映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

『私の速水御舟』

2009年11月02日 | 美術(09年)
 前日の記事においては、山種美術館で開催されている「速水御舟」展を取り上げたところ、偶々、八重洲ブックセンター8Fにある美術書のコーナーをのぞいていましたら、吉田武著『私の速水御舟』(東海大学出版会、2005.10)なる著書に遭遇しました。副題が「中学生からの日本画鑑賞法」とあり何となく胡散臭く、著者も美術の専門家ではなさそうなので躊躇したものの、類書があまりありませんから買って読んでみました。



 最初の「本書の素描」において、吉田氏は、「御舟は日本画壇の最高峰」であり、「日本画の世界に於いて、最高の独創性を示した巨人」だと最大限の賛辞を呈します。

 と言っても、この「芸術の発する霊気を全身に受けて感動する為に、作者の苦労を知る必要も無いし、歴史的位置付けを確認する義務もない」、と著者は続けます。
 すなわち、「我が国の教科書には、ただ芸術を鑑賞する為にも、それなりの理屈を要する様に書いてあ」って、「美術史では、またまた「何々主義」の詳細が説明されるだけで、作品そのものの価値を、作品に接する行為だけから判断する様には鍛えられ」ていないが、「芸術作品を如何に分析してみても、そこに本質が焙り出される訳ではない」と述べます。
 要すれば、「芸術を鑑賞する為の「最善の方法」とは、出来る限り予備知識を持たず、周囲の雑音から耳も目も塞いで、作品に一対一で対峙すること、それも写真や複製ではなく出来得る限り現物を観ることである」というわけです。

 そうであれば、早速、具体的な議論に当たってみるに如くはありません。
 本書では、速水御舟の作品から9つの絵が選び出され、論じられています。では、有名な『京の舞妓』(東京国立博物館蔵)についてはどうでしょうか?


(京の舞妓)

 この絵は、本書の第4章「『京の舞妓』の波長」で取り上げられています。
 まず、「鑑賞」という項では、この絵のモノクロ写真が掲載され、次いで「感想」と「考察」が述べられ、最後に「資料」として、制作年近辺の出来事にかかる年譜などが記載されています。即ち、「「観て・感じて・考える」という順序」に従った「正しい鑑賞法」に則って書かれているわけです。

 著者はどんな「感想」を持ったのでしょうか?
 著者によれば、この作品において御舟は、「圧倒的な技量で人物以外の周辺背景に筆を尽くしている」が、「それでも最初は確かに人物が「京の舞妓」であったのかもしれない。しかし、誠に残念ながら「波長がズレた」のであろう。その一方で、物言わぬ着物が、畳が、俺を描けと迫ってきた。……こうして「京の着物」、或いは「京の畳」は制作された。取り残された舞妓が面白かろう筈がない。そこに益々人間の心の葛藤が表出してきた。ソレが不気味さの正体である。不本意な人間の表情をここまで辛辣に切り取る為には、背景が徹底的に描かれていなければならない。その為の細密描写であり、着物であり、畳であり、花瓶なのである」とされます。

 この感想は、「不気味」な舞妓の表情のよってきたる所以までも明確に述べていて、まさに「虚心坦懐に現物に接する」という著者の独自性がヨク発揮されているのではと思われます。
 例えば、山種美術館の館長である山崎妙子氏は、同館開催の「速水御舟展」の図録において、この絵につき、「畳の目一つ一つに至るまで徹底的に細密に描かれ」ていて、「日本画の画材を用いて、可能な限り油彩画的な質感表現に迫ろうとしている。彼の視線は、人体そのものよりも、むしろそのまわりのもの、着物や壺や団扇などの細部に注がれる」と解説しています(P.21)。
 ここでは、むしろ、細密に描かれている物の方に注目してしまい、肝心の舞妓がなぜあのような顔つきをしているのかに関心が及んでいません。そうなるのは、もしかしたら、この絵では「細密描写」がなされている、という先入観念に囚われてしまっているせいなのかもしれません。

 次いで、著者は、「考察」において、「横山大観からも「悪写実」と酷評され、御舟の院展からの除名が提案されたほどである」(同上)とする従来からの説につき、これは大観の「理解の及ばぬ作品を突如として鼻面に差し出された、その瞬間に出た一種のぼやきと見るのが妥当であ」って、「恐らく、大観は程なく御舟の意図する所を理解し、その作品の意義も認めて、その歩の確かなることに安堵したものと思われる」と述べます。
 さらに、この大観と御舟の対立と見られる関係について、「革命を起こした者(=大観)が、次なる革命(=御舟の作品)を理解しない」ことと捉え、ニールス・ボーアとアインシュタインの量子力学を巡る「知的対決」になぞらえてもいます(注1)。
 こう検討した上で、著者は、「人間の不確かさ、頼りなさ、哀しさを描こうとした時、逆に物の持つ確かさ、鮮やかさが御舟の目に極めて力強く映」り、「この対比を利用すれば、人間の持つ弱さや嫌らしさが見事に浮き彫りにされるだろうと考えたのではないか」と歩を進め、しかし「写生のやり方が足りな」かったがために失敗してしまったと本人が認めたのだ、と述べます。
 この絵の細密描写は「やりすぎ」だとする通常の見方に対して、吉田氏はここでも実に独創的な見解を披露しています。

 著者の吉田氏は「本書の素描」において、「本書は、巷間言われる所の印象批評の弊、即ち「出来の悪い感想文」で終わっているかも知れない」と謙遜しますが、なかなかどうして、随所に創見が伺われ、はなはだ知的刺激に富む内容となっていて(注2)、またまた山種美術館に出向いて、月末まで開催されている「速水御舟展」を見てみようか、という気にさせられます。


(注1)吉田氏によれば、「「量子力学」に先鞭を着けた」アインシュタインは、「ボーアとハイゼンベルクにより定式化された量子力学には終生反対の立場を取り続けた」とのこと。
(注2)ただ、この本の3分の1は、「附録―日本画の絶対的定義について」の記述にあてられています。
 そこでは、「「日本画」とは、明治の開国以降、怒濤の様に押し寄せて来た西洋文化、その代表としての西洋絵画に対抗する為に作られた「新名称」であり、高々百年程度の歴史しか持たない」とする相対的・消極的な定義ではなく(P.216)、「日本画は「即非の論理」(鈴木大拙)に従って、見るものと見られるものの区別が消えた所から描かれたものである。そこには主観も無く、客観も無い。部分と全体の対立も消え失せた「無限の世界」を描くのである」とする絶対的・積極的な定義を提示します(P.224)。
 大層興味深い見解ですが、日本論や日本人論によくみかける“日本と西洋(日本でないもの)”という「二分法」にやはり囚われてしまっているのではないか、著者が言う「西洋」とはどこに具体的な対象があるのか、などと疑念が湧き、ズブの素人ながら、こうした問題に深入りしない方が良いのではと思ってしまいます。


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