといわれている。実際には、航空機事故における賠償額の上限撤廃を定めたモントリオール条約を、事故を起こした航空機の出発国と着陸国が批准しているかどうかという問題もあるが、日本や欧米諸国のように「命の価値」の高い国では、賠償金は高額になる傾向がある。

また後述するように、その是非は別として、フィリピンのドゥテルテ大統領が2016年6月の就任直後から麻薬密売犯の殺害を警察に命じ、一般市民に麻薬常習者の殺害を奨励したのも、「命の価値」が低いからこそ起こり得る話だともいえよう。

確かに、1977年に起きた「ダッカ日航機ハイジャック事件」の際、「人の命は地球よりも重い」と言い、日本赤軍のハイジャック犯に屈し、「超法規的措置」で身代金を支払い、世界各国から非難を浴びることとなった福田赳夫元首相の対応は、やり過ぎだった感はある。しかし、「自由・平等・人権」という言葉的価値観を世界共通のルールに掲げる西側先進諸国にとって、国民一人一人の「命の価値」は、あらゆる政策決定において無視できない重みを持っているのは間違いない。

そもそも、グローバル競争の下で生産拠点が人件費をはじめとする生産コストが高い先進国から新興国や途上国に移転したのも、先進国では「命の価値」が高いことに起因する。為替レートや物価水準などに差があることも大きいが、新興国や途上国の労働者の賃金が安いのは、「命の価値」が低いがゆえであることも否定できない事実なのだ。その意味で、日本を含む西側先進諸国のように「命の価値」が高い国と、「命の価値」の低い国が同じ土俵で経済競争をするのは、そもそも無理があるといえるだろう。

この「命の価値」を世界の枠組みから見てみると、冷戦以前、世界は東側(共産主義・社会主義体制)と西側(資本主義・自由主義体制)に分かれていたが、両体制はいわば水と油の関係にあり、本質的には相容れないものだった。

また、自由を制約する東側諸国は独裁体制を取る国が多く、普通選挙が行われている西側とは大きく価値観が異なっていた。しかし「ベルリンの壁」崩壊にともなう東側体制の崩壊で自由に対する規制は緩やかに緩和され、西側諸国との価値観の差が少なくなってきたのである。

ところが、西側体制の国の多くでは人命が最も大きな政治判断の基準になる一方、東側ではこれが軽んじられるという傾向に大きな変化は見られなかった。つまり、西側諸国と東側諸国との間で「命の価値」に対する認識は、依然として大きな隔たりがあるわけだ。

実際、普通選挙が行われている国と普通選挙が行われていない国とでは、「命の価値」は大きく乖離している。普通選挙が行われていない独裁国家では「貧者の一票」が反映されることはなく、各民族が自らの意思に基づいてその帰属や政治組織を決定するという「民族自決の原則」も採用されない。逆にこうした横暴を許さなかったのが、日本が属する西側諸国であり、先にも述べた通り西側諸国は「自由・平等・人権」を世界共通の普遍的価値観とし、それを同一市場で戦ううえでのルールとした。

だが我々は、世界にはそのルールを守れる国と守れない国があり、「命の価値」という概念そのものが、各国によってまったく異なるということを理解しなければならない。

( 中略 → p158 )

「命の価値」も同様に、本質的にはそれぞれの国の土壌、文化、風土、政治体制によって、まったく異なるものだ。

中国政府がその存在をひた隠しにしている1984年6月4日の「天安門事件」の犠牲者数は、公式発表では319人だったが、実際には数千人から数万人が殺されたともいわれている。極めて残酷な話だが、彼らの中には戦車にひき殺されてミンチにされた人も少なからずいた。なぜ学生たちがミンチにされたかというと、誰が生き残ったかがわからないようにするためだ。

天安門事件に参加したのは基本的に大学生で、その当時の中国では一般市民が大学に行くことはまずできなかったため、大学生の多くが共産党幹部の子弟だった。つまり天安門事件で殺された大学生のほとんどが、共産党幹部の子弟だったということになる。

日本人には想像もつかないと思うが、こういった政治的弾圧の現場で誰が殺されたかがわかると、生き残った誰かが判明し、当局から追われることになる。そのため生き残った人たちを逃がす目的で、わざわざ学生たちを戦車でひき殺してミンチにし、誰が殺されたのかをわからなくしたのだ。

実際、天安門事件後、アメリカや日本をはじめ、海外に数多くの学生が逃亡した。学生たちを救うためにはそれしか方法がなかったということになる。アメリカをはじめとする西側諸国の価値観でいえば、国家による残忍な虐殺以外の何ものでもないが、彼らもまた中国特有の土壌や文化、風土から生まれた価値観に従って行動したということになるのだろう。

これは国によって「命の価値」に対する認識が、私たち日本人と大きく食い違っているということを示す典型的な例である。そしてこのエピソードは、基本的人権の尊重をはじめとする民主主義の基本ルールに従うつもりがない国には、何を言っても無駄だということを意味しているのだ。
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