『要するに、「脇役だった乃木第三軍を主役とし、鴨緑江軍・黒木第一軍にも頑張ってもらう」と言う訳である。
三月三日~五日は、右翼の鴨緑江軍・黒木第一軍も、正面の野津第四軍も、攻撃は頓挫。勇猛果敢に前進したのはまたしても左翼の乃木軍だけである。もっとも危険な先鋒を務めた乃木軍の東京第一師団は、充満するロシア軍に錐を深くもみ込むように突入し、三月四日午前に大転湾へ進出。旭川第七師団が李官堡を占領、金沢第九師団が張士屯へ進出した。』と「ロシア破れたり」のP229には書かれている。
乃木軍はその後、たびたびロシア軍の強襲を受け、大損害を受けるものの、
『三月六日、乃木大将は、奉天包囲のため、「明日以降、東進し、奉天・鉄嶺間の鉄道線路を遮断する」と決断した。
・・・乃木大将が、「我が軍が西方から回り込んで鉄道線路を遮断する奉天片翼包囲」へと作戦を変更させたのだ。
これに対してクロパトキンは奉天・鉄嶺間の鉄道線路を守るべく、「ロシア軍正面から主力を引き抜き、乃木軍が迫る鉄道線路の西側へ大兵力を集中」させることにした。かくして乃木軍とロシア軍は、鉄道線路の攻防を巡って、大激突となる。』
と「ロシア破れたり」のP231には書かれている。
満州軍総司令部も、この状況下でなすすべもなく、ただひたすら乃木第三軍の進軍を督促した。
このため疲労困憊した乃木軍であったが、この鉄道を遮断すべく動き出したために、ロシア軍は堅固な高台嶺、紗河堡・万宝山要塞から撃って出てきたのである。これで、日本軍二十五万人、ロシア軍三十七万人という大舞台による奉天会戦が戦われたのである。
しかしながら、「祖国防衛戦争」であるという意識と、乃木希典という類まれな大将の薫陶下にあった二十五万人の日本兵は一糸乱れず懸命に戦い抜いたのである。
司馬遼太郎の言う『「メッケルの戦術か日露戦争の満州における野戦にどれほどの影響を与えたか計りしれない」とほめそやしているが、これは史実にまったく反する見当違いの思い込みである。』(ロシア破れたり」のP237~P238)
クロパトキンは、乃木軍の先鋒の第一師団が十万のロシア軍と対等以上に戦っていたことから、三万八千人の乃木軍を十万の大軍と見誤っていた。
三月九日午後五時三十分、クロパトキンはロシア軍全軍に鉄嶺への総退却を命じたのである。乃木軍の猛攻により、奉天・鉄嶺間の鉄道線路を遮断され、ロシア軍の退路を断たれてしまうと恐れたのである。
乃木軍も砲弾を打ち尽くしてしまい、退却するロシア兵を満載した列車を阻止することができなかった。
このため奥第二軍は、もぬけの空となった奉天へ難なく入城することができたが、この栄誉は乃木軍に与えられるべきものである。
(続く)