昨日の「原左都子エッセイ集」“popuar entries top 10”に、偶然時を同じくして同一趣旨の人間関係エッセイバックナンバー3本がランクインしていた。
そのバックナンバーとは、2017.03.20公開の「他者への依存心が老化を加速させる」、2011.11.28公開 「孤独を貫いても守りたい事がある」、2018.11.28公開「人間関係を斬り捨て、また斬り捨てる我が人生」 以上の3本である。
上位3本のバックナンバーの一部ずつを、以下に引用しよう。
ここ数年、何処へ行っても(身内高齢者を含め)お年寄り達と縁がある私だが、彼ら(彼女ら)ご高齢者の皆さんを観察したり会合したりする日々の中、思う事がある。
先だって公園で行きずりの92歳のご婦人と出会い、一緒に一時ダンスを踊り立ち話をした話題をエッセイに綴った。
この公園でダンスを一緒に踊った92歳のご婦人を “Aさん” としよう。 このAさん、元々明るく人見知りをしないタイプのようだ。 おそらく、日々散歩中に出会った人達との会話を楽しんでおられる事だろう。 加えて、私がAさんに感心させられた一番の理由は、お亡くなりになったご亭主の話題に一切触れなかった事だ。 私が察するに、ご亭主が亡くなってからさほどの年月が経過していないと推測出来るにもかかわらず…。
これに比し、例えば昨年のイタリア個人旅行中に出会った日本人団体旅行客の女性高齢者(78歳との事だったが)など、イタリアでの我々母娘との一期一会の出会い中に、亡くなったご亭主の介護の様子を事細かく話されるのだ。
海外旅行にまで出て、何故異国のこの地で出会った見知らぬ他人にご自身のご亭主の話題を中心に設定するのか??、と聞いてあげながら辟易とさせられたものだ。 おそらく同国人ならばご自身の辛さを理解してもらえると期待し、心の内を打ち明けたのだろう。
この78歳のご婦人は、「主人が亡くなった今、私にとって旅行こそが楽しみ!」 とおっしゃるのだが。 そうであるならば尚更、亡くなったご亭主の介護の辛さを旅先で行きずりの人に聞いてもらうとの手段を取るご自身の心理状態こそに決着を付けない内は、その辛さからいつまでも解放されないのではなかろうか??、と無情にも感じざるを得なかった……。
92歳のAさんだが。 男性の平均寿命を鑑みると、ご亭主はあらかじめ予想可能なご年齢にての他界だったのかと推測可能だ。 それ故に、ご自身が92歳に至ってあれ程にお元気で、今現在も公園内を散歩しつつ私にまでお声を掛けて下さったのかと嬉しく思う。
現在、高齢者有料介護施設へ入居中の我が身内高齢者2名(義母及び実母)の保証人を任されている関係で、必然的に普段より高齢者に関心が向くのは現在の我が宿命であるとして。 そのお陰の長所として、私は世間で知り合う高齢者の皆様に対し“興味が持てるようになった”と自己分析するのだ。
ただ、この世の誰が高齢者に興味を持つんだ!? というのが世間一般の本音ではなかろうか。
高齢者対策と政権をはじめ各種公的機関が大騒ぎしている割には、特に核家族の若い世代程、そんなの他人事と考え無関心でいる事に間違いないだろう。 下手をすると、身内高齢者より如何に高額年金を巻き上げるか?? にまで若い世代家族内での魂胆が及んでは、刑事事件にまで発展しそうだ。 高齢者にとっては、身内に身を斬られそうな今の厳しい世の中である事に間違いないだろう。
そんな逆境の下、高齢者自身こそが老齢初期段階から身内をはじめとする他者に依存することなく、いつまでも主体性を持ち自力で生き抜くことこそが身を助けるものと、私は信じるのだが…
(以上、「他者への依存心が老化を加速させる」より一部を引用したもの。)
原左都子自身は 「孤独」 という言葉とはさほど縁の無い人生を送っているのかもしれない。
長い独身一人暮らし時代を歩んで来た私だが、何分その頃は超多忙な日々を送っていたため「孤独」と向き合う時間すら取れなかった故であろう。 当時さしあたって結婚願望のなかった私は、このまま大都会の喧騒の中で今後も一人身で生きていかねばならない現実だった。 当時とりあえず周辺には近しい恋人や複数の友人や職場の同僚等々、日常的にかかわっていく相手がいるにはいたのだが、日々流れ行く浮世の中で人間関係とははかなく移り変わるのがこの世の常という事も承知していた。 いつか私の周辺に、私と係わりを持つ人間が一人としていなくなる日が訪れても何ら不思議ではない。 その時、私はその孤独に耐えられるのだろうか??? 郷里よりの飛行機の中で突然襲われたこの “来たるべく孤独想定恐怖感” は私にとっては結構切実だったものだ。 ところが当時はやはりまだまだ若気の至りだった事に救われたものである。 帰省した翌日から、またもや我が身には多忙な日々が押し寄せてくる。 “孤独想定恐怖感”など何処かに吹っ飛んでしまったようで、その後の我が心理状態の記憶はない。
「孤独」がテーマだったのに、話が“集団嫌い”の原左都子の持論に偏向してしまった。
朝日新聞夕刊“こころ”「生きるレッスン」を担当しておられる3名の有識者の皆さんも、どうやら人間の「孤独」を肯定しておられるようだ。 今回の朝日新聞記事である「孤独を楽しむ」とのテーマの回答執筆者であられる3氏の題目のみ、以下に紹介することにしよう。
創作家の明川哲也氏 「ものが見え聞こえる時」、 哲学者の森岡正博氏 「世の美しさ感じられる」、 作家のあさのあつこ氏 「自分と向き合う時間に」。 当該3氏も訴えておられるが、人間がこの世に生きていくに当たって 「孤独」 とは避けて通れない命題であると同時に、その経験を通じて人間性を磨くチャンスでもあると原左都子も捉えている。
まだまだ今後の人生が末永く続く私であるが、表題に記した通り私には 「孤独を貫いても守りたい事がある」 ことは事実だ。 とにかく安易に他者には迎合したくない私である。 今後年齢を重ねるにつれ、私のような“強情張り”の人間はこの世に生き辛いであろうことも想像がついている。 “孤高”とまで言える境地には決して到達しないであろうが、今のところはとりあえず自分自身の信念を貫きながら一種の 「孤独」 を肯定しつつ我が人生を歩み続けたいと欲している。
(以上、「孤独を貫いても守りたい事がある」より、一部を引用したもの。)
そもそもこの私は、人間関係続行に関し執着があまりない方だと自己分析する。 その最たるものが、恋愛関係だ。 バックナンバーでも再三述べているが、恋人との別れの決断は早い人間だ。 「別れの予感」がし始めたら即刻こちらから「別れ話」を持ち出す女だったかもしれない。
一旦私論だが、恋愛関係の終焉も「人間関係の斬り捨て劇」に他ならないだろう。 が、どんな別れも後で思い出せばドラマチックで美しくすらある。 それに対し…… 親族等身内の「斬り捨て」とは難儀なものだ。 いや、父に関してはその感覚がさほど強くはなかったようだ。 「自分は誰の世話にもならない!」との生前の宣言通り、60代の若さで急性心筋梗塞発作による突然死で忽然とこの世を去っている。 片や、母の私への依存度は一体どうしたことかと嘆かわしくなる。 とは言え、結果として母も父亡き後20年間程郷里での一人暮らしを全うし、一昨年高齢者自立支援施設へ入居してくれたのだから、文句を言える筋合いはない。
冒頭の話題に戻るが。 昨夜斬り捨てた(終焉した)相手は、決して実母ではない。 そうではなく、まったく赤の他人だ。 いやはや赤の他人との人間関係とは、いつでも“斬り捨てられる”という意味で簡単なものだとやけに納得させられる。
(以上、「人間関係を斬り捨て、また斬り捨てる我が人生」より引用したもの。)
最後に、今現在(2019.10.22)の我が私見に入るが。
一番上の「他者への依存……」内に綴った、イタリアにての事例だが。 これ、今思い出しても腹立たしさを煽られる! この時のシチュエーションとは、我々母娘でイタリア個人旅行をした際に、フィレンチェからピザへ行く際のみオプショナルに頼った。 事前の触れ込みでは、2名から4名程で小型バンにての移動、同乗者は日本人とは限らないとの事だった。 結果としては、我々二人と、日系米国女性(航空便のキャビンアテンダントでフリータイムにピザへ行きたく利用したと本人が英語で語ってくれた。参考だが日本語はカタコトだった。)そして、問題の78歳女性(日本から団体ツアーでイタリアへ来て、半日フリータイム時に参加したらしい。) このシチュエーションに於いて、どうしても78歳女性の話相手が私に限定されよう。 バンに乗車した際より悪い予感がしていたのだが、案の定、私を掴まえて日本での私事を語り倒してくれたとのいきさつだ。 実際こんな迷惑はなかったものだ。 こちらとしてはピサの行き帰りの車窓こそを楽しみたいのに、コイツのお陰で台無しだった。 ピサではどうしてもコイツから離れたくて、敢えてピサの斜塔を見学しない方針にせねばならなかったり… その代わりに大聖堂と鐘塔の内部をじっくり見学出来たのが返って良かったのだが。 あの78歳女性には、私の邪魔をしたとの反省の姿がまったく見られなかった… あれから4年足らずの年月が流れているが、あの女性は今尚海外ツアーに出ては、周囲の見知らぬ日本女性をひっ捕まえて“どうでもよい”身の上話を語っては自己満足しているのだろうか… そんな年寄りには何が何でもなりたくないものだ。
2本目に綴った「孤独を貫いても…」を今読み返しても。 まさにその通り! と我が過去の持論に同感だ。 「孤独」とは誰しもに襲い掛かる観念である事だろう。 それを如何に乗り越えつつ自己実現していくか。 今後共、その実力を試す人生を歩んで行きたいものだ。
3本目の「人間関係を斬り捨て、また斬り捨て…」だが。 いや実際、ここでこの人間関係を斬り捨てねば明日の自分の未来が開けない!なる場に直面し続けるのが人間の人生ではなかろうか? 要するに、その“斬り捨て方”こそに力量が問われるとも考察する。
実はここのところ、人間関係のギクシャク感に悩まされていた原左都子だが。
本日のエッセイを綴った事により、自分が選択するべき方向性が少し見えて来た気がする!