原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「悪」 の輪廻(りんね)

2012年09月13日 | 時事論評
 冒頭から不満をぶちまけると、近年観賞した映画の中でこれ程がっかりさせられた作品も珍しい。

 その映画とは、 米国制作 2012年夏公開の 「プロメテウス」 である。


 昨日、映画館“水曜レディースデイ”(女性が割安料金で映画を鑑賞できる日)を有効利用して、私は大学生の娘と共にこの夏2度目の映画を観に行った。
 今春大学に入学し1年生前期を終えた我が娘であるが、もしも授業単位を一つでも落としていたならば、9月の今の時期は再試等でこんな悠長な事をしている場合ではない運命にあった。 幸運な事に娘がすべての単位をクリアしてくれたお陰で、(我が子の「お抱え家庭教師」である)私の夏休みもそれに追随して長引いている。 娘の頑張り力の恩恵により、9月中旬に入って尚厳しい残暑が続く日々を パッパラパー とエンジョイしている原左都子という訳だ。


 実は、我々親子が再び映画館を訪れたい理由は他にもあった。
 8月中旬頃 「おおかみこどもの雨と雪」 を観賞するため映画館を訪れた際、映画館内で “ある特異的なもの” を発見していた我が親子である。
 その“特異的なもの”とは、 「巨大ポップコーン」である!

 いえいえ、私はそもそもクラシックバレエやオーケストラ等音楽の舞台観賞趣味があるため、研ぎ澄まされた芸術表現の場であるその種の会場内で“飲食をする”という事態に対して大いなる抵抗感を抱く部類の人間だ。
 ただ、「映画」とは上記芸術分野の舞台に比して“娯楽”志向が強いと解釈している。 肩肘張らない解放志向であらゆる市民に観賞して欲しいとのメッセージを込めて制作されているような感覚が、確かに映画という表現主体に溢れ出ていると感じる。

 「映画」という表現主体に於ける“バリバリ芸術との差別化”の一手段としての最たるものが、昔から何処の映画館でも販売されている「ポップコーン」や「コーラ」なのではあるまいか?
 実は我が娘も、前回映画館を訪れた際に見た 「巨大ポップコーン」 に大いなる関心があったとのことだ。 (早く言えよな~~。若年層が欲しいと言えば私もそれに便乗し易かったのに…)
 早速あの“2ℓバケツ程の大きさ”の「巨大ポップコーン」に関してネット検索で調査したところ、我々親子が常時利用している映画館に於いて現在も特価販売中とのことだ。

 「よし! あの2ℓ巨大ポップコーンを絶対ゲットするぞ!」 との邪道パワーで再び映画館を訪れて我々親子が観賞したのが、 「プロメテウス」 だったとのいきさつである…


 ここでやっと映画「プロメテウス」本筋に話題を戻すが、まずは当映画の日本版に於けるキャッチコピーを以下に紹介しよう。

 「人類はどこから来たのか?」人類が長年にわたって追い続ける、人類史上もっとも深遠でかつ根源的な謎。 2089年、地球上の古代遺跡からその答えを導き出す重大なヒントを発見した科学者チームは、宇宙船プロメテウス号に乗り込んである惑星へと向かう。 2093年、惑星にたどり着いた彼らは、人類のあらゆる文明や常識を完全に覆す世界を目の当たりにすることに。 人類誕生の真実を知ろうと調査に没頭する中、思いもよらない事態が起きる。
 (以上、ネット上の「プロメテウス」関連情報より引用)

 原左都子がこの映画を鑑賞する前に他のネット情報を検索しても、「プロメテウス」とは、現在基礎医学分野で発展を遂げているDNA分析を基盤にその観点から人類創造の歴史を問う事はもちろんのこと、天文学、地史学、文化人類学等々の最先端学問技術を導入駆使して製作された映画なのかと大いなる期待をしていたのだ。
 ところが、私が昨日観賞した「プロメテウス」とは、ただ単にCGを前面に打ち出したSF映画に他ならなかった。

 本日遅ればせながらネット情報を再び検索してみると、「プロメテウス」を観賞した市民によるマイナス見解が数多く存在する実態だ。
 その一部を以下に端折って紹介しよう。
 プロメテウス 結局何を伝えたいのか、わからなかったです。 ストーリーは一見斬新かと思いきや何処かで見たような感じだし……
 プロメテウス これ、日本版のキャッチコピー作った人が悪いです。 人類の起源がなんたらってヤツ。 そりゃあ、勘違いしてワクワクしながら見に行く人続出しますよ。
 (以上、ネット情報より引用)

 原左都子などまさに、上記のネット書き込み者が言うところの、日本語版キャッチコピーに触発されてワクワクとこの映画を鑑賞しに行った部類だ。


 この映画は“SF CGスペクタクル”ものとして、過去に「エイリアン」を成功させた米国リドリー・スコット監督が必ずやヒットすると狙い(?)制作した超大作なのかもしれない。 それが証拠に巨額な制作費をかけたことだけは、影像を見れば即理解可能である。
 ただ、「エイリアン」が流行った過去の世界経済成長期の文化を模倣したところで、今時“二匹目のどじょう”を狙える時代背景ではないことは歴然であろう。
 
 実は私自身はこの映画の途中 「CGスペクタクル影像」が多用され過ぎる場面の連発に辟易としつつ、反吐が出そうな症状すら出現しそうになった。 一旦トイレに行って吐いてくるべきかと本気で迷いながら隣席の我が娘を観察すると、何と普通に画面を見ているではないか!?! 
 後で娘に確認したところ、「私が通った小中高で、先生が自分の授業をエスケイプするためにこんなCG映画を教室のテレビでよく生徒に見せてたよ。 だから私は結構慣れてるけど…」とのことだ…
 いやはやあっと驚くと同時に、現世代の子ども達が「CGスペクタクル影像」を公教育教室内で慣れ過ぎる程見せられている実情にも呆れ果てる私である…

 それにしても、私が「プロメテウス」に期待していた (例えそれがフィクションであれども) 人類の歴史や今後の未来像をDNAレベルで解明するべく医学分野での思いがけない新説や、新星への冒険に於ける地質学的新発見さらには文化人類学的考察の程が、何一つとして描けていない映画造りに心底落胆させられた。


 ただ唯一この映画が描きたかったテーマを、最後の場面であくまでも無宗教の私なりに無理やりではあるが理解できた気がする。

 そのテーマとは 「悪の輪廻(りんね)」 だったのではなかろうか?

 人類とは「悪の輪廻」をもたらすためにこの世に出現し、闘いと破壊を志向しつつ生命を終え行くのだと、私はこの映画を観て今一度理解できた思いだ。
 領有権問題にしろ、一国家内で繰り広げられる愚かな政権争いにしろ、まさに人類とは「悪の輪廻」を人類絶滅まで貫き通さんがためにこの世であえて敵を作り、闘い続けることを唯一の楽しみとして生を営んでいる事実を実感させられる。

 最後に参考のため、映画館で娘と共に食した「巨大ポップコーン」だけは美味しかった事に、愚かな人類の末端部に位置する一人の人間として、今の時代を生きているほんの少しの幸せを有難く思う次第である…
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