「わたし出すわ」を恵比寿ガーデンシネマで見ました。
予告編を見て大変面白い着眼点だなと思い、また「カムイ外伝」で好演した小雪の主演作でもあるというので、映画館に出かけてきました。
劇場に入るまでは、森田芳光監督の作品であり、かつ小雪が主演なのですから大勢観客が集まって見やすい座席が確保できるだろうかと心配したのですが、あにはからんや入りは全然よくありません。事前の映画評論家の評価が芳しくないことも影響しているのでしょうか?
「映画ジャッジ」の評論家諸氏は、それほど酷い評価をしていませんが、それでも、福本次郎氏は、「物語自体があまりにも茫洋としていて、教訓めいたことも説教臭さもない代わりに、何が言いたいのかもよくわからなかった」との相変わらずの論評で50点、前田有一氏は、「通常の「常識」では到底理解できぬ人々が出てくる」などとして55点、小梶勝男氏は、派手な喜劇にはせず、淡々とドラマを描きたいという監督の狙いは分かるが、ただ主人公と友人たちが函館の町をうろうろとして、延々と話をしているだけのような印象で、どうも乗れなかった」としながら68点、そして、渡まち子氏は「地味な服装で、ちっとも幸福そうに見えない摩耶が一人でしりとりをする場面が印象的。そんな寂しげな彼女に、最後に訪れる奇跡には、人生に必要な信念や希望が感じられ、幸せの意味が少し分かった気がしてくる」として70点、といったところです。
さて、この作品は、予告編からすると、大儲けした女性が「お金を配る」という非常に面白いアイデアに基づいた映画と思わせ、実際に見たらそれがどんなに大きく膨らんでスリリングな展開をするのだろう、単に「お金を配る」行為を描いたに過ぎない映画ではないのではないか、別途のテーマが現れてくるのではないか、と随分期待を持たせます。
ですが、見終わってみると、ヒロインの摩耶が「お金を配る」様子を描いただけの映画で、全般的に常識的なことしか提示されてはいないのではないか、と思えてきます。
級友の女性が一人殺されるという事件は起きますが、その犯人もすぐに捕まってしまいますし、また市電の運転手の一家も崩壊しますが、運転手自身は、市電を研究するために摩耶のお金を使って外国に出かけてしまいます。
他の級友も、受け取ったお金をそれぞれのやり方で使い、全体として、至極淡々と何事もなかったように映画は進行し続けます。最後は、小雪の母親が、小雪の「しりとり」遊びの甲斐もあって劇的な回復を見せるというハッピーエンドとなっているのですからなおさらです。
ただ、実のところ私の方は、別の観点からこの映画を見てみようとも考えていました。
ほかでもありません、「わたし出すわ」というタイトルがとても奇妙なのです。いまどき「わ」という終助詞(文末詞)を使う女性など、ごく限られるのではないでしょうか(通勤電車の中で聞こえてくる女子高生同士の会話では、なんと「俺」などが使われています!)?
いったいなぜこんな古めかしい「女ことば」を麗々しく映画タイトルに使ったのかという疑問を、映画を見ながら解こうとしてみました。
実際に映画を見ますと、こうした「女ことば」が使われるのは、やはり1、2回ほどで、主演の小雪は、お金を渡すときに「これ上げるよ」などと言いますし、級友の小池栄子などは、むしろ「お主……だな」などと男同様の口のきき方をしています。
とはいえ、残念ながら最後までこの謎を解くことは出来ず、未解決のまま残ってしまいました(注)。
ですが、そのままにしておくのも癪ですから、この際開き直って考えようとしたら、あるいはこの映画は、全体で“はぐらかし”を狙っているのでは、とも思えてきました。
映画のタイトルからは優しい日本的な女性が出てくるのではと思わせながら、実際は投機で大儲けしたとみられる女性が主役ですし、にもかかわらず、その女性・摩耶の住まいは実に質素で服装もこの上ないほど地味です。また、その摩耶に小雪が扮するのですからさぞや美しく撮るのだろうと思いきや、なんとも抑制気味に映し出されます。さらに、お金にそんなに困っていない級友に大金を投げ与えるとどうなるか、という抜群のアイデアを出発点としながらも、風船が萎んだような面白みのないラストにわざわざ持っていくとか(級友の研究者は破天荒な研究を放棄してしまいます)、あるいは同じ場所で同じ時期にゴールドバーの投げ込みが行われて(級友・小池栄子の仕業とされます)、摩耶の行為が水を差されるとか、どれを取り上げても話はまっすぐ直線的に進まず、意図的に折り曲げられてしまっているように思えます。
こんなところから、もう一度この映画を見て捉えなおしたら、また面白いのではないのか、と思っているところです。
(注)ここらあたりのことについては、水本光美・北九州市立大学教授によるTVドラマについての論考が、あるいは参考になるのではと思われます。
その論考では、あらまし次のように述べられています。
「現在の30代末以前の若い女性は、従来の女性文末詞を使用しない」が、「テレビドラマの中では、今なお若い女性たちに従来の女性文末詞を使用させる傾向が強」い。こうした事情をみると、「現在、30 代から40代前半頃の比較的若い世代の脚本家が、女性文末詞を若い登場人物に使用させるとき、「女性は女性言葉を話した方が好ましい」というジェンダーフィルターが内在しているとの疑いが出てくる」。
同じような事情は映画にも見い出すことができて、「ジェンダーフィルター」という概念もあるいは適用できるのではないか、とも考えられます。
予告編を見て大変面白い着眼点だなと思い、また「カムイ外伝」で好演した小雪の主演作でもあるというので、映画館に出かけてきました。
劇場に入るまでは、森田芳光監督の作品であり、かつ小雪が主演なのですから大勢観客が集まって見やすい座席が確保できるだろうかと心配したのですが、あにはからんや入りは全然よくありません。事前の映画評論家の評価が芳しくないことも影響しているのでしょうか?
「映画ジャッジ」の評論家諸氏は、それほど酷い評価をしていませんが、それでも、福本次郎氏は、「物語自体があまりにも茫洋としていて、教訓めいたことも説教臭さもない代わりに、何が言いたいのかもよくわからなかった」との相変わらずの論評で50点、前田有一氏は、「通常の「常識」では到底理解できぬ人々が出てくる」などとして55点、小梶勝男氏は、派手な喜劇にはせず、淡々とドラマを描きたいという監督の狙いは分かるが、ただ主人公と友人たちが函館の町をうろうろとして、延々と話をしているだけのような印象で、どうも乗れなかった」としながら68点、そして、渡まち子氏は「地味な服装で、ちっとも幸福そうに見えない摩耶が一人でしりとりをする場面が印象的。そんな寂しげな彼女に、最後に訪れる奇跡には、人生に必要な信念や希望が感じられ、幸せの意味が少し分かった気がしてくる」として70点、といったところです。
さて、この作品は、予告編からすると、大儲けした女性が「お金を配る」という非常に面白いアイデアに基づいた映画と思わせ、実際に見たらそれがどんなに大きく膨らんでスリリングな展開をするのだろう、単に「お金を配る」行為を描いたに過ぎない映画ではないのではないか、別途のテーマが現れてくるのではないか、と随分期待を持たせます。
ですが、見終わってみると、ヒロインの摩耶が「お金を配る」様子を描いただけの映画で、全般的に常識的なことしか提示されてはいないのではないか、と思えてきます。
級友の女性が一人殺されるという事件は起きますが、その犯人もすぐに捕まってしまいますし、また市電の運転手の一家も崩壊しますが、運転手自身は、市電を研究するために摩耶のお金を使って外国に出かけてしまいます。
他の級友も、受け取ったお金をそれぞれのやり方で使い、全体として、至極淡々と何事もなかったように映画は進行し続けます。最後は、小雪の母親が、小雪の「しりとり」遊びの甲斐もあって劇的な回復を見せるというハッピーエンドとなっているのですからなおさらです。
ただ、実のところ私の方は、別の観点からこの映画を見てみようとも考えていました。
ほかでもありません、「わたし出すわ」というタイトルがとても奇妙なのです。いまどき「わ」という終助詞(文末詞)を使う女性など、ごく限られるのではないでしょうか(通勤電車の中で聞こえてくる女子高生同士の会話では、なんと「俺」などが使われています!)?
いったいなぜこんな古めかしい「女ことば」を麗々しく映画タイトルに使ったのかという疑問を、映画を見ながら解こうとしてみました。
実際に映画を見ますと、こうした「女ことば」が使われるのは、やはり1、2回ほどで、主演の小雪は、お金を渡すときに「これ上げるよ」などと言いますし、級友の小池栄子などは、むしろ「お主……だな」などと男同様の口のきき方をしています。
とはいえ、残念ながら最後までこの謎を解くことは出来ず、未解決のまま残ってしまいました(注)。
ですが、そのままにしておくのも癪ですから、この際開き直って考えようとしたら、あるいはこの映画は、全体で“はぐらかし”を狙っているのでは、とも思えてきました。
映画のタイトルからは優しい日本的な女性が出てくるのではと思わせながら、実際は投機で大儲けしたとみられる女性が主役ですし、にもかかわらず、その女性・摩耶の住まいは実に質素で服装もこの上ないほど地味です。また、その摩耶に小雪が扮するのですからさぞや美しく撮るのだろうと思いきや、なんとも抑制気味に映し出されます。さらに、お金にそんなに困っていない級友に大金を投げ与えるとどうなるか、という抜群のアイデアを出発点としながらも、風船が萎んだような面白みのないラストにわざわざ持っていくとか(級友の研究者は破天荒な研究を放棄してしまいます)、あるいは同じ場所で同じ時期にゴールドバーの投げ込みが行われて(級友・小池栄子の仕業とされます)、摩耶の行為が水を差されるとか、どれを取り上げても話はまっすぐ直線的に進まず、意図的に折り曲げられてしまっているように思えます。
こんなところから、もう一度この映画を見て捉えなおしたら、また面白いのではないのか、と思っているところです。
(注)ここらあたりのことについては、水本光美・北九州市立大学教授によるTVドラマについての論考が、あるいは参考になるのではと思われます。
その論考では、あらまし次のように述べられています。
「現在の30代末以前の若い女性は、従来の女性文末詞を使用しない」が、「テレビドラマの中では、今なお若い女性たちに従来の女性文末詞を使用させる傾向が強」い。こうした事情をみると、「現在、30 代から40代前半頃の比較的若い世代の脚本家が、女性文末詞を若い登場人物に使用させるとき、「女性は女性言葉を話した方が好ましい」というジェンダーフィルターが内在しているとの疑いが出てくる」。
同じような事情は映画にも見い出すことができて、「ジェンダーフィルター」という概念もあるいは適用できるのではないか、とも考えられます。