ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

必ず越せる心の峠道

2019年11月09日 | 随筆
 この度の豪雨の災害で、身内に亡くなられた人がおいでの方も居られることでしょう。心からお悔やみ申し上げます。かけがえの無い家族を失うことは、とても辛いものです。
 じっと耐えて居られる方達のご健康をお祈り申し上げて、出来るだけ早く、元の生活を取り戻されることをお祈りしています。
 
 私が娘を失った時に、以前上司だった人が、次のような言葉を掛けて下さいました。
 『私は妻を亡くした時に「三年辛抱すれば良い。そうすれば乗り越えられる。」と知人にそう言われたのです。私は「そういうものか」と思って3年間ひたすら努力しました。悲しみは次第に薄まって、矢張り3年経った頃には次第にやわらぎました。乗り越えられない悲しみはありません。きっと立ち直れる日が来ますよ。』
 私も「そういうものか」と思いましたが、とにかく娘を失った後は、悲しくて悲しくて、毎日気持ちの整理をするために、家を出て遠回りしてぐるりと一回り歩いて家に帰るのですが、道々涙が零れるのを止める事が出来ませんでした。夫も勤めていて、多くの時間は一人で耐えなければなりませんでした。
 病室でただ手を握って傍に居ることだけしか出来なかった頃を思うと、娘が亡くなってから今日までの20年ほどの年月は、夢のようです。当時は「こんなじゃいけない」と思うのですが、涙が零れるのをどうすることも出来なかったのです。
 今になって振り返ると、乗り越える迄には私には七年という歳月が必要だったと思えます。でも言われたように乗り越えられない悲しみはありません。「日にち薬」で、やがて穏やかに思い起こす事が出来るようになりました。今のように笑顔で振り返る日が来ようとは、そして反って「守ってくれて有り難う」と娘に感謝しているなんて、当時は想像もできなかったのでした。
 「苦しい思いをすればするほど人間は優しくなれる」と言われますが、本当にそう思えるこの頃です。
 「高倉健のひと言」として、澤地久枝が「昭和とわたし」(文春文庫)の中で、
 『「志村喬さんが亡くなってしばらくたった日、高倉健が弔問に訪れた。その帰りぎわ、夫人は「健さん私死にたい」と心の底にある思いを口にした。高倉健は言葉もなく立っていた。予期はしていても、現実に死と向き合ったとき、悲しみは生き残った者を狂わせる程はげしく襲って来る。志村夫人の涙を黙って受け止めていた高倉健は、「自分は明日、ロケで南極へ行きます。帰って来るまで死なないで下さい。」と言って去った。』とありました。
 日頃から寡黙で温かい、高倉健らしい言葉と思いやりです。死を思う人も、日が経つに連れてその悲しみが薄れていき、死なないで越せることを知っていたからでしょうか。心憎いほどの温かい言葉です。

 『人生の苦しみは、その当座はいつまで続くかと思うが、一年経ち、二年経つと、記憶の中から遠ざかってゆく、だから私は何か苦しい時は「いつかは消える、いつかは消える」と心の中でつぶやくことにしている。 遠藤周作「変わるものと変わらぬもの」 』
 
 みなこうして辛い日々を乗り越えてきています。私にも出来ない事では無い、と思えるのでした。しかし、「言うは易く行うは難し」で、これはなかなかの難行苦行ではありました。
 平穏な暮らしの中で過せる日々の有り難さを思うと、今日のような穏やかな晩秋の一日は、かけがえの無い大切な一日だと思えます。日々短歌を詠んだりブログを書いたりして忙しい思いで一日が暮れてしまうのも、多分実りある人生の一時なのだと思って、感謝しなくてはと考えています。
 愛する人を失って、悲しみのどん底に突き落とされても、必ず立ち直って生きて行けるように、神さまは守って下さっていると、私は信じています。


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