電脳筆写『 心超臨界 』

悲観論か楽観論かの問いにはこう答える
私の知識は悲観的なものだが私のやる気と希望は楽観的だ
( シュヴァイツァー )

人間学 《 浪人と投獄と闘病と――伊藤肇 》

2024-10-11 | 03-自己・信念・努力
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「折角の滔々懸河(とうとうけんが)の弁だけど、とても歯がういてしまって、聞いちゃおれない。いいか、後学のためにいってきかせるが、実業人が実業人として完成するためには、三つを体験しないとダメだ。その一つは長い浪人生活だ。その二つは長い投獄生活だ。その三つは長い闘病生活だ。奥村クン、君はまだ、このうちの一つもやっていないだろう」( 松永安左ヱ門 )


『人間学』
( 伊藤肇、PHP研究所 (1986/05)、p152 )
第5章 修己治人の人間学

◆浪人と投獄と闘病と

既に亡いが、野村証券前会長の奥村綱雄は、「ワハハのオジさん」とよばれていた。

小さな体を豪快にゆさぶり、喉ちんこまでみせて呵々大笑するくせがあったからだ。事実、この笑いは、少々憂鬱なことがあっても吹きとばしてしまう。「百万弗の哄笑」だった。

しかし、ある時、天邪鬼(あまのじゃく)ぶりを発揮して、からかった。

「顔や体は陽気で笑いまくっているけど、眼がいっこうに笑っていないのは、どうしたわけですか」

多少はあわてるかと思ったら、「気いつけんとあかんなあ」といって、また呵々大笑した。そして、「君、こんな詩をしっているか」と便箋にさらさらっと書きなぐった。

  蝸牛角上(かぎゅうかくじょう) 何事ヲカ争ウ
  石火光中 此ノ身ヲ寄ス
  富ニ随イ貧ニ随イ且(しばら)ク歓楽セン
  口ヲ開イテ笑ワザルハコレ痴人(ちじん)

「どうでもいい、ちっぽけなことをゴシャゴシャ争うのを蝸牛角上の争いというが、現実の人間世界はそれが実相だ。しかし、人生は石と石とがぶつかり合って火花を発する、その瞬間のように儚(はかな)いものなのだから、あまりこせつかないで、貧富の分に応じて歓び楽しんだほうがよい、大口をあけて、腹の底から笑えないような奴は、かわいそうな馬鹿者さ。白楽天の『対酒』という詩だよ。特に『結』がいいだろう」とやられてギャフンと参った。

ところが上には上がいる。この奥村を手もなくひねってしまった男がいる。それは「電力の鬼」といわれた松永安左ヱ門である。

奥村が45歳で社長になり、まだ海のものとも山のものともわからぬ野村証券のイメージ・アップのために精いっぱいの爪先立ちをして歩いていたある日、松永安左ヱ門を相手に「天下国家」をぶちまくった。

「法螺(ほら)と喇叭(らっぱ)は大きくふけ」というのが奥村の信条だったから、とてつもない大風呂敷をひろげたにちがいない。

松永は鼻毛をぬきながら、フンフンときいていたが、一しきりふかせておいて、こういった。

「折角の滔々懸河(とうとうけんが)の弁だけど、とても歯がういてしまって、聞いちゃおれない。いいか、後学のためにいってきかせるが、実業人が実業人として完成するためには、三つを体験しないとダメだ。その一つは長い浪人生活だ。その二つは長い投獄生活だ。その三つは長い闘病生活だ。奥村クン、君はまだ、このうちの一つもやっていないだろう」

野太刀を大上段にふりかぶったとたんに褌(ふんどし)がはずれたようなもので、この一件以来、奥村はすっかり松永に傾倒した。

因みに松永語録を解説しておこう。

● 長い浪人生活
浪人になると、自分の非力を否応なしに自覚させられるから、自然と人間も謙虚になり、かつて、肩をいからせて都大路をのし歩いたことが何となくうらはずかしくなる。そして、それが昂じてくると、酒ののみ方までしょぼくれるが、その中にあって、やせ我慢でもいいからプライドを維持できるようだったら、浪人としてもかなりのものである。

心構えとしては、勝海舟とM・フォン・クリンゲル〈ゲーテの畏友〉の言葉が参考になる。

「俺など、本来、人が悪いから、ちゃんと世間の相場を踏んでいるよ。あがった相場もいつかは下がる時があるし、さがった相場も、いつかはあがる時があるものさ、そのあがりさがりの時間も、長くて十年とはかからないよ。だから、自分の相場が下落したとみたら、じっとかがんでおれば、また、あがってくるものだ。大奸物、大逆人の勝麟太郎も今では伯爵、勝安房様だからのう。しかし、今はこの通りいばっていても、また、しばらくすると、老いぼれてしまって、唾のひとつも吐きかけてくれる人もいなくなるだろう。世間の相場は、ま、こんなものさ。そのあがりさがりの辛抱のできる人が、すなわち、大豪傑だ」〈勝海舟〉

「まことの人は、彼の義務が要請する時と場合においてのみ、世間の舞台に現われねばならぬが、その他では、一個の隠者として、彼の家族の中に、僅かな友人とともに、また彼の書斎の間に、精神の風土に生活しなければならない」(M・フォン・クリンゲル)

● 長い投獄生活
銭湯に入ると、人は他人の前に裸をさらさねばならない。同様に監獄へ入ると、人は遅かれ、早かれ、心の衣装を脱がされる。だから、監獄へ入った時こそ人間の真実の心を知るための最上の機会でもある。

A級戦犯で刑死した土肥原機関の土肥原賢二が同じ戦犯の後輩にしみじみといい遺したことがある。

「君は若いから、も一度、娑婆(しゃば)へ出られるだろうが、俺はダメだ。巣鴨プリズンへ入れられてから、よくよく考えてみると、おれは陸軍幼年学校から士官学校、陸大と出世街道をひたむきにつっ走ってきた。そして、気がついた時は巣鴨だった。この獄庭には木も草もない。ところがたった一本、隅っこから生えてきたあの水仙の何と美しいことか。自然は美しいなあ。君がここを出たら、田舎で静かに自然の美しい姿を心の眼でみろよ。俺も長く支那大陸にいたが、心の眼で支那をみたことはなかったなあ。君、この言葉が俺の遺言だよ」

その後輩は、これをきいて、人生観が一変した。以来「心の眼で美しい日本の姿をみて、何時、死んでもいいという覚悟で毎日を送ろうと考えるようになった」と告白している。

● 長い闘病生活
十年ほど前、肺癌の疑いで2年間の闘病生活を余儀なくされた壱岐晃才〈国民経済研究協会理事長、東京経済大学教授〉が述懐したことがある。

「現実に長い病気をやった者でないと、病人の気持は絶対にわからぬだろう。だから、私にいわせれば、病気など一度もやったことのない人を健康な人とは決して思わない。本当の健康な人というのは、病気にかかってそれを克服した人じゃないですか。『病める貝にのみ真珠は宿る』というアンドレーフの箴言は、一度、病んでみないとわかりませんネ」

たしかにその通りで、吉田兼好などは『徒然草』の中で、友人に不適当な人間を七種類あげ、その中に「身強き人」を入れている。あまりにも丈夫な人は友人として不適格だ、という意味である。理由は簡単、思いやりがないからだ。

「完全な健康体だ」という自惚れはしらずしらずのうちに人間を傲慢にする。だから、文芸評論家の亀井勝一郎などは「あまりにも丈夫な人間は真昼だけあって、夕暮れも夜もないようなものだ。彼と話をしていて疲れるのはそのためである。陰翳(いんえい)の不在は一種の暴力である」とまでいっている。

また、壱岐晃才は入院と同時に「これまで、一度も考えたことのなかった『死』をいきなり鼻さきへつきつけられてとまどった」という。

たしかに肺癌の疑いで病床に呻吟する身は毎日が死との対決である。その日、その日を命のぎりぎりのところで抱きしめて生きているのだ。いかなる見舞を受けても、いかなる人に慰められても、どうにもなるものではない。死との闘いは所詮、自分ひとりでやるしかないのだ。

人は、そこに気づいた時、〈自分というものは、要するに自分だけなんだ〉という厳しい孤独感に襲われる。そして、今まで、自分でもよく口にし、人から聞かされもした「俺は孤独だ」という台詞が何とも薄っぺらで鼻もちならなくなる。「孤独、孤独と安っぽくいうな」と開き直りたいような衝動にかられる。そして、この境地をトコトンまでつきつめていくと、「人間は本来孤独であり、死ぬべき運命にある」という自覚に到達する。

しかし、その自覚は、そのことで悲観的になったり、厭世的になるためではない。逆に「死」は「生」を確認させる。つまり、死を念頭に置くことによって、自分の「生」が本当の「生」の名に値するか、どうかを問うのである。そこに人間の陰翳と、えもいわれぬ魅力がでてくるのだ。
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