前日に引き続いて、「皇室の御物」展の第2期で興味を惹かれた展示物を紹介いたしましょう。今回は、第一会場を入ってスグに展示されている「三角縁四神四獣鏡」です。
イ)この鏡は、奈良県の新山古墳から出土したものとのこと。
(上図の鏡は、椿井大塚山古墳出土の三角縁四神四獣鏡)
「古墳」ときたらマズ目を通すことにしているのが、8月25日の記事で紹介しました宝賀寿男氏の『巨大古墳と古代王統譜』(著)。早速調べてみますと、この古墳につき概略次のように述べられています(P.206~P.207)。
・北葛城郡広陵町にある前方後円墳。
・三角縁神獣鏡を中心に合計34枚の銅鏡や、勾玉、刀剣、Ⅱ期の埴輪などが出土。他にも、鍬形石・石釧・車輪石という古墳時代前期の貴重な碧玉製装飾品も出土。
・さらに、東晋代の金銅製帯金具が出土したことなどから、その築造は4世紀中葉に遡るとみられる。
・被葬者は、地域的にみて葛城国造の族長であり、『日本書紀』の景行紀に見える「葛城の人、宮戸彦」か、そうでない場合はその子・荒田彦ではないかと推される。
ロ)ところで、今回の展覧会で展示されている「三角縁四神四獣鏡」を含む三角縁神獣鏡は、邪馬台国を巡る論争において大層注目されてきました。というのも、邪馬台国の記載がある『魏志倭人伝』に、あらまし次のような記述がみられるからです。
西暦239年に、倭の女王「卑弥呼」が、「難升米」等を魏国に送ったところ、魏国の明帝は卑弥呼に、「親魏倭王」の称号と「金印紫綬」を与え、さらに「銅鏡百枚」を含む多くの贈り物を与えた。
そこで、畿内地方に分布の中心をおいて出土する三角縁神獣鏡は、魏で生産されたものであり、卑弥呼が受け取った「銅鏡百枚」に該当するから、邪馬台国は大和にあった、などと主張されてきました(注1)。
ハ)しかしながら、『巨大古墳と古代王統譜』の著者は次のように反論します。
「三角縁神獣鏡については、中国産説がわが国ではいまだ根強く主張されているが、中国や朝鮮半島では1枚も出土しないのに対し、わが国では約500枚も出土しており、その殆どが4世紀代に日本列島内で作られた大和朝廷の鏡だとみる説のほうが説得力が強」いのであって、「鈕孔が鋳放しで実際の使用を念頭に置いたものでなく、鏡の銘文には省略形であるなど、公的な鏡として大きな疑問があり、棺外に数多く置かれる例が多いことも国産説を裏付ける」(P.220)。
したがって、三角縁神獣鏡は卑弥呼の受け取った魏の鏡ではないことになり、むろん邪馬台国畿内説を裏付ける証拠品でもないことになります(注2)。
三角縁神獣鏡魏鏡説は、多分に思込み(それに、倭国用に特別鋳造したのではないかという想像論)に基づくものといえますが、あくまでも現実の出土状況から考えていく必要があるわけです。
ニ)こうした見解については、強力な援軍も現れています。すなわち、『理系の視点からみた「考古学」の論争点』(新井宏著、大和書房、2007)では概略次のように述べられています(注3)。
三角縁神獣鏡の鉛同位対比(4種類の鉛同位体の比率)は、真の中国鏡とは全く異なっていて、仿製鏡(中国から輸入した鏡に模して国内で生産された鏡)や銅鏃などとよく一致している。
この場合、漢代の鉛と後漢や魏晋の鏡の鉛を混合して作成した可能性も考えられるが、三角縁神獣鏡の鉛組成を詳細に検討すると、韓国産か日本産の鉛の添加を想定しないわけにはいかないことがわかる。
こうしたことから、「三角縁神獣鏡は中国で製作されたものではない」ことが判明する(P.72~P.74)。
ホ)こうした地道な研究がいくつもなされてきているにもかかわらず、11月3日の記事に対する「ディケンズの都」氏のコメントにあるように、「最近、桜井市の纏向遺跡から大規模な建物跡が見つかって、関西系考古学者は、これこそ卑弥呼の宮殿だと吹聴し、マスコミがこれを持ち上げて大騒ぎしている」状況下にあります。
同氏が言うように、「考古学も科学の一分野であるのなら、合理的総合的な論理思考をしないで、判断してよいはずがない」のであって、冷静な対応が望まれるところです(注4)。
(注1)たとえば、『三角縁神獣鏡の時代』(岡村秀典著、吉川弘文館、1999)では、銘文に中国人の作者名があること、「景初」「正始」という魏の年号をもつ鏡が発見されていること、中国で1枚も出土しないのは倭に贈るために特鋳されたものと考えられること、等の理由から、「倭王卑弥呼に下賜された「銅鏡百枚」は三角縁神獣鏡である」と述べられています(P.147)。
(注2)同様の見解は、安本美典著『三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡か』(廣済堂出版、1998.11)やHP「三角縁神獣鏡の謎」などでも見られます。
さらに、下記のコメント欄に投稿していただいた「羽黒熊鷲」氏による詳細な論考がHP「古樹紀之房間」に掲載されていますので、是非それもご覧下さい(「三角縁神獣鏡魏鏡説の否定と古墳編年大系の見直し」)。
(注3)この著書については、当ブログ8月23日の記事の③の注でも触れています。
なお、雑誌『古代史の海』の本年9月号に掲載された論考「「三角縁神獣鏡魏鏡説」は危機に瀕しているか」において、下司和男氏は新井氏の見解に対し、やや周辺的と思われる問題点をいろいろ挙げて批判しています。とはいえ、どんな科学的な見解であっても、それはあくまでも仮説なのであって、それだけで完全に問題にケリが付いてしまうわけでないことは言うまでもありません。結局は、どの仮説が最も合理的であるかの問題なのですから、こうした論評の仕方にどれだけの意味があるのか疑問です。
(注4)11月3日の当ブログ記事のコメント欄に記載された「ディケンズの都」氏のコメント(12月11日)により判明しましたが、上記の注2で触れた「羽黒熊鷲」氏が、調査報告「纏向遺跡から出土した外来系土器についての報告」をHP「古樹紀之房間」に掲載されていますので、どうかご覧下さい。
イ)この鏡は、奈良県の新山古墳から出土したものとのこと。
(上図の鏡は、椿井大塚山古墳出土の三角縁四神四獣鏡)
「古墳」ときたらマズ目を通すことにしているのが、8月25日の記事で紹介しました宝賀寿男氏の『巨大古墳と古代王統譜』(著)。早速調べてみますと、この古墳につき概略次のように述べられています(P.206~P.207)。
・北葛城郡広陵町にある前方後円墳。
・三角縁神獣鏡を中心に合計34枚の銅鏡や、勾玉、刀剣、Ⅱ期の埴輪などが出土。他にも、鍬形石・石釧・車輪石という古墳時代前期の貴重な碧玉製装飾品も出土。
・さらに、東晋代の金銅製帯金具が出土したことなどから、その築造は4世紀中葉に遡るとみられる。
・被葬者は、地域的にみて葛城国造の族長であり、『日本書紀』の景行紀に見える「葛城の人、宮戸彦」か、そうでない場合はその子・荒田彦ではないかと推される。
ロ)ところで、今回の展覧会で展示されている「三角縁四神四獣鏡」を含む三角縁神獣鏡は、邪馬台国を巡る論争において大層注目されてきました。というのも、邪馬台国の記載がある『魏志倭人伝』に、あらまし次のような記述がみられるからです。
西暦239年に、倭の女王「卑弥呼」が、「難升米」等を魏国に送ったところ、魏国の明帝は卑弥呼に、「親魏倭王」の称号と「金印紫綬」を与え、さらに「銅鏡百枚」を含む多くの贈り物を与えた。
そこで、畿内地方に分布の中心をおいて出土する三角縁神獣鏡は、魏で生産されたものであり、卑弥呼が受け取った「銅鏡百枚」に該当するから、邪馬台国は大和にあった、などと主張されてきました(注1)。
ハ)しかしながら、『巨大古墳と古代王統譜』の著者は次のように反論します。
「三角縁神獣鏡については、中国産説がわが国ではいまだ根強く主張されているが、中国や朝鮮半島では1枚も出土しないのに対し、わが国では約500枚も出土しており、その殆どが4世紀代に日本列島内で作られた大和朝廷の鏡だとみる説のほうが説得力が強」いのであって、「鈕孔が鋳放しで実際の使用を念頭に置いたものでなく、鏡の銘文には省略形であるなど、公的な鏡として大きな疑問があり、棺外に数多く置かれる例が多いことも国産説を裏付ける」(P.220)。
したがって、三角縁神獣鏡は卑弥呼の受け取った魏の鏡ではないことになり、むろん邪馬台国畿内説を裏付ける証拠品でもないことになります(注2)。
三角縁神獣鏡魏鏡説は、多分に思込み(それに、倭国用に特別鋳造したのではないかという想像論)に基づくものといえますが、あくまでも現実の出土状況から考えていく必要があるわけです。
ニ)こうした見解については、強力な援軍も現れています。すなわち、『理系の視点からみた「考古学」の論争点』(新井宏著、大和書房、2007)では概略次のように述べられています(注3)。
三角縁神獣鏡の鉛同位対比(4種類の鉛同位体の比率)は、真の中国鏡とは全く異なっていて、仿製鏡(中国から輸入した鏡に模して国内で生産された鏡)や銅鏃などとよく一致している。
この場合、漢代の鉛と後漢や魏晋の鏡の鉛を混合して作成した可能性も考えられるが、三角縁神獣鏡の鉛組成を詳細に検討すると、韓国産か日本産の鉛の添加を想定しないわけにはいかないことがわかる。
こうしたことから、「三角縁神獣鏡は中国で製作されたものではない」ことが判明する(P.72~P.74)。
ホ)こうした地道な研究がいくつもなされてきているにもかかわらず、11月3日の記事に対する「ディケンズの都」氏のコメントにあるように、「最近、桜井市の纏向遺跡から大規模な建物跡が見つかって、関西系考古学者は、これこそ卑弥呼の宮殿だと吹聴し、マスコミがこれを持ち上げて大騒ぎしている」状況下にあります。
同氏が言うように、「考古学も科学の一分野であるのなら、合理的総合的な論理思考をしないで、判断してよいはずがない」のであって、冷静な対応が望まれるところです(注4)。
(注1)たとえば、『三角縁神獣鏡の時代』(岡村秀典著、吉川弘文館、1999)では、銘文に中国人の作者名があること、「景初」「正始」という魏の年号をもつ鏡が発見されていること、中国で1枚も出土しないのは倭に贈るために特鋳されたものと考えられること、等の理由から、「倭王卑弥呼に下賜された「銅鏡百枚」は三角縁神獣鏡である」と述べられています(P.147)。
(注2)同様の見解は、安本美典著『三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡か』(廣済堂出版、1998.11)やHP「三角縁神獣鏡の謎」などでも見られます。
さらに、下記のコメント欄に投稿していただいた「羽黒熊鷲」氏による詳細な論考がHP「古樹紀之房間」に掲載されていますので、是非それもご覧下さい(「三角縁神獣鏡魏鏡説の否定と古墳編年大系の見直し」)。
(注3)この著書については、当ブログ8月23日の記事の③の注でも触れています。
なお、雑誌『古代史の海』の本年9月号に掲載された論考「「三角縁神獣鏡魏鏡説」は危機に瀕しているか」において、下司和男氏は新井氏の見解に対し、やや周辺的と思われる問題点をいろいろ挙げて批判しています。とはいえ、どんな科学的な見解であっても、それはあくまでも仮説なのであって、それだけで完全に問題にケリが付いてしまうわけでないことは言うまでもありません。結局は、どの仮説が最も合理的であるかの問題なのですから、こうした論評の仕方にどれだけの意味があるのか疑問です。
(注4)11月3日の当ブログ記事のコメント欄に記載された「ディケンズの都」氏のコメント(12月11日)により判明しましたが、上記の注2で触れた「羽黒熊鷲」氏が、調査報告「纏向遺跡から出土した外来系土器についての報告」をHP「古樹紀之房間」に掲載されていますので、どうかご覧下さい。