世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(45)

2010-12-22 11:34:00 | Weblog

それでもようやく8月14日、連合軍は北京攻略を開始した。北京軍は、先の天津攻略で多数が失われ、戦意も萎えていたため翌日の8月15日には北京は陥落している。それからおよそ一年間の北京占領体制が続くこととなる。1900年6月20日から8月14日までの55日が「北京の55日」と言われ、北清事変または義和団の乱と言われる戦乱である。

この籠城戦では、柴五郎砲兵中佐の活躍に言及しなければならない。柴五郎中佐は北京公使館つき駐在武官として清朝に赴任していた。彼は英語、仏語、中国語に精通し籠城戦の実質指揮を執ることになる。総指揮はイギリス公使のクロード・マクドナルドが執ったが、最先任士官だった柴五郎が籠城戦の指揮をとり、籠城成功に多大な貢献をしている。彼なくしてこの55日の籠城
は成し遂げられなかった、といわれ各国から賞賛された。


北京落城後も柴五郎中佐は軍事衙門長官(駐留軍司令官)として治安を担当し、厳しく取り締まりを行い、暴行や略奪を働いた連合軍兵士は現行犯で捕らえると、それぞれの軍司令部へどんどん突き出した。日本軍全体は、最も規律が正しいことで評判を得て、その占領地の北城はすぐに治安が回復し、商店も営業を再開したと言う。参謀本部編の『明治三十三年清国事変史』にも、「他国の軍の占領区域は荒涼、寂寞たるにかかわらず、ひとり我が占領区内は人心安堵し、ところどころ市場開設し、売買日に盛んに至れり」と記録している。

それに引き替え、ロシア軍に占領された区域は悲劇であった。その地の住民たちは続々と日本占領区に逃げ込み、保護を求めた。当時の北京市長はたまりかね、マクドナルド英公使に苦情を訴え、ロシア軍管区を日本軍管区に変えて欲しいと懇願したほどだった。

北京市民の駆け込み寺と化した日本軍占領区で、軍全体を指揮する柴五郎は市民にとって守護神だった。柴に帰国命令が出され、それがうわさとして一般に伝えられると町は大騒ぎとなり、老若男女こぞって別れを惜しみ、涙ぐんだと言う。・・・・・・・・・

当時の柴はコロネル・シバと呼ばれ一躍世界に知られた。柴はまた北京で清国の警察教育を行って、警務練習所を作り、中国の近代警察学校の基礎を築いた。

柴は北京駐在2年にして帰国し、宮中に参内して明治天皇に北京籠城のいきさつを報告した。このときの功績は、各国からも評価され、勲章を授与されている。またイギリスのエドワード七世、イタリアのエマヌエル皇帝、ペルー大統領、スペイン皇帝、ロシアのニコライ二世などにも謁見した。



以上は黄文雄氏の「捏造された日本史」に書かれている柴五郎中佐の当時の状況である。いかにコロネル・シバの統率が優れていたかを、これは示すものである。

1900年8月15日に北京が陥落すると、西太后は光緒帝の愛妾、珍妃を寧寿宮裏の井戸に投じて殺害して、紫禁城から逃げ出してしまう。逃避行の後山西省太原に落ち着くが、居を変えつつ10月26日に西安に辿り付く。連合軍が北京を占領している間には西太后は北京に戻ることはなかった。ほとぼりが冷めた1902年1月、1年4か月ぶりに北京に戻っている。

1900年8月には8カ国連合軍の司令官としてドイツ人ワルデルゼーが北京に到着する。そしてドイツ軍を指揮して盛んに義和団擧民の掃討を行った。紫禁城の接収は日本軍が担当し、殺された珍妃の遺体を井戸から引き上げ弔っている。

(続く)
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