電脳筆写『 心超臨界 』

人は歳をとったからといって遊ぶことを止めない
人は遊ぶことを止めるから齢をとるのだ
( バーナード・ショー )

◆「日米開戦」のための「スチムソン・ドクトリン」

2024-09-07 | 05-真相・背景・経緯
§2-2 戦争を仕掛けるのはいつもアメリカ
◆「日米開戦」のための「スチムソン・ドクトリン」


支那大陸東北部(満洲)における日本の特殊権益を認めることは、20世紀初頭の米国外交の基本だった。(中略)しかし、スチムソンは日米外交の「了解の歴史」に一切の配慮を見せなかった。ひたすら中国の主張に耳を傾け、日本の満洲政策を非難した。そこには彼自身の脳裏に、「中国は民主化の道を歩みつつある」という幻想があった。その結果、フーバー政権は満州国を承認しないと決めた。スチムソンには満州国は、「中国の民主化を妨げるファクター」に思えたのである。彼の外交(非承認政策)は「スチムソン・ドクトリン」と呼ばれた。


◇「日米開戦」のための「スチムソン・ドクトリン」

『真珠湾と原爆 日米戦争を望んだのは誰か』
( 渡辺惣樹、ワック (2020/8/4)、p105 )

ヘンリー・スチムソンは、米国の対日外交を歪(ゆが)めた政治家の筆頭である。彼は冒頭に書いたようにFDR政権で陸軍長官に任用されたが、ハーバート・フーバー前政権では政権ナンバーツーである国務長官を(1929年3月~1933年3月)を務めていた。満洲事変勃発(1931年9月)から満洲国成立(1932年3月)の時期に当たる。

支那大陸東北部(満洲)における日本の特殊権益を認めることは、20世紀初頭の米国外交の基本だった。日本の安全保障上、朝鮮あるいは満洲が日本の喉元に突き付けられた匕首(ひしゅ)のような存在であることを理解したセオドア・ルーズベルト大統領が進めた政策は、桂・タフト秘密協定(1905年)によって結実した。その後に続いた同協定を追認する高平・ルート協定(1908年)も石井・ランシング協定(1917年)も、日本の安全保障上における満洲の重要性をアメリカが理解し、実質的に日本の満洲進出を了解(容認)したものだった。従って、満州事変から満洲国建国までの日本外交は、この3つの日米合意の存在を前提に解釈されなくてはならない。

しかし、スチムソンは日米外交の「了解の歴史」に一切の配慮を見せなかった。ひたすら中国の主張に耳を傾け、日本の満洲政策を非難した。そこには彼自身の脳裏に、「中国は民主化の道を歩みつつある」という幻想があった。その結果、フーバー政権は満州国を承認しないと決めた。スチムソンには満州国は、「中国の民主化を妨げるファクター」に思えたのである。

彼の外交(非承認政策)は「スチムソン・ドクトリン」と呼ばれた。退任直前の1933年初めには、次期大統領に決定していたFDRの私邸を訪れスチムソン・ドクトリンの継続を訴え、それに成功した。

日米間には、「日本の対満洲(および朝鮮)政策」について「阿吽(あうん)の呼吸」による共通理解があった。その呼吸を乱し、日米戦争への道筋を立てた人物がスチムソンだったのである。
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