「母なる証明」を渋谷のシネマライズで見てきました。
韓国映画については敬遠気味で、今年は「悲夢」に次いで2作目にすぎません。とはいえ、評判がかなりいいので、これぐらいは見ておこうと思ったわけです。
映画の冒頭は、草原に年配の女性が遠くから歩いてやってきて、手を振りかざしながらゆっくりと回りながら踊る場面、次いで、その女性が漢方薬を作っている店の前で息子トジュンが車にはねられる場面となり、繋がりがよくわからないながら韓国映画特有のどぎつい内容になっているな、とは思ったものの、次第に映画の中に引き込まれていきます。
息子が不良の友達ジンテと遊んでいるなと思ったら、突然、女子高生の殺人事件が起きて、トジュンは犯人として警察に捕らえられてしまいます。母親は息子の無実を信じ、何とか釈放させようとあちこちを駆けずり回わり、その挙句の果てに……という具合に映画は進展します。
この映画では、殺された女子高生の遺体が異様な格好で建物の屋上に置かれていたりするなど、物語的にも意表を突く場面がありますが、それだけでなく、映像としてもトテモ印象的なシーンがいくつかあります。
母親とかその息子などの顔をドアップで映し出す一方で、母親が息子の友人の家とか廃品回収業者の家に行く場面などでは、遠距離から母親をごく小さく捉え、むしろその背景となっている山などを異常なほど大きく映し出しています。
また、床にこぼれた水に指の先が触れそうになるシーンとか、息子の尿の流れた後を母親が始末するシーン、殺された男の頭部からあふれ出す体液を拭き取ろうとするシーンなど、監督の液体に対する強いこだわりがうかがえます。
さらに、息子が接見室の鉄格子から見せる眼とか、殺された女子高生の逆向きの眼、そして母親の息子を案じる眼など、眼を巡る映像も忘れ難いものがあります。
こうした様々なシーンの積み重ねから、母親の息子に対する限りない愛情が映画の隅々にまで滲み出てきて、最後まで観客は画面から目を離すことができなくなってしまいます。
特に、この母親を演じるキム・ヘジャには感心いたしました。1941年生まれで既に70歳近いわけですが、その内に情熱の熱い塊を秘めた演技から、もっとずっと若く見えます。
劇場パンフレットに掲載されている経歴を見ると、映画と言うよりも専らTVドラマで活躍してきた人で、「韓国の母」とも言われているようです。そういうと、私などは「三益愛子」を連想してしまいますが、彼女のようなジメジメした厭らしさは微塵も感じられません。年恰好からは「吉永小百合」に近いのかもしれませんが、いくつになっても“お嬢様”らしさが抜けきらない後者とも比べられないでしょう!
「映画ジャッジ」の評論家諸氏も非常に高い点数を与えているところです。
渡まち子氏は、「本作は、とりわけ母親であることの原初的な力強さを感じる、すさまじい映画であ」り、「単純にジャンル分けできない複雑さがある物語なのだが、終盤の母親の心理描写は、名女優キム・ヘジャの熱演、物語の衝撃的な展開とともに、圧倒される」として80点を、
福本次郎氏は、「この結末では被害者やトジュンの身代わりになった少年は救われず、非常に後味が悪かった」ものの、「映画は彼女の直情的な行動の裏にある繊細な感情を丁寧に掬いあげ、映像は息のつまりそうな緊張感をはらんでいる」として、この評論家にしては高めの70点を、
小梶勝男氏は、「タイトルだけ見ると母の愛や正義を描いた映画のように思われるかも知れないが、そんなすっきりする作品ではない。描かれるのは母の狂気であり、母の闇だ。それは、韓国社会全体を覆う闇なのかも知れない」などとして92点もの高得点を、
それぞれ与えています。
私もこの映画は高く評価したいと思います。
ですが、問題点がないわけではありません。
というのも、上記の福本次郎氏も若干触れていますが、この映画で焦点となるのは女子高生を殺した真犯人は誰かですが、当初、母親の息子とされ、それが最後には別人物となるものの、息子にしてもその別人物にしても、いずれも程度の差はあれ知的障害者とされているのです〔精神鑑定を受けるまでもなく、外見から明らかなように設定されています〕。
すなわち、トジュンにしても、事件のあった日の夜のことについては何の記憶もありませんし、またこの別人物も、その点について(それどころか他の点についても)何の反応も示しません。
となると、いずれが犯人だとしても(映画では明らかにされますが)、通常人と同じようにはその責任を追及できなくなってしまい、結果としてこの物語を支える切迫性そのものが消失してしまうのではないでしょうか〔囚われている警察から解放することが問題ではなく、治療施設で治療を受けさせることの方が重要なことになってくるでしょうから〕?
また、真犯人を目撃した廃品回収業者を母親は激情に駆られて殺してしまいますが、その業者の建物が火災にあうと殺人事件までも消失してしまう、というのも現実的ではないように思われます。まして、息子がその焼跡から、母親がいつも身に着けている鍼の道具箱を見つけてくるくらいですから、殺人の痕跡が無くなってしまうことなど考えられません〔映画では、当初の女子高生殺人事件の現場で作業している科学捜査班の姿が明示的に描き出されているのです!〕。
とはいえ、こうした点も、ラストのバスの中の場面で、冒頭のシーンと同じように母親が踊り回わる姿を見ると、マア小さなことかもしれないと思えてくるのも不思議なことです。
韓国映画については敬遠気味で、今年は「悲夢」に次いで2作目にすぎません。とはいえ、評判がかなりいいので、これぐらいは見ておこうと思ったわけです。
映画の冒頭は、草原に年配の女性が遠くから歩いてやってきて、手を振りかざしながらゆっくりと回りながら踊る場面、次いで、その女性が漢方薬を作っている店の前で息子トジュンが車にはねられる場面となり、繋がりがよくわからないながら韓国映画特有のどぎつい内容になっているな、とは思ったものの、次第に映画の中に引き込まれていきます。
息子が不良の友達ジンテと遊んでいるなと思ったら、突然、女子高生の殺人事件が起きて、トジュンは犯人として警察に捕らえられてしまいます。母親は息子の無実を信じ、何とか釈放させようとあちこちを駆けずり回わり、その挙句の果てに……という具合に映画は進展します。
この映画では、殺された女子高生の遺体が異様な格好で建物の屋上に置かれていたりするなど、物語的にも意表を突く場面がありますが、それだけでなく、映像としてもトテモ印象的なシーンがいくつかあります。
母親とかその息子などの顔をドアップで映し出す一方で、母親が息子の友人の家とか廃品回収業者の家に行く場面などでは、遠距離から母親をごく小さく捉え、むしろその背景となっている山などを異常なほど大きく映し出しています。
また、床にこぼれた水に指の先が触れそうになるシーンとか、息子の尿の流れた後を母親が始末するシーン、殺された男の頭部からあふれ出す体液を拭き取ろうとするシーンなど、監督の液体に対する強いこだわりがうかがえます。
さらに、息子が接見室の鉄格子から見せる眼とか、殺された女子高生の逆向きの眼、そして母親の息子を案じる眼など、眼を巡る映像も忘れ難いものがあります。
こうした様々なシーンの積み重ねから、母親の息子に対する限りない愛情が映画の隅々にまで滲み出てきて、最後まで観客は画面から目を離すことができなくなってしまいます。
特に、この母親を演じるキム・ヘジャには感心いたしました。1941年生まれで既に70歳近いわけですが、その内に情熱の熱い塊を秘めた演技から、もっとずっと若く見えます。
劇場パンフレットに掲載されている経歴を見ると、映画と言うよりも専らTVドラマで活躍してきた人で、「韓国の母」とも言われているようです。そういうと、私などは「三益愛子」を連想してしまいますが、彼女のようなジメジメした厭らしさは微塵も感じられません。年恰好からは「吉永小百合」に近いのかもしれませんが、いくつになっても“お嬢様”らしさが抜けきらない後者とも比べられないでしょう!
「映画ジャッジ」の評論家諸氏も非常に高い点数を与えているところです。
渡まち子氏は、「本作は、とりわけ母親であることの原初的な力強さを感じる、すさまじい映画であ」り、「単純にジャンル分けできない複雑さがある物語なのだが、終盤の母親の心理描写は、名女優キム・ヘジャの熱演、物語の衝撃的な展開とともに、圧倒される」として80点を、
福本次郎氏は、「この結末では被害者やトジュンの身代わりになった少年は救われず、非常に後味が悪かった」ものの、「映画は彼女の直情的な行動の裏にある繊細な感情を丁寧に掬いあげ、映像は息のつまりそうな緊張感をはらんでいる」として、この評論家にしては高めの70点を、
小梶勝男氏は、「タイトルだけ見ると母の愛や正義を描いた映画のように思われるかも知れないが、そんなすっきりする作品ではない。描かれるのは母の狂気であり、母の闇だ。それは、韓国社会全体を覆う闇なのかも知れない」などとして92点もの高得点を、
それぞれ与えています。
私もこの映画は高く評価したいと思います。
ですが、問題点がないわけではありません。
というのも、上記の福本次郎氏も若干触れていますが、この映画で焦点となるのは女子高生を殺した真犯人は誰かですが、当初、母親の息子とされ、それが最後には別人物となるものの、息子にしてもその別人物にしても、いずれも程度の差はあれ知的障害者とされているのです〔精神鑑定を受けるまでもなく、外見から明らかなように設定されています〕。
すなわち、トジュンにしても、事件のあった日の夜のことについては何の記憶もありませんし、またこの別人物も、その点について(それどころか他の点についても)何の反応も示しません。
となると、いずれが犯人だとしても(映画では明らかにされますが)、通常人と同じようにはその責任を追及できなくなってしまい、結果としてこの物語を支える切迫性そのものが消失してしまうのではないでしょうか〔囚われている警察から解放することが問題ではなく、治療施設で治療を受けさせることの方が重要なことになってくるでしょうから〕?
また、真犯人を目撃した廃品回収業者を母親は激情に駆られて殺してしまいますが、その業者の建物が火災にあうと殺人事件までも消失してしまう、というのも現実的ではないように思われます。まして、息子がその焼跡から、母親がいつも身に着けている鍼の道具箱を見つけてくるくらいですから、殺人の痕跡が無くなってしまうことなど考えられません〔映画では、当初の女子高生殺人事件の現場で作業している科学捜査班の姿が明示的に描き出されているのです!〕。
とはいえ、こうした点も、ラストのバスの中の場面で、冒頭のシーンと同じように母親が踊り回わる姿を見ると、マア小さなことかもしれないと思えてくるのも不思議なことです。