電脳筆写『 心超臨界 』

想像することがすべてであり
知ることは何の価値もない
( アナトール・フランセ )

西洋科学と東洋思想を統合する――南方熊楠

2024-06-30 | 04-歴史・文化・社会
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日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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南方熊楠は、アメリカ・ロンドンにおける民俗学などの学問的研鑽の後、帰国し、紀伊半島全域での生態系調査に基づいて森林伐採に対する反対運動に立ち上がります。エコロジー(生態学)という言葉は、この時に熊楠が日本に初めて持ち込んだ概念でした。

熊楠は仏教が西洋近代科学の考え方を先取りし、それを乗り越える方法すら内包していることに気づきます。真言僧の土宜法龍との交流から得た密教の抽象的な概念と、熊野の山を歩き回って得た具体的な自然の観察結果を理解するモデルを作ろうとする試みから、因果関係のモデルである「南方マンダラ」は形成されました。熊楠が那智山中から法龍に送った長文の書簡には、仏教の考え方を用いて科学的思考の枠組みを広げようとした、壮大な実験の跡を見ることができます。

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南方熊楠(みなかた・くまぐす)
和歌山県生まれ。大学予備門を中退後、米英に遊学。帰国後、紀州・
田辺で在野の学者として生物、民族など幅広い分野で業績を残した。
孫文、柳田国男との交流も深い。日常生活での型破りな振る舞いが
多く、「奇人」としてのイメージも併せ持つ。
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◆西洋科学と東洋思想を統合する――南方熊楠

「東洋思想で西洋科学に挑む――南方熊楠の世界観に光」
2006.02.11 日経新聞(朝刊)「文化」

《前半生の業績 新資料で解明》

異能の博物学者、南方熊楠に再び光が当たり始めた。新資料の発見
や整理が進み、広くは知られなかった前半生の業績が明らかになって
きた。そこからは西洋の科学と東洋の思想を統合しようとした彼の
世界観が浮かびあがっている。

《書簡38通発見》

京都・栂尾(とがのお)の高山寺で1年あまり前に見つかった熊楠の書簡が今、研究者の注目を集めている。英国遊学時代の友人で後に高野山の管長になった僧侶、土宜(どぎ)法龍にあてた書簡計38通。その中に、熊楠独自の世界観である「南方マンダラ」図の形成過程を示す叙述が含まれていたのだ。

「南方マンダラ」は、1903年7月の書簡に熊楠が描いた図で、物事の因果関係を説明するモデルといわれる。原因と結果が一直線でつながる近代西洋科学とは異なって、複数の曲線と直線が絡み合う。様々な因果関係が相互に影響する様を描き、科学の方法論に、偶然や確率の要素を導入したとされる。鶴見和子・上智大名誉教授が著書『南方熊楠』(1978年)で指摘した。

今回見つかった書簡には、「南方マンダラ」を描く1年ほど前に書かれた手紙がまとまって入っていた。例えば1902年3月25日付けの手紙。霊魂の不死について法龍と議論していた熊楠は、滞在中の紀州・熊野で研究していた粘菌(変形菌)のライフサイクル図を描いた。そしてこれは「心の変化転生の一種の絵曼荼羅(記号・シンボル)と見て可なり」と述べている。

熊楠は因果関係のモデルである「南方マンダラ」に到達する前に、既に別の議論で曼荼羅の概念を利用していたことがわかる。「南方マンダラ」は決してとっぴな発想ではなく、法龍との交流から得た密教の抽象的な概念と、熊野の山を歩き回って得た具体的な自然の観察結果を理解するモデルを作ろうとする試みから形成されてきた」。新発見書簡の一部を掲載した『南方熊楠の森』(方丈堂出版)の編者、松居竜五・龍谷大学助教授は、そう分析する。

《英語論文を邦訳》

このように東洋の思想や学問を使って西洋を起源とする科学の限界を突き破ろうと試みる若き熊楠の姿は、昨年12月に刊行されたばかりの『南方熊楠英文論考[ネイチャー]誌篇』(集英社)からも生き生きと伝わってくる。同書は主に彼が英国滞在中の20代から30代にかけ、科学雑誌「ネイチャー」へ投稿した論文を収録。全63編のうち59編が初めて日本語に訳された。

特に、当時の西洋の学問世界で常識とされた考え方に、和漢の知識を駆使して異議を唱える文章には目を見張る。中国、インド、日本などでの星座の成り立ちを解説した論文「東洋の星座」、指紋を使った個人識別起源を中国に求める「拇印(ぼいん)考」。熊楠は「江戸期の本草学、中国や日本の説話などの知識を西洋科学にぶつけ、新たな知のあり方を作り出そうとした」。監修者の飯倉照平・東京都立大名誉教授は強調する。

《思想形成探る》

熊楠の旧居がある和歌山県田辺市では、熊楠の思想形成を探る手がかりとなる資料の整理が進む。例えば1892年から8年間の英国滞在中に大英博物館で人類学、旅行記など約5百冊の書籍を写したノートの数々もある。同市が5月に開く「南方熊楠顕彰館」は、旧居書庫にあった2万点を超える資料を分類・保管し、一部は閲覧できる態勢を整える。「これまで手の付けられていなかった資料から、従来の熊楠像を覆すような研究が生まれるかもしれない」(田辺市文化振興課の前川光弘氏)

熊楠は、明治末から大正期にかけて官主導で進められた神社合祀(ごうし)への反対運動を通じ、自然と文化をひっくるめた広義の生態系保護を先駆的に唱えた。従来知られるこうした業績は、「青年時、既存の西洋科学に挑戦した経験によるところが大きい」と松居助教授は指摘する。その上で「極度に細分化された現代科学への批判ともなる熊楠の知の全体像を理解するにも、彼の前半生の思想解明は欠かせない」と語る。南方熊楠という深い森の探検は、まだ終わりそうにない。
(文化部 郷原信之)
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「社会学者・鶴見和子氏の話――マンダラ図、実世界の説明に道」

熊楠の業績はあまりにも広い。だから、様々な関心を持つ人がそれ
ぞれに、熊楠から答えを引き出せる。没後65年たてなお熊楠が光
を放っているのは、そのせいだ。

私自身が熊楠から得たもののうちで最も大きいのは、やはり「南方
マンダラ」だ。熊楠はもともと聖の世界の論理である曼荼羅を使い、
俗界を説明する道を開いた。彼のおかげで実世界の様々な関係性を
曼荼羅で読み解くことが可能になった。

例えば、曼荼羅は国際関係などにも応用できる。南方マンダラでは
様々に因果系列が集まる場を「萃(すい)点」と呼ぶ。これを国際
関係に置き換えれば、萃点は激しい利害対立を調整し、一致点を
見いだす場だ。異質を排除する「文明の衝突」ではなく、「文明間
の対話」の苗床となる可能性を曼荼羅の論理は秘めている。

ただ、熊楠はこの萃点で具体的には何がおこるのか、何をなすべき
なのかは解き明かさなかった。それは我々が考えること。私として
は、異なるものが異なるままに補い助け合う道を示唆する「南方マン
ダラ」を使い、「共生」の道を探るのが現代の課題だと思う。
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