原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

若者達は何が嬉しくてハロウィーンに渋谷へ集結する!??

2019年10月26日 | 時事論評

 (写真は、昨年のハロウィーン本番の渋谷の夜の写真。 渋谷駅周辺で警察庁が厳戒態勢を敷いた時の様子。 朝日新聞2019.10.25夕刊記事より転載したもの。)

 

 上京後40年以上が経過した私だが、どうも“渋谷”という地にはさほど縁がないし上京後一貫して好きな場所でもない。

 いや、若気の至りの時期は“ナンパされ目的”等で出かけた事もあったかもしれない。 その頃の私は「ディスコ通」だったが、何故か渋谷にはそれが無かった(サパークラブ的な店舗はあったが)せいでさほど足を運ばなかったのだろう。

 30歳時に東急東横線急行停車駅徒歩4分の地に単身で住むマンションを購入した後も、横浜方面や地下鉄日比谷線はよく利用したものの、渋谷駅で降り立つことは稀だった。

 もう10年程前になるかもしれないが、私が日々利用する東京メトロ線が東横線と繋がり、渋谷経由でみなとみらい駅まで直通となった。 その後も渋谷で降車するのは、文化村へクラシックバレエ観賞に行ったり美術展を訪れる時くらいだ。 

 そう言えば、その帰り道に娘と二人でヒカリエビルに晩餐に立ち寄ったのだが。 それこそ若者達でゲロ混み状態! ゆっくり寛げそうなレストランを探したものの、ほとんどが隣の席と同席のごとくの窮屈さ。   ギャル達がキャピ付く席の隙間の席に案内されそうになったが、この雑居状態じゃ到底落ち着いて晩餐など出来やしない。 即刻「すみませんが、この席では寛げませんので今日はやめさせて頂きます。」と申し出て、ヒカリエビルから“避難”したものだ。  あの後、私も娘も二度とヒカリエビルに立ち寄る事は無い…

 

 さてその渋谷が、数年前よりハロウィーンの10月31日になると、驚くほど大勢の若者達が仮装スタイルで繰り出して、馬鹿騒ぎする場と成り果てている。 時には過激行動や暴動が勃発し、逮捕者が出る始末だ。

 これに対抗せんと、警察軍団が厳戒態勢を敷くのだが。(冒頭写真参照)

 一般人としては、勘弁して欲しいものだ。 何でこんな馬鹿者たちのために血税を注ぎ込んで警察軍団を派遣せねばならないんだ!

 ハロウィーンに渋谷へ繰り出す馬鹿者たちも少しは考えろよ、特に今年は。

 相次ぐ大規模台風豪雨被害により、東日本に死者を含めて多数の被災者が出ている。 馬鹿者たちが渋谷で過激行動をとるのに対抗して厳戒態勢を敷くため警察軍団を注ぎ込むのに、1億円を超過する予算が投入されていることを知ってのその行動か!?  今年こそは、その資金を豪雨被災者へ捧げようとの発想を、若者達も抱こうではないか!

 一時は、DJポリスとやらが出没した年もあった。 その芸達者なDJポリスがリズムに乗ってアンタたち馬鹿者を指導すると、どうやら大人しくなるらしいが。 どんだけ幼稚なんだ、お前らは。

 

 最後に、そんな愚かな行動に出る若者達の心理を少し分析してみよう。

 この集団行動は、どうも過去(今もか??)にこの国が好んだ一般的な「集団主義」とは大幅に趣を異にするように私は感じる。

 元々集団嫌いの私故に、如何なる集団とて所属したくは無いのだが。  ただ、そんな集団嫌いの私の視点で観察して、肯定的に捉える事が可能な集団も実在することだろう。  その行動趣旨が“世のため人のため”に機能し、プラスの成果を上げている集団も必ずや存在すると把握している。

 それに対し、ハロウィーンに渋谷へ集結する若者達の「集団行動」は、どうしても私には計り知れない。  おそらく何らのポリシーも無いのだろう。 皆が行くから私も行く、皆がバカ騒ぎするから私もする。  まあ中には過去の私のように“ナンパ目的”等の娯楽を楽しむとの目標もあるのだろうが。   

 ところがその「集団性」が過激化し、アルコールの力も借りて暴徒化してしまっては世も末だ。

 冒頭写真の朝日新聞記事によれば。 

 昨年発生した、軽トラ横倒し・窃盗・わいせつで逮捕者が多数出たのを受けて、今年は「ノンアル作戦」に出ると言うが…   

 そんな対応で、果たして馬鹿者たちが大人しくなるであろうか??

 「通行止め区間」も増やすというが…

 この日本に於ける商業主義に煽られたのみの「ハロウィーン」の歪み切った慣習こそを根本的にどうにかせねば、渋谷にての馬鹿者たちの過激行動を制御不能な気もする…


「毎日、友だちといっしょに校庭を走る」

2019年10月25日 | 教育・学校

 上記表題は、一体何かと言うと。

 昨日2019.10.24に実施された都教育委員会独特の「児童・生徒の学力向上を図るための調査」内で、小学生の国語の課題として出された問題文だ。  

 この文章の中で「毎日」が詳しく説明している部分を4択で選ばせる、との問題だったようだ。 要するに、「修飾」と「被修飾」の関係を理解する力があるかどうかを試す設問である。

 解答は自ずとしれているが、「走る」がその正解である。

 この設問の正解率は、44,6% だったらしい。

 この結果に対し、都の担当者は「今後も授業改善に取り組む」と語っているとの事だ。(後にこの件の論評をしたい。)

 

 上記は、2019.10.25付朝日新聞 「文の構成 理解力不十分 小5・中2対象 都の学力調査」と題する記事より引用した。

 ついでに、他の教科の試験内容も少し紹介すると。 算数では「6,4は0,01を何個集めた数か」との相対的な数の大きさを問う問題。 中学生の英語では、絵に描かれた内容を的確な英文で伝えられるかをためす問題だったらしい。 

 

 原左都子の私見に入ろう。

  東京都がその種の学力テストを実施している事実を初めて知った。 我が子も公立小学校時代に全国学力テストの対象となったような記憶があるが、都の学力テストの記憶はまったくない。

 子供達も「試験」また「試験」で大変だろうなあ、と同情しつつ。 この種のテストがその後、子供達全般の学力向上に直結しているとは到底考えられない現状ではなかろうか??

 昨日実施されたとの、都の学力テストを少し検証してみよう。

 算数の“相対的な数の大きさを問う問題だが、これは確かに小5レベルでは解答出来るべきだろう。 要するに小数点が付く割り算能力を問うたものだが、我が希望としてもこれには正解して欲しい。

 私事になるが、我が娘の小中高(そして大学も?)の学習指導をこのサリバンが全面的に補佐してきたが。 特に小中高時代は、必ずや学校にて実施している授業内容に遅れをとらずに理解出来ているかを綿密に確認したものだ。 我が娘は(サリバンの血をひいているのか?)算数・数学(高校の数Ⅰ頃まで)は比較的得意だった。

 都の学力テストの「英語」に関してだが。 これは“良問”ではなかろうか? おそらく“筆記問題”と推測するが、これぞ将来的にも役立つ英語の指導法と私も捉える。  私事だが、今現在海外旅行にて英会話をする際、中学英語こそが今尚役立っている感覚がある。 要するにこの設問で問われている通りの、今ここで何を喋るべきかを海外現地で頭をひねりつつの英会話だ。 今表現するべく内容を的確な英文で伝える能力(読み書きであれ)が中学生頃に育つと、その能力とは“一生もの”となり役立つことを私も保証する。

 最後になったが、国語の「修飾」「被修飾」問題だが。 この設問の回答率が振るわない理由が分かる気もする。 小5の子供達にとって「国語」とは普段いつも使用している日常言語である。 その言語に関して、小さき子供を掴まえてあまりにも「文法論」に走ってしまうことが善か悪かを問いつつ、国語の授業とは成されるべきではないだろうか。 

 設問の「毎日、友だちといっしょに校庭を走る」に関してだが。 もしかしたら年端も行かない子供にとっては「毎日、走る」事よりも、「毎日、友だちといっしょ」の方が重要要件であるかもしれない。  特に小学生相手の授業に於いては、「文法論」を伝授する際にも、そんな“子ども心”を潰すことなく授業展開して欲しい気もする。

 

 そんなこんなで、都教委がこの都テスト結果を受けて「今後も授業改善に取り組む」と発言している事実こそが一番気にかかる。  あくまでも“お上目線”ではなく子供の目線に立ち、子供達が感情移入出来るべく授業改善に期待したいものだ。


「読者登録」を一掃して我がブログライフの自由度が高まった!

2019年10月24日 | 自己実現

 今年3月に当該gooが編集画面の大規模リニューアルをして以降。

 私はブログ記事を作成する際に通過せねばならない編集画面を開く都度、“嫌悪感”と“憂鬱感”に苛まれていた。

 何処のコーナーを見ても「数値」また「数値」だらけ…

 私の場合「コメント欄」を閉鎖しているためその欄は不要なのだが、これが上部に位置している有様。 これに関しては後に下に移行したため、まだしも救われた。

 自分自身のブログへのアクセス数等の数値に関しては、日々の変動等参考になるためさほど問題はない。

 私が一番“嫌悪感”“憂鬱感”を抱かされたのは、「フォローしているブログの新着記事」欄だ。

 あの欄に、必ずや新着記事に寄せられた「いいね!」の数値と、その「いいね!」を寄せたブロガーの小さい丸写真が掲載されている。 多い方はその数が数十に上る場合もある一方、(我がブログも含め)0から2,3個と少ないブログもある。

 これを本人が見て喜ぶ分には何ら問題ないが、編集画面に日々掲載して、読者登録している相手に公開する必要があるのだろうか!? と多少怒りに満ちつつ、いつも眺めていた。

 その登録相手に寄せられている「いいね!」丸写真を嫌でも見せられると。  時折、私も知っているブロガーの丸写真が掲載されている。  (こんなマイナーな感覚を抱くのは“天邪鬼”の原左都子のみかもしれないが)、「え~~~! この方、こんな人と交流があるんだ。 私この人にはまったく興味無いのに。」  極端な場合、「この人嫌いで私は敬遠しているのに、私が読者登録したこの方は、こんな人と交流していたんだ。 私とこの人を同列扱いされるのは屈辱だし、勘弁して欲しいなあ。」とすら、正直なところ身勝手にも思ったこともある…

 嫌なら見なきゃよいに決まっている。 今現在の編集画面はそれらのコーナーを閉鎖可能となっている。  それ程嫌ならば「閉鎖措置」を取れば済む事は十分に分かっているが、私側がどうしても新着記事情報を得たい相手もいるのだ。

 我がブログは「オピニオンブログ」だ。 毎回、時事社会問題や学問・研究関連に対するオピニオンを2000字~3000字程度の字数にまとめて綴り公開している。 同趣旨のブログは非常に数少ないが、1年半程前にそれを主眼とされているブログを発見し、新着記事を必ずや愛読させて頂いている。 何せ、同趣旨故に読み易いし感情移入し易いのだ。 熟読させて頂いては、時には記事内容に沿った同感、異論、反論等々のコメントを慎重に書かせて頂いてもいる。  しかもそのブロガー氏は、「数値」になど私以上にまったく無頓着で、その点でも尊敬申し上げている。 その方の新着記事には是非とも目を通させて頂きたいのだ。

 そんなこんなで、私が今回採用した措置が「読者登録抹消」だったとの訳だ。 2,3日前より、その措置を実行に移している。 「読者登録抹消」を前もって連絡した方もいたが、させて頂かなかった方には、ここでお詫び申し上げたい。 「読者登録抹消したい」なる我が究極我がままに対し、「問題ありません。今後共また形を変えて交流を続けましょう。」なる実に嬉しいご反応も頂戴した。 ありがとうございました。

 参考だが、今回の我が「読者登録抹消」措置に際し、記事更新頻度が低い方々や元々「数値」にこだわっておられないらしき方に対しては、「読者登録」をそのままにさせて頂いております。   (この措置により残っている読者登録数はわずか5名となった。)

 

 まったくもって、こんな我儘ブロガーは何処にも存在しないことであろう。 

 それでも私本人にとって、今回の「読者登録一掃作業」は私自身に大いなる自由度をもたらしてくれたことに間違いない!  今後共、我が中心命題とする“オピニオン”を今まで以上に力強く公開して行けそうな気がする!  


他者に依存せず人間関係を斬り捨てても守りたい事がある

2019年10月22日 | 人間関係

 昨日の「原左都子エッセイ集」“popuar entries top 10”に、偶然時を同じくして同一趣旨の人間関係エッセイバックナンバー3本がランクインしていた。

 そのバックナンバーとは、2017.03.20公開の「他者への依存心が老化を加速させる」、2011.11.28公開 「孤独を貫いても守りたい事がある」、2018.11.28公開「人間関係を斬り捨て、また斬り捨てる我が人生」  以上の3本である。

           

 上位3本のバックナンバーの一部ずつを、以下に引用しよう。

 ここ数年、何処へ行っても(身内高齢者を含め)お年寄り達と縁がある私だが、彼ら(彼女ら)ご高齢者の皆さんを観察したり会合したりする日々の中、思う事がある。
 先だって公園で行きずりの92歳のご婦人と出会い、一緒に一時ダンスを踊り立ち話をした話題をエッセイに綴った。
 この公園でダンスを一緒に踊った92歳のご婦人を “Aさん” としよう。 このAさん、元々明るく人見知りをしないタイプのようだ。 おそらく、日々散歩中に出会った人達との会話を楽しんでおられる事だろう。 加えて、私がAさんに感心させられた一番の理由は、お亡くなりになったご亭主の話題に一切触れなかった事だ。 私が察するに、ご亭主が亡くなってからさほどの年月が経過していないと推測出来るにもかかわらず…。
 これに比し、例えば昨年のイタリア個人旅行中に出会った日本人団体旅行客の女性高齢者(78歳との事だったが)など、イタリアでの我々母娘との一期一会の出会い中に、亡くなったご亭主の介護の様子を事細かく話されるのだ。 
 海外旅行にまで出て、何故異国のこの地で出会った見知らぬ他人にご自身のご亭主の話題を中心に設定するのか??、と聞いてあげながら辟易とさせられたものだ。 おそらく同国人ならばご自身の辛さを理解してもらえると期待し、心の内を打ち明けたのだろう。
 この78歳のご婦人は、「主人が亡くなった今、私にとって旅行こそが楽しみ!」 とおっしゃるのだが。 そうであるならば尚更、亡くなったご亭主の介護の辛さを旅先で行きずりの人に聞いてもらうとの手段を取るご自身の心理状態こそに決着を付けない内は、その辛さからいつまでも解放されないのではなかろうか??、と無情にも感じざるを得なかった……。
 92歳のAさんだが。 男性の平均寿命を鑑みると、ご亭主はあらかじめ予想可能なご年齢にての他界だったのかと推測可能だ。 それ故に、ご自身が92歳に至ってあれ程にお元気で、今現在も公園内を散歩しつつ私にまでお声を掛けて下さったのかと嬉しく思う。
 現在、高齢者有料介護施設へ入居中の我が身内高齢者2名(義母及び実母)の保証人を任されている関係で、必然的に普段より高齢者に関心が向くのは現在の我が宿命であるとして。 そのお陰の長所として、私は世間で知り合う高齢者の皆様に対し“興味が持てるようになった”と自己分析するのだ。
 ただ、この世の誰が高齢者に興味を持つんだ!? というのが世間一般の本音ではなかろうか。
 高齢者対策と政権をはじめ各種公的機関が大騒ぎしている割には、特に核家族の若い世代程、そんなの他人事と考え無関心でいる事に間違いないだろう。 下手をすると、身内高齢者より如何に高額年金を巻き上げるか?? にまで若い世代家族内での魂胆が及んでは、刑事事件にまで発展しそうだ。  高齢者にとっては、身内に身を斬られそうな今の厳しい世の中である事に間違いないだろう。
 そんな逆境の下、高齢者自身こそが老齢初期段階から身内をはじめとする他者に依存することなく、いつまでも主体性を持ち自力で生き抜くことこそが身を助けるものと、私は信じるのだが…

 (以上、「他者への依存心が老化を加速させる」より一部を引用したもの。)


 原左都子自身は 「孤独」 という言葉とはさほど縁の無い人生を送っているのかもしれない。
 長い独身一人暮らし時代を歩んで来た私だが、何分その頃は超多忙な日々を送っていたため「孤独」と向き合う時間すら取れなかった故であろう。  当時さしあたって結婚願望のなかった私は、このまま大都会の喧騒の中で今後も一人身で生きていかねばならない現実だった。 当時とりあえず周辺には近しい恋人や複数の友人や職場の同僚等々、日常的にかかわっていく相手がいるにはいたのだが、日々流れ行く浮世の中で人間関係とははかなく移り変わるのがこの世の常という事も承知していた。 いつか私の周辺に、私と係わりを持つ人間が一人としていなくなる日が訪れても何ら不思議ではない。 その時、私はその孤独に耐えられるのだろうか???  郷里よりの飛行機の中で突然襲われたこの “来たるべく孤独想定恐怖感” は私にとっては結構切実だったものだ。  ところが当時はやはりまだまだ若気の至りだった事に救われたものである。 帰省した翌日から、またもや我が身には多忙な日々が押し寄せてくる。 “孤独想定恐怖感”など何処かに吹っ飛んでしまったようで、その後の我が心理状態の記憶はない。

 「孤独」がテーマだったのに、話が“集団嫌い”の原左都子の持論に偏向してしまった。
  朝日新聞夕刊“こころ”「生きるレッスン」を担当しておられる3名の有識者の皆さんも、どうやら人間の「孤独」を肯定しておられるようだ。  今回の朝日新聞記事である「孤独を楽しむ」とのテーマの回答執筆者であられる3氏の題目のみ、以下に紹介することにしよう。
 創作家の明川哲也氏  「ものが見え聞こえる時」、 哲学者の森岡正博氏  「世の美しさ感じられる」、 作家のあさのあつこ氏  「自分と向き合う時間に」。 当該3氏も訴えておられるが、人間がこの世に生きていくに当たって 「孤独」 とは避けて通れない命題であると同時に、その経験を通じて人間性を磨くチャンスでもあると原左都子も捉えている。
 まだまだ今後の人生が末永く続く私であるが、表題に記した通り私には 「孤独を貫いても守りたい事がある」 ことは事実だ。 とにかく安易に他者には迎合したくない私である。  今後年齢を重ねるにつれ、私のような“強情張り”の人間はこの世に生き辛いであろうことも想像がついている。   
“孤高”とまで言える境地には決して到達しないであろうが、今のところはとりあえず自分自身の信念を貫きながら一種の 「孤独」 を肯定しつつ我が人生を歩み続けたいと欲している。

 (以上、「孤独を貫いても守りたい事がある」より、一部を引用したもの。)

 

 そもそもこの私は、人間関係続行に関し執着があまりない方だと自己分析する。  その最たるものが、恋愛関係だ。  バックナンバーでも再三述べているが、恋人との別れの決断は早い人間だ。 「別れの予感」がし始めたら即刻こちらから「別れ話」を持ち出す女だったかもしれない。

 一旦私論だが、恋愛関係の終焉も「人間関係の斬り捨て劇」に他ならないだろう。 が、どんな別れも後で思い出せばドラマチックで美しくすらある。  それに対し……  親族等身内の「斬り捨て」とは難儀なものだ。  いや、父に関してはその感覚がさほど強くはなかったようだ。 「自分は誰の世話にもならない!」との生前の宣言通り、60代の若さで急性心筋梗塞発作による突然死で忽然とこの世を去っている。  片や、母の私への依存度は一体どうしたことかと嘆かわしくなる。 とは言え、結果として母も父亡き後20年間程郷里での一人暮らしを全うし、一昨年高齢者自立支援施設へ入居してくれたのだから、文句を言える筋合いはない。

 冒頭の話題に戻るが。  昨夜斬り捨てた(終焉した)相手は、決して実母ではない。 そうではなく、まったく赤の他人だ。  いやはや赤の他人との人間関係とは、いつでも“斬り捨てられる”という意味で簡単なものだとやけに納得させられる。

 (以上、「人間関係を斬り捨て、また斬り捨てる我が人生」より引用したもの。)


 最後に、今現在(2019.10.22)の我が私見に入るが。

 一番上の「他者への依存……」内に綴った、イタリアにての事例だが。 これ、今思い出しても腹立たしさを煽られる!  この時のシチュエーションとは、我々母娘でイタリア個人旅行をした際に、フィレンチェからピザへ行く際のみオプショナルに頼った。 事前の触れ込みでは、2名から4名程で小型バンにての移動、同乗者は日本人とは限らないとの事だった。 結果としては、我々二人と、日系米国女性(航空便のキャビンアテンダントでフリータイムにピザへ行きたく利用したと本人が英語で語ってくれた。参考だが日本語はカタコトだった。)そして、問題の78歳女性(日本から団体ツアーでイタリアへ来て、半日フリータイム時に参加したらしい。)  このシチュエーションに於いて、どうしても78歳女性の話相手が私に限定されよう。 バンに乗車した際より悪い予感がしていたのだが、案の定、私を掴まえて日本での私事を語り倒してくれたとのいきさつだ。 実際こんな迷惑はなかったものだ。 こちらとしてはピサの行き帰りの車窓こそを楽しみたいのに、コイツのお陰で台無しだった。 ピサではどうしてもコイツから離れたくて、敢えてピサの斜塔を見学しない方針にせねばならなかったり…  その代わりに大聖堂と鐘塔の内部をじっくり見学出来たのが返って良かったのだが。  あの78歳女性には、私の邪魔をしたとの反省の姿がまったく見られなかった…    あれから4年足らずの年月が流れているが、あの女性は今尚海外ツアーに出ては、周囲の見知らぬ日本女性をひっ捕まえて“どうでもよい”身の上話を語っては自己満足しているのだろうか…  そんな年寄りには何が何でもなりたくないものだ。 

 2本目に綴った「孤独を貫いても…」を今読み返しても。 まさにその通り! と我が過去の持論に同感だ。 「孤独」とは誰しもに襲い掛かる観念である事だろう。 それを如何に乗り越えつつ自己実現していくか。  今後共、その実力を試す人生を歩んで行きたいものだ。

 3本目の「人間関係を斬り捨て、また斬り捨て…」だが。 いや実際、ここでこの人間関係を斬り捨てねば明日の自分の未来が開けない!なる場に直面し続けるのが人間の人生ではなかろうか?  要するに、その“斬り捨て方”こそに力量が問われるとも考察する。

 実はここのところ、人間関係のギクシャク感に悩まされていた原左都子だが。 

 本日のエッセイを綴った事により、自分が選択するべき方向性が少し見えて来た気がする!           


女一人で気軽に飲める店が好き

2019年10月20日 | 

 (写真は、一昨日映画を見に行った帰り道に立ち寄ったレストランにて撮影したもの。)

 

 私は底なし飲兵衛だ。

 いやさすがに年齢をここまで重ねた現在に於いては、一応健康に配慮しつつ控えめの飲酒行動となるものの。  それでも控えめとは言えどもおそらく、世間一般の方々の想像をはるかに超えた酒量を受付可能な我が身体だ。 ただ、酒を飲んだあくる日に突如重要用件が飛び込んで来たとしても、必ずやそれに応えられる余力がある程の、酒に対する免疫力を今尚誇っている我が身でもある。  

 さて一昨日は映画を見る前より、帰り道の“ひとり酒”こそを楽しみにしていた。

 我が 現在の “ひとり酒”のモットーとは。 良き席に恵まれ、周囲に邪魔されずにマイペースで酒を堪能することにある。  いえいえ、若かりし頃はまったく違ったものだ。 まず一人で飲みに行くという機会がほぼ無かった。 たとえ途中からそういうシチュエーションになったとしても、周囲が放っておいてくれない???  お店のマスターやら周囲の客たちが積極的に話しかけて来て、結局それらの人達と一緒に飲む展開になったものだ。

 現在はすっかり時代が変わった。 それをすると“セクハラ”だの“アルハラ”だのと騒がれる物騒な時代だ。 皆が皆護身に必死となるのもやむを得ない時代背景と言えよう。

 そんな時代に“ひとり酒”を堪能するには、上述のごとく、良き席に恵まれ周囲に邪魔されずに“私なりの”適量の酒を美味しい料理と共に楽しむに限る。 

 現在の私が“ひとり酒”をする機会とは、一昨日のごとく自分の誕生日に映画に出かけた際や、義母の保証人としての任務で義母が暮らす介護施設へ出かけた帰り道等々だ。 これらの機会には“大手を振って”ひとり酒を堪能出来る我が家の慣習となっている。

 その際に、気軽に“一人酒”をする店を私なりに見つけていて、定例ならばその店を訪れるのがいつもの習慣にもなっている。 

 ところが一昨日、映画館近くのその定例の店へ立ち寄ってみると。 な、何と、金曜夜にして閉店しているではないか!  (これ、おそらく潰れたなあ…) と残念に思いつつも、(そう言えばいつも空いていたし…、それが私にとっては好都合だったのに…  おそらく経営難だったのだろう… 日本酒とてんぷらが実に美味しい店だったのに残念無念!) 

 こうなったらしょうがない。 自宅近くまで戻って一人か娘と二人でよく立ち寄る“あの店”で晩餐をしよう。

 との事で行ったのが、冒頭写真のイタリアン店舗だ。 (おそらく冒頭写真を一見しただけで、この店が何処だが分かる日本人が5割存在すると想像する。)

 この店、最近「全席禁煙制」を採用したのが私にとては大いに功を奏した!  それまでの「禁煙席」とはどうやら家族連れが多く、小さい子供達がはしゃぐそばで酒を飲む事がはばかられたものだ。  一昨日案内された席は若者達が多いスペースだったのだが、一人席の孤立性もある程度確保されていて、私は十分に美味しい酒を堪能出来た。

 エスカルゴが好物の私にとって、それがいつも提供されているのも魅力的だ。 (参考だがこの店舗のエスカルゴは、フランス料理店等と比較して格段に安価!な割にはそこそこお味もいけてますよ~~。)

 

 と言う訳で今回は久々の「酒」カテゴリーに於いて、「女一人で気軽に飲める店」の一店舗を紹介させて頂いた。 

 実際問題、今となっては「酒」飲む際に “カッコつける”だの “いい男を探す”だのとの事象とは遠く過ぎ去りし郷愁である事実を思い知ってしまっている感覚、とのことか……