電脳筆写『 心超臨界 』

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( ウジェーヌ・イヨネスコ )

「第二の軸の時代」以後の歴史見取図(1/2)――西尾幹二教授

2024-05-28 | 04-歴史・文化・社会
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ユーラシア大陸の東端の海上にある日本は、西端の西ヨーロッパと奇妙に符合する共通点を持っている。そしてそれが、紀元前5世紀を中心に起こった「軸の時代」の文明的な共時体験者、「第二の軸の時代」の形成者であるということと重なるという論点を、以下箇条書きにしてみたい。


『国民の歴史 上』
( 西尾幹二、文藝春秋 (2009/10/9)、p48 )

1 一文明圏としての日本列島

1-4-(1/2) 「第二の軸の時代」以後の歴史見取図

ここで本項目の最重要テーマ、「第二の軸の時代」に戻る。

ユーラシア大陸の東端の海上にある日本は、西端の西ヨーロッパと奇妙に符合する共通点を持っている。そしてそれが、紀元前5世紀を中心に起こった「軸の時代」の文明的な共時体験者、「第二の軸の時代」の形成者であるということと重なるという論点を、以下箇条書きにしてみたい。

東西文明の並行という観点に関する限りは、新説では必ずしもない。西洋に詳しい文明論者にはむしろ一般的な見方ですらある(マルク・ブロック『封建社会』、梅棹忠夫『文明の生態史観』、村上泰亮『文明の多系史観』ほか参照)。ただ私は、社会科学者とは多少違った予感をもっている。

いかに日本と西ヨーロッパが、「軸の時代」の理念と思想を継承しつつも、さまざまな姿で遺伝子の組み換えに成功しているかを見とどけていきたいと思う。

1、両社会とも古代中国、古代ローマという普遍的巨大文明から影響を受け、自己のそれまでの氏姓的(西洋でいえば部族的)集団構造をいったんは破壊し、清算しようとした。つまり、律令によって(ローマ法によって)文民官僚的統一国家を一度はめざした。神話的ものの考え方を棄て、抽象的法の意義で身を装うとした。普遍的原理を備えた統合制度――日本史でいえば出身や民族を差別しないで土地を国有化し、平等に分配する班田制や編戸制の採用――などには専制に基づくとはいえ、とまれ理想主義があった。

2、にもかかわらず、両文明は二つの古代文明からの統合のための諸制度の継承、軍事と文化の両面における統合力の摂取が不十分であった。中国では、礼と法、儒家(じゅか)と法家(ほうか)のふた筋の意識の流れが社会制度化し、バランスをとって体制を秩序づけていた。しかるに日本では、表向き儒教を迎え入れたかに見えるが、中国の礼法の導入は不十分で、かつ不適合であり、一方、法家の思想はまったく輸入されることはなかった。唐の均田制をモデルにした班田制は、土地の国有制という目標とは逆に、むしろ土地の私的所有への道を開いたにとどまる。地図や地籍(ちせき)によって、また文字によって初めて区分がなされたために、私的所有権がかえって保証されるという逆の事態をすら生んだからだ。

カロリング王朝は、ローマ帝国と同じように官僚統治国家をめざしたけれども、やはりゲルマン豪族によって反逆され、やがて豪族が在地領主となり、土着化した。リベリ(自由党)という名の班田農民と似た公民化を図ったが、うまくいかなかった。モデルと現実との差は大きい。律令国家もまったく同じで、周知のとおり中央集権化は成功しなかった。摂関政治と荘園制度、権門(けんもん)による土地の領有。

こうして両文明には封建社会が出現した。

3、加えて規範となった古代普遍文明から、さらに統合のための文明の方式をどんどん学習したいし、またはできればそうすればよかったはずだが、幸か不幸か両古代文明は消滅してしまった。古代ローマはとうに終末を迎えていたが、地中海域に文明の影響はまだ色濃く残っていたし、ビザンチン帝国は存続していた。しかるに6世紀、イスラムの占領によって地中海を塞がれ、ゲルマン国家は北方へ移動せざるをえなかった。800年、カロリング朝フランク王国による西ローマ帝国再建。他方、律令国家日本は、体制を整えだした頃には唐王朝の衰亡を目前にし、タイミングよく遣唐使を廃止した(894年)。907年の唐帝国の崩壊より以降、日本はもはや中国大陸文明から新たな決定的影響は受けていないし、侵略もされていない。いったんは師と仰いだが、その師が消えてしまったという点で、日本と西ヨーロッパは似ているのである。大陸では五代十国時代をへて、960年宋が建国されたが、秦漢から隋唐に至る文明の原理そのものを刻印されるほどの決定的な精神的支配を、宋から受けることはもうまったくなかった。宋とは経済的な関係が強く、それはさながらゲルマン国家が地中海貿易に精を出す様にあい似ている。

4、にもかかわらず、二大古代文明は、なんらかの文化的統合の象徴的残像をおいていった。ヨーロッパにも日本にも、先行する大文明に起源を持つゆるやかな統一性が残った。たとえば、ヨーロッパではゲルマン民族のキリスト教化と公用語としてのラテン語の普及。日本では仏教や儒教の伝播と国際公用語としての漢字漢文の普及が挙げられる。大文明への忘れがたい魅力、抽象的思考の意欲、いつでもそこへ戻っていけるという文化的安心感、学問・芸術の基礎。文化意識の最小限の統合は受け継がれ、そのおかげでヨーロッパという観念、日本という観念が誕生した。前者はローマ教会に、あるいは十字軍に、後者は国風文化に、あるいは元寇への対応にそれぞれ結実した。

日本が律令国家としての内実を形づくったのは、狭義の律令制が解体し始めてからであるという逆説がある。中国に触れる以前の日本文明の基底部が、普遍文明としての古代中国との交流のなかで、ひとつの安定した、成熟した新しい文化を形成した。それが平成前半の10世紀である。いわゆる国風文化と呼ばれるものがそれである。「古代都市」が形成され、都市としての独自の自立性が見られたのは平安中期以降と想定されている。古代中国からの文明の刻印がさらに社会の深い層にまで浸透し、列島内の広域にまで及ぶのには、鎌倉室町時代を経過する長い時間を必要とした。

5、ヨーロッパと日本で、ともあれ弱いかたちの統合が古代帝国から継承された。しかも、その統合がヨーロッパと日本でのみ分解もせずに、ほとんど千年という異例の長さで持続したのだ。ユーラシア大陸の両端に位置し、封鎖されていたという共通の地勢的要因と、モンゴルの大侵略が及ばなかった幸運においても共通するのである。ヨーロッパのすぐ横にあったロシアやトルコ、日本のすぐ横にあった朝鮮を考えてみよう。ロシアは、ロシア人の顔の下にはタタール人の顔があるといわれたほど、屈辱的なモンゴルの支配下に喘ぎ、トルコはそれ自体がイスラム教国であった。朝鮮では儒教がたんなる思想の次元で受け入れられた日本とは違って、儀礼をも含めてしっかり受け継がれ社会に浸透していった。族外婚制度(同姓同士の間で結婚は許されない制度)は朝鮮の社会には浸透していったが、日本はこれをついに受け入れなかった。日本人は中国文化を2千年にわたって漂泊してきたという面白い言い方をしていた人がいるが、朝鮮にはそれは許されなかった。

== (2/2)につづく ==
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