電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
《自民党議員/党員必見!》『自民党総裁選候補者の人物評を西川京子前九州国際大学学長・元文科副大臣に訊く;水間政憲』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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政治の命令が天皇の名でなく、頼朝の責任においてなされる意味において、源氏の政府は平家と異なるので、国体の実質上の変化である。外国人から見れば、どう見ても不要になって機能していない天皇や律令を、形の上で取っておく心理がわからない。実際、これをなくする力はあったのである。ところが頼朝が、この朝廷を敬して遠ざけるかのような態度をとったため、その後、数百年間、戦国時代のような乱れに乱れた時代でも、朝廷を廃止しようと考えるような武家の有力者は出てこなかった。
『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p292 )
4章 鎌倉期――男性原理の成立
――この時代、日本社会は「柔から剛」へと激変した
(2) 主権在民を確立した北条泰時
◆世界に類なき頼朝の「革命政府」
藤原氏の政権にとって替わった武士は平家であった。しかし完全に武力を以て天下を支配し、経済的にも全国の荘園の大部分を押さえた平家の理念が、藤原氏のごとくになることであったのは、まことに興味深い。
平安文化はそれほど高いものとして、武士の間にも憧憬されていたのである。
藤原氏を理想とした清盛は、自ら太政大臣となり、娘を皇后にして、その子、つまり自分の孫を天皇にした。この点でも藤原不比等のやり方そのままである。そして一族の者が公家と結婚し、平家は完全に平安貴族化した。
しかし平家が貴族化することは、男性原理に立つ武家が、自分の原理を放棄することを意味していた。それで男性原理を失わないでいた源氏が、頼朝という天才を中心として兵を起こすと、平家は、ほとんど一気につぶされてしまうのである。
頼朝は幼少のころより、将器(しょうき)としてみんなに一目置かれていた人である。
そして自分はあまり動かずに平氏を亡ぼし、南は西南群島から、北は奥羽の端に至るまで、完全に掌握した最初の日本人であるし、政治の実権を宮廷から取り上げ、幕府を作った(1192年)意味で革命者である。
しかし、この革命政府ほど妙なものは世界に類がない。
完全に新政府を作っているのに、古い律令を変える気はない。征夷大将軍というのは偉そうな名前ではあるが、文字どおりには東方地方派遣軍司令官ということにすぎず、宮廷の重要な会議に出ることもできない低い官職である。のちに右大臣になったのは、公文(くもん)(律令に定められた公文書)式に公文書を出すことは大臣大将以上でないとできないから、便宜上にすぎないので、彼自身が宮廷に出かけるわけではない。
ところが、実際に功績のあった家来に公文を与えようとしたところ、千葉常胤(ちばつねたね)のような重立(おもだ)った家来が、朝廷式の書付けなどありがたがらない。それで、今までどおり頼朝自身の花押(かおう)のついたものをもらうことになって、武家の公文は朝廷のものと形式が違うことになってしまった。結局は頼朝にとって、どうでもよかったことなのである。
それなのに朝廷に取って替わることをしないで、建前として立てておく。都も建前は京都なのであるが、もちろん政治の中心は鎌倉である。
政治の命令が天皇の名でなく、頼朝の責任においてなされる意味において、源氏の政府は平家と異なるので、国体の実質上の変化である。
外国人から見れば、どう見ても不要になって機能していない天皇や律令を、形の上で取っておく心理がわからない。
実際、これをなくする力はあったのである。ところが頼朝が、この朝廷を敬して遠ざけるかのような態度をとったため、その後、数百年間、戦国時代のような乱れに乱れた時代でも、朝廷を廃止しようと考えるような武家の有力者は出てこなかった。それどころか、有力な武士の野心は、朝廷のように右大臣になることだったり(信長)、征夷大将軍になることだったりした(家康)。秀吉だけは平家のパタンを採り太政大臣になった。
では、なぜ頼朝が本当に名実ともに日本の頭(かしら)にならなかったかといえば、やはり祖先崇拝のためである。
頼朝が天下を平定したとき、その実権を朝廷に返さなかったことについて、名分(めいぶん)中心の水戸の『大日本史』などは不満のようであるが、南朝の忠臣であった北畠親房(きたばたけちかふさ)は、
「頼朝や泰時のような人がなかったならば日本国の人民はどうなったであろう」
と、頼朝をひじょうに高く評価しているのは面白い。少なくとも頼朝のように、武力で天下を取った者も、皇位には手を出さないというパタンを作り上げたのである。この意味では日本の皇室の永続性に一つの寄与をしたことになる。
これに相当する例を外国に見つけることはむずかしい。しいて言えばローマ法王やカトリックの司教が、法王領や司教領を失うことによって、かえって永続性が保証されたのと似ている。皇室が普通の意味の政権でないことは、このことからも知られよう。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
《自民党議員/党員必見!》『自民党総裁選候補者の人物評を西川京子前九州国際大学学長・元文科副大臣に訊く;水間政憲』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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政治の命令が天皇の名でなく、頼朝の責任においてなされる意味において、源氏の政府は平家と異なるので、国体の実質上の変化である。外国人から見れば、どう見ても不要になって機能していない天皇や律令を、形の上で取っておく心理がわからない。実際、これをなくする力はあったのである。ところが頼朝が、この朝廷を敬して遠ざけるかのような態度をとったため、その後、数百年間、戦国時代のような乱れに乱れた時代でも、朝廷を廃止しようと考えるような武家の有力者は出てこなかった。
『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p292 )
4章 鎌倉期――男性原理の成立
――この時代、日本社会は「柔から剛」へと激変した
(2) 主権在民を確立した北条泰時
◆世界に類なき頼朝の「革命政府」
藤原氏の政権にとって替わった武士は平家であった。しかし完全に武力を以て天下を支配し、経済的にも全国の荘園の大部分を押さえた平家の理念が、藤原氏のごとくになることであったのは、まことに興味深い。
平安文化はそれほど高いものとして、武士の間にも憧憬されていたのである。
藤原氏を理想とした清盛は、自ら太政大臣となり、娘を皇后にして、その子、つまり自分の孫を天皇にした。この点でも藤原不比等のやり方そのままである。そして一族の者が公家と結婚し、平家は完全に平安貴族化した。
しかし平家が貴族化することは、男性原理に立つ武家が、自分の原理を放棄することを意味していた。それで男性原理を失わないでいた源氏が、頼朝という天才を中心として兵を起こすと、平家は、ほとんど一気につぶされてしまうのである。
頼朝は幼少のころより、将器(しょうき)としてみんなに一目置かれていた人である。
そして自分はあまり動かずに平氏を亡ぼし、南は西南群島から、北は奥羽の端に至るまで、完全に掌握した最初の日本人であるし、政治の実権を宮廷から取り上げ、幕府を作った(1192年)意味で革命者である。
しかし、この革命政府ほど妙なものは世界に類がない。
完全に新政府を作っているのに、古い律令を変える気はない。征夷大将軍というのは偉そうな名前ではあるが、文字どおりには東方地方派遣軍司令官ということにすぎず、宮廷の重要な会議に出ることもできない低い官職である。のちに右大臣になったのは、公文(くもん)(律令に定められた公文書)式に公文書を出すことは大臣大将以上でないとできないから、便宜上にすぎないので、彼自身が宮廷に出かけるわけではない。
ところが、実際に功績のあった家来に公文を与えようとしたところ、千葉常胤(ちばつねたね)のような重立(おもだ)った家来が、朝廷式の書付けなどありがたがらない。それで、今までどおり頼朝自身の花押(かおう)のついたものをもらうことになって、武家の公文は朝廷のものと形式が違うことになってしまった。結局は頼朝にとって、どうでもよかったことなのである。
それなのに朝廷に取って替わることをしないで、建前として立てておく。都も建前は京都なのであるが、もちろん政治の中心は鎌倉である。
政治の命令が天皇の名でなく、頼朝の責任においてなされる意味において、源氏の政府は平家と異なるので、国体の実質上の変化である。
外国人から見れば、どう見ても不要になって機能していない天皇や律令を、形の上で取っておく心理がわからない。
実際、これをなくする力はあったのである。ところが頼朝が、この朝廷を敬して遠ざけるかのような態度をとったため、その後、数百年間、戦国時代のような乱れに乱れた時代でも、朝廷を廃止しようと考えるような武家の有力者は出てこなかった。それどころか、有力な武士の野心は、朝廷のように右大臣になることだったり(信長)、征夷大将軍になることだったりした(家康)。秀吉だけは平家のパタンを採り太政大臣になった。
では、なぜ頼朝が本当に名実ともに日本の頭(かしら)にならなかったかといえば、やはり祖先崇拝のためである。
頼朝が天下を平定したとき、その実権を朝廷に返さなかったことについて、名分(めいぶん)中心の水戸の『大日本史』などは不満のようであるが、南朝の忠臣であった北畠親房(きたばたけちかふさ)は、
「頼朝や泰時のような人がなかったならば日本国の人民はどうなったであろう」
と、頼朝をひじょうに高く評価しているのは面白い。少なくとも頼朝のように、武力で天下を取った者も、皇位には手を出さないというパタンを作り上げたのである。この意味では日本の皇室の永続性に一つの寄与をしたことになる。
これに相当する例を外国に見つけることはむずかしい。しいて言えばローマ法王やカトリックの司教が、法王領や司教領を失うことによって、かえって永続性が保証されたのと似ている。皇室が普通の意味の政権でないことは、このことからも知られよう。