たとえば、昔から大勢の人が、水面から10メートル以上の高さにポンプで水を汲み上げようと試みて失敗した。だが、その失敗がきっかけとなって気圧の法則は発見され、ガリレオやトリチェリやボイルのような科学者の研究にも新たな面が開かれた。 . . . 本文を読む
どんなによいことでも、一挙に事が成るということはまずあり得ない。また一挙に事を決するということを行なえば、必ずどこかにムリを生じてくる。すべて事は、一歩一歩成就するということが望ましいのである。 . . . 本文を読む
本当に考えきれないほどの喜びと楽しみに満ち満ちている光明世界である人生を、やれ気が重いの、つまらないの、面白くないの、晴れ晴れしないの、自分で自分の心のなかに風呂敷をかぶせて、そして自由にならないって、もがいていることぐらい滑稽(こっけい)なことがありますか。 . . . 本文を読む
そもそも積極性精神態度が、人生の自律基盤として絶対的であるという理論は、天風自信が身をもって、あるいは病難に、あるいは運命難に、思い見るだに、われながら万丈の波乱などという形容の言葉ではとうていその十分の一をも納得できないといってよいほどの、危険以上の危険をあえて冒して体験した現実から直感したものである。 . . . 本文を読む
子供たちは、くんちゃんが失敗するところではおかしそうにしていますが、くんちゃんが道を間違えないで進むところがお気に入りのようです。訳者はあとがきで、コマドリたちと出会って心をかよわせたからこそ、くんちゃんは自分の通ってきた道を心に刻むことができたのだろうと述べています。 . . . 本文を読む
「シャントゥーズ・トキコ」。88年のニューヨーク公演で、新聞にこんな評が出た。このときもシャンソンは歌っていない。なのに、人生を語り歌うシャンソン歌手と評された。涙が出るほどうれしかったのと同時に、「そうだったのか」と肩の力が抜けた。封印が解けたように、翌年はパリに足しげく通い、ピアフのお墓や、生誕地を何度も訪ねた。その経験から二歳の子を失ったピアフの心情を描いた「名前も知らないあの人へ」という彼女に捧(ささ)げる歌を書いた。 . . . 本文を読む
ユングは、早くから“人間の魂は皆つながっているのではないか”とう仮説を抱いていました。最初にそれを表明したのは、1916年にパリで行なった講演で、彼はこれを「集合的魂」と呼びました。この「集合的魂」の仮説は、40年の歳月にわたって「無意識」に関する研究を進めるにつれて熟成され、やがて「集合的無意識」というかたちで集大成されました。 . . . 本文を読む
ペニシリンは偶然のきっかけから生まれたものだった。フレミングはずぼらなところがある人で、実験に使った細菌培養皿をちゃんと処分せず、そのへんに放り出しておくことがよくあった。あるとき彼は例によって、一枚のブドウ球菌培養皿を捨て忘れた。後になって皿に気付き、のぞき込んでみると、ブドウ球菌が死んでいるではないか。
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鈴木孝夫氏は、日本語の持つ「タタミゼ効果」いついて最近、よく書いている。「タタミゼ(tatamiser)」とは、もともとは、フランス語で使われはじめた比較的新しい言葉で(フランス人)が「日本かぶれする、日本びいきになる」「日本人っぽくなる」といった意味である。フランスでは柔道がさかんなこともあり、「畳」が日本のシンボルになっているのであろう。鈴木氏は、この言葉の意味を少し変えて、日本語が、日本語使用者に与える影響について語っている。 . . . 本文を読む
“人間は考える葦(あし)である”というフランスの哲学者パスカル(1662年没)の名言は有名です。今日の高度の文明はみな人間の考える力によるものです。現代の人間は、とても風にそよぐ葦のような、ひ弱な生物ではありません。それどころか、人間の考える知恵と知識とが進みすぎて、逆に人間が苦しめられているのが実情です。 . . . 本文を読む
川には水があってこそ川の機用(はたらき)を果せるはずなのに、「禅河一滴無し」といい、この語はさらに「是為禅河深(是(これ)を禅河(ぜんが)の深さと為(な)す)」とつづく。禅という名の川には一滴の水もない。水のないのを禅の川の深さとする――という。 . . . 本文を読む
既に亡いが、野村証券前会長の奥村綱雄は、「ワハハのオジさん」とよばれていた。小さな体を豪快にゆさぶり、喉ちんこまでみせて呵々大笑するくせがあったからだ。事実、この笑いは、少々憂鬱なことがあっても吹きとばしてしまう。「百万弗の哄笑」だった。しかし、ある時、天邪鬼(あまのじゃく)ぶりを発揮して、からかった。「顔や体は陽気で笑いまくっているけど、眼がいっこうに笑っていないのは、どうしたわけですか」 . . . 本文を読む
敵を軽蔑するのと、忘れるのとでは非常に違う。人間、その精神、心の価値が非常に違う。軽蔑というものはやっぱり一つの不徳である。忘れるということの方が遥かに広大無私である。敵を軽蔑するのでなく、忘れるということのできるのは、それこそ本当に偉大な魂の持ち主である。 . . . 本文を読む