電脳筆写『 心超臨界 』

歴史を綴るインクの正体は
単に変わりやすい先入観にすぎない
( マーク・トウェイン )

般若心経 《「実体」など、あるわけがない――松原泰道 》

2024-07-08 | 03-自己・信念・努力
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私たちが、実際に「ある」と思っている実体は、実は無常と無我の法による現象に外ならないから、一切の事象を、仏教思想では“物質的現象”と名づけています。仮に無常でない永遠に不変なものや、他と無関係で単独に存在できるものがあるとするならば、それを“実体”と呼びますが、こうした実体はあるわけがない、とするのが仏教思想であることは、これまでの説明で明らかになったと思います。


『わたしの般若心経』
( 松原泰道、祥伝社 (1991/07)、p195 )
6章 不生不滅の教え――刻一刻、死に向かいつつある生(せい)を生き抜くために
(1) 来るべき「死」を見つめて
舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
しゃりし ぜしょほうくうそう ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん

◆「実体」など、あるわけがない

「舎利子(しゃりし)よ、この諸法(しょほう)は空相(くうそう)にして不生不滅(ふしょうふめつ)……」と、観自在菩薩は舎利子に呼びかけます。舎利子は、前に記したように、私たちの代名詞ですから、私たちが観自在菩薩から呼びかけられているのです。

「諸法」については、少し学ぶ必要があります。法は、原語のダルマの漢訳ですが、〈真理・教え・きまり〉などの外(ほか)に〈現象・物ごと〉の意味も持つ仏教語です。一切の現象や物ごと、つまり事象は、すべて移り変わる「無常」の真理(法)の相だからです。

たとえば、「花」は、咲いたら必ず散る無常の真理(法)を、私たちに示してくれています。そこで、花や花の咲く現象を「法」といいます。

また、いま私が用いている「万年筆」は、ペン先とペン軸と、それを組み合わせる人の手や、機械の操作などのかかわり合いによる無我(縁起)の真理(法)によって存在するのですから、万年筆を「法」というのです。このペン先もやがては摩滅し、ペン軸の中のインクを吸いあげるスポイトも、しだいに機能が衰えてきますから、一本の万年筆に、無我の相と無常の相とが同時に現われているのです。

花もまた、さまざまな縁によって咲くのですから、そこにもまた、無常と無我の相を見ることができます。

花や万年筆に限りません。事象のすべてが、無常と無我の相を具(そな)えて、私たちに、目に見えない無常と無我の法を説いてくれるのです。

私たちが、実際に「ある」と思っている実体は、実は無常と無我の法による現象に外ならないから、一切の事象を、仏教思想では“物質的現象”と名づけています。

仮に無常でない永遠に不変なものや、他と無関係で単独に存在できるものがあるとするならば、それを“実体”と呼びますが、こうした実体はあるわけがない、とするのが仏教思想であることは、これまでの説明で明らかになったと思います。

そして「相」とは“物質的現象”のことであると理解できるでありましょう。

さらに突き進めていくと、物が落ちる現象は“引力の相”であり、水が熱せられて湯沸かしの蓋を持ちあげる現象は“蒸気力のエネルギーの相”です。いずれも物質的現象で、そこには、先に述べた意味での実体はありません。

もしも高い所にあるものが永遠に高所にあり、水がいつも冷たくて熱にあう縁がなかったら、引力や蒸気力の物質的現象が生じるわけがありません。すなわち「実体という状態がないからこそ、物質的現象がありうる」という深い観察の実践が、心経の「観自在菩薩」の名に象徴されていることも、ここでわかります。

「是の諸法は空相にして」という漢訳文に少し言葉を添えて、「是の諸法は空(くう)を相とし」と読み換えると、意味が取りやすくなります。つまり、一切の事象(物ごとや現象)は「空を相とする」というのです。空は見えませんが、相は目に写ります。

また「諸法は空相」を逆にすると「空相は諸法」となって、先の空即是色の展開でもあります。そして諸法(万法)は、すべての物ごとや現象ですから、いま私がすわっている椅子や前のテーブル、部屋のドアや床の間の生花から、原稿を書いている私を含めて、一切合切が諸法です。この一切合切の諸法は、みな無常で無我であるから空であるとは、すでに学んだところです。
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