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またまた理系・文系―「虚数の情緒」

2009年11月03日 | 
    

 前日の記事においては、吉田武著『私の速水御舟』に触れたところ、浅学な私は全く知りませんでしたが、著者の吉田武氏は数学の世界では至極有名な方のようです。
 ネットで調べますと、希代の読書家である松岡正剛氏の「千夜千冊」の第1005夜(2005.2.16)で、この吉田氏の『虚数の情緒』(東海大学出版会、2000)が取り上げられていることがわかります。

 早速松岡氏のサイトを見てみますと、なんと吉田氏の本では「理科系と文科系に世の中を分けるな」という議論がなされているとのこと!

 実際に、吉田氏の本の該当個所にあたってみましょう。
著者は、「文化に敷居も垣根もない。ジャンルや区別があろう筈がない。全体が人間性を育む我々の最高の財産なのである。……科目が分かれているのは、全く便宜上の理由であり、そこに本質的な違いなど存在しないのである」、とはじめの方で述べます(P.56)。

 ここまでなら至極当然の議論でしょう。ところが、吉田氏は、「然し、然しである」として、「この日本に、未だどれほど蔑もうと、何処からも苦情が出ず、きわめて不本意な扱いを受けている文化がある。今更言うまでもない、数学、物理学を中心にした基礎科学である」と苦言を呈します(P.57)。要すれば、“理系”の人の扱いが、日本では適切ではないということでしょう。

 そうした事態を招く背景として、「我が国では、俗に「文系」「理系」と、恰も二種類の異なる人種がいるかの如く、極端に区別する」という点を挙げます。
 それも、「高々数学が嫌い、或いは良く解らない、という唯それだけの理由で、「私は文科系」と称する人が居る」一方で、「「数学が得意」であるとか、機械いじりが三度の飯より好きであるとか、を表明した途端に、「暗い」であるとか「オタク」であるとか、殆ど罵りに近い言葉を浴びせられる」というバランスを欠いた扱いが問題なのだ、とします。
 実際にも、「何の怨念か、数学を毛嫌いする人々が存在」していて、「彼らに言わせれば、数学が出来る人間は冷酷で、計算高く、油断のならない、極めて扱い難い人間」だとのことで、「この種の見解を陰に陽に表明する人は、意外と多い」とされます。
 こうして、「大学入試に端を発するこの大いに無意味、且つ大いに有害な区分けは、国民を真っ二つに引き裂いている」のだ、と嘆くこと頻りです(P.58)。

 ここまでであれば、実際には実力のある“理系”の人たちが冷遇されている、という巷間言われる怨嗟のようにも思われます。10月11日の記事においても、「力は拮抗しているのに、勝負は常に一方的」で、「「理」を掲げる潮流」は、「検証の厳密さや合理性の尊重ゆえに、柔軟さを欠くとして権力の座には遠かった」とする塩谷氏の見解を紹介したところです。
 また、10月12日の記事についての「やっぱり馬好き」さんのコメントにあるような、「どうも理系の方々は、文系の学問やそれを学んだ人に対して、なんらかの優越感をもっているのではないかというようにも感じ」るという見方の裏返しとして、「理系の方々」の怨嗟があるようにも思われるところです(同記事の「6」の「(注2)」も参照)。

 ただ、吉田氏はもう一歩議論を進めます。すなわち、このように「「文系」と「理系」と分けて考える二分法」は、「「天」と「地」、「彼」と「我」、「正義」と「悪」、「あれ」と「これ」」という「二分法」と同様に、「すべて西洋が生み出したもの」であるが、これに対して、「東洋は不合理を恐れず、それをそのままに一つのものとして捉える」のであり、「東洋では二分法を嫌い、統一的、絶対的立場を求めるが故に佛教が誕生した」のである、と述べます。
 そこから、「我々は、二分法の特徴、その長所を認めながらも、そこから脱し、全体を丸のみにできる包容力と大きな視野を持たねばならない」のであり、「与えられた才能を、二つに分けるのではなく、一つの大きなもの、不可分な全体として捉える能力を磨くことこそ、新世紀の諸君の課題なのである」との吉田氏の主張が導かれます。

 こうした主張は、わからないでもありません。ただ、「二分法」は「西洋」のものの見方で「統一的、絶対的立場」を求めるのが「東洋」だと考えること自体が「二分法」によってしまっているのではないか、と揚げ足を取ることもできましょうし、「理系・文系」と分けることの弊害は、「二分法」しか知らない「西洋」の方で甚だしくなると思われるところ、そんな話はあまり聞きませんし(「西洋」は、日本ほど「無頓着」ではないのかもしれませんが)、また「佛教」しか「東洋」は生み出さなかったのか、とも言いたくなっても来ます。

 ですが、そんなつまらないことは言わずに、上記した「やっぱり馬好き」さんのコメントにあるように、文系でも理系でもかまいませんが、「両方の立場からアプローチして総合的体系的合理的な結論」が得られるよう、「総合的な止揚(aufheben、アウフヘーベン)が必要」になってくることでしょう。


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