私は大学時代、体育会排球部でした。
私が最高学年の時は、北信越ブロックでは負け知らずでした。
そうは言っても、高校で全国大会に出場した勝負勘や素質のある高校生が短大や大学に進学して、
大なり小なり真面目にバレーを続けているという中で、戦い勝つのは、地方の国立大生としては案外大変なものなのですよ。
当時の私どもの練習は、教育学部の体育科の学生が牽引し、シーズンは週6日練習とトレーニングです。
今でも忘れがたい思い出があります。少し長くなります。
私は、小柄でレシーバーとして、控えの選手で、ゲーム分析を担当し、常に監督に情報を提供するアナライザー的な役目をしていました。
監督曰く、「ガラスのような分析」として、案外役に立っていたっぽいです。
先輩からは「レシーバーは練習で華になれ」と言われて、練習ではスタメンよりもレシーブの練習量は多くこなさなければと思っていましたが、
運動量的には絶対的にスタメン選手の方が多くなります。
中でも、エースの「ユキ」の運動量は相当な量で、最後の合宿でも彼女は疲れのピークに何度も達しながらも、自分の力に妥協することなく練習を続けました。
練習の時には、ミスに応じてペナルティが課されることもあり、その日の練習もサーブをミスすればコートを走ったり、目標を達成するまでエンドレスでサーブを打ち続けなければなりませんでした。
入れるだけなら簡単、コースを狙って、乱すサーブを打つ訳ですから、疲労とともに集中力だって途切れます。
私が自分の課題をクリアした後も、ユキは体力が限界に達した中で、集中力と戦っていました。
私は、彼女と一緒に黙ってコートを走りました。
言葉もなく、ただ一緒に走らなければならないと思い、斜め後ろを走りました。
私たちの最後の大会は、不運にも宿泊先の食事にあたって、体調不良者が続出しました。
主力メンバーは、脱水症状に陥りながらも決死の戦いでした。
ですから、そんなこんなで手にした優勝の瞬間の喜びは今も鮮烈です。
そこからは皆、就職活動・教員採用試験、卒論などそれぞれの放課後となりました。
ユキはどうしても教員になりたいので、その後、わざと留年をして女性なのに、当時県内では比較的採用されやすい「技術科教員」の免許を取り、翌年、中学の教員になりました。
卒業式前に、学校に残るユキが私にお礼だと言って差し出したものがあります。
「はる、最後の合宿の時、限界の私と黙って一緒に走ってくれてありがとう」
と言って差し出されたのは、
最後の北信越大会で彼女が手にした「ベスト6」の盾でした。彼女は「MVP」も受賞していたので、盾が2つあったんです。
その1つを私にくれたのでした。
彼女は、中学校での教員生活の後、臨床心理士になり、スクールカウンセラーとなり、その後バレーボールも国体の選手として選ばれています。
長く会えていないけど、友情の意味を教えてくれた友人の1人です。
人生にとって支えあう大切さは、実は今よりはるか昔に知っています。
しかし、社会の利害関係の中で、忘れてしまったり、知らないかのように個人主義的に時間を過ごしがちです。
今の私にも、そんな時があります。
そこにないのは、「思い」や「ビジョン」「目標」の分かち合いです。
厳密に言うと、私の場合、分かち合おうという意欲が萎えていることが多い。
適当にわかったふりできないから、案外その場にいるのがつらくなることもあり。
でも、あの頃の若さや蒼さが、その大切さを思い出させてくれ、今の自分のコミュニケーションに足りないものを教えてくれます。
あの時は、今でも、自分にとってかけがえのない、いい時代だったなぁと思えます。
17年も前のことを思い出せるなんて・・・微妙。
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