原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

ワクチン接種をあおらないで

2009年10月19日 | 医学・医療・介護
 本日(10月19日)、いよいよ国内での新型インフルエンザのワクチン接種が開始された。

 新型インフルエンザワクチンの接種は、本日開始した医療従事者対象接種を皮切りに、11月には妊婦や慢性呼吸器疾患などの基礎疾患のある人、そして幼児、小学校低学年の児童の接種は12月後半、その後中高生、高齢者などは年明けの接種というように、優先順位に従って順次実施される予定となっている。

 
 本ブログの8月28日付のバックナンバー記事「ワクチンの有効性と安全性の公表を」において、新型インフルエンザワクチンの接種を国民に実施するに先立ち、その有効性と安全性の医学的検証結果を公表することこそが先決問題である旨の私論を述べた。
 その後、国内外でワクチンの有効性及び安全性の医学的検証が進み、マスメディアを通じて徐々に公表されるに至っている。


 新型インフルエンザワクチンは、既に国産、輸入を合わせて7000万人分以上が国内に確保されているという報道であるが、国民の「任意接種」と位置付けられている新型インフルワクチン接種に関しては、医学専門家の間でもその接種の選択にあたり慎重を期するべきか否かの意見が分かれているようだ。

 朝日新聞10月10日付“私の視点”に「新型インフルワクチン接種は慎重期して」との“接種慎重派”からの意見が取り上げられたのに対して、10月17日の“私の視点”にはそれに対する異議として「不安あおらず冷静な選択を」との“接種促進派”の医学専門家の意見が掲載された。
 (残念ながら上記前者の“接種慎重派”の記事が手元にないため、17日付の“接種促進派”の反論意見のみを以下に紹介しよう。)

 疫学者から見れば、過去において有効性が有意に低い麻疹ワクチンが一部で製造された事実や、安全性の低い(事故率の高い)MMRワクチンの接種が行われた事実は否定できない。 インフルエンザワクチンに関しては有効性(社会的予防効果)がないとされるのは小児への集団接種においてであり、高齢者への接種に関しては予防効果がないと断定できない。インフルエンザワクチンとて重症化予防については、効果があるという意見が主流だ。初期のインフルエンザウィルス増殖を抑制することで、集団について脳炎や肺炎の発症の確率を減じることは否定できない。これは新型インフルに関しても同様にあてはまる。いたずらにワクチン副作用を強調するのは、社会防衛の立場から賛成できない。すべての医療行為は「問題ない」とは言い切れないことは事実であるが、ワクチン国家検定の基準は重大事故の確率が30万分の1だということを知った上で、予防接種の選択を行って欲しい。
 輸入ワクチンについて、アジュバント(免疫反応増強のための添加物)による副作用は不明だが、主成分が細胞培養由来である分、安全性は高いと考えられる。 ワクチン接種を望まないという選択肢が残されている以上、予防を望む人々の判断を誤らせてはいけない。
 (以上、朝日新聞10月17日“私の視点”への医学専門家の投稿より抜粋引用)


 私論を述べる前に公表しておくが、(当ブログの古くからの読者の方々は既にご承知の通り)病院受診、投薬、各種医学検査等々、医療行為全般に関してその享受を慎重に対応している私は、医療行為の一つである「ワクチン接種」に関しても当然ながら“慎重派”である。 すなわち、出来ることならば接種を避けて通りたい人種である。
 今回は、上記“接種促進派”の医学専門家が主張されるところの「接種を望む人々の判断を誤らせてはいけない」との観点に“接種慎重派”の人間の一人としてそのご意見にのっとりつつ、その考えの背景等の多様性も鑑みた上で私論を述べさせていただきたく考える。

 上記朝日新聞10月17日の“私の視点”への医学専門家の投稿は、ワクチンの有効性と安全性に関する専門家からの意見としてよくまとまっていて大いに参考になる。 これを参考にさせていただきつつ以下に私論を展開しよう。

 ワクチン接種に当たって、まずは確率計算から始めるべきであろう。(極端な話が)新型インフルエンザに感染して死ぬ確率と、ワクチン接種して死ぬ確率をとりあえず比較してみるのが一つの指標としてわかりやすいと思うのだが、いかがであろうか。
 ワクチン接種の国家検定基準の重大事故の発生確率が30万分の1であるということは、今回の新型インフルの場合国民のうち(現在国内に確保されているワクチン数と等しい)7000万人が接種したとして、死ぬ事と同等レベルの重大事故に遭うと予想される実数は単純計算で最大約230人。 片や、現在までのところの新型インフル感染による国内の死者は10月17日時点で27名。これに関しては、今後の感染拡大によりさらに増加する可能性も高い。
 
 元医学関係者である私として気がかりなのは、投稿者が指摘しているアジュバント(免疫反応増強のための添加物)による副作用である。 今回の新型インフルワクチンの場合、冬季の感染拡大を目前にして国がその接種を焦っているとも見受けられるのだが、7000万人規模程の大がかりな一般国民対象のワクチン接種が既に開始された今現在、アジュバントに至るまでの臨床実験は恐らく未実施を貫くのであろう現状を大いに懸念する私でもある。

 実際問題、国内における7000万人もの大規模一斉ワクチン接種は今回が初めての試みなのではなかろうか??
 新型ワクチンの“有効性”がおぼつかないことが後々判明したとしてもまだしも許せるが、“安全性”においては、その予期せぬ犠牲が最小限に済むことを祈るばかりである。
 

 大袈裟に表現すれば、(今回の新型インフルに限らず)ワクチンとはその接種において個人の「死生観」もからむ選択肢であると私は捉えるのだ。
 自分が生きた時代に偶然蔓延した“流行り病(はやりやまい)”で死にゆくことと、それに対する人為的なワクチン接種で命を絶たれることとを天秤にかけると、どっちの死に方が重いのか…、 話が飛躍し過ぎで馬鹿馬鹿しいと思われる方もいるであろうが、そんな選択を迫られているようにも感じる今回の“大規模ワクチン接種”の騒動である。

 少なくともその種の選択を迫られて尚、自分なりの“美学”を我が人生において一貫して持ち合わせていたい原左都子である。
(参考のため、私自身は今回の新型インフルワクチン接種は希望ぜずして、あくまでも自然体で強く生き延びる予定でおります。 皆さんはくれぐれも真似をされず、ご自身でよく吟味した上で接種の是非を判断されますように…)
      
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愚痴と自慢話は軽く聞き捨てよう

2009年10月17日 | 人間関係
 確かに、人から一方的に聞かされる“愚痴”と“自慢話”ほど鬱陶しいものはない。 
 
 先週10月10日(土)付朝日新聞別刷「be」の“悩みのるつぼ”の相談は、30代主婦による「義父母の同じ自慢話にうんざり」だった。
 以下に、その相談内容を簡単にまとめて紹介しよう。
 義父母に会う度に毎回、義父の仕事の実績、長男(自分の夫)を私立の幼稚園へ入れたこと、大学受験で高校から唯一長男だけが国立大に合格したこと、次男はスポーツの才能があり推薦入学を誘われたこと、等々… 書き出したらきりがないほど同じ自慢話を繰り返し聞かされる。 夫も横で黙って聞いている。 嫁である私に「うちの家はすごいんだぞ!」と念を押したいのだろうか。ちっぽけな自慢話がプライドを保つ方法なのだろうか。 先日の夫の実家からの帰り道で「もう耐えられない」と涙が溢れた。勇気を出して「その話、20回目ですよ」と言っていいのか。それともそれを聞くのが嫁の役割なのか。
 (以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”相談より引用)


 おそらく、世の奥様方は大なり小なりこの主婦と同様の経験があることであろう。

 相談者の30代主婦の気持ちは理解できるが、何もそんな、涙を流してまで悩む事柄でもなかろうに…、と思ってしまうのが、世の奥様方と例外なく同様の経験がある私のとりあえずの感想である。

 
 ここで私事を語ると、私の場合見合結婚なのだが、長年独身を通して自立心たくましく自己を確固と確立していた私を義母が直感で気に入ってくれて成婚に至ったとも言える程、義母からの信頼が厚い私である。そのお陰で、結婚以来ずっと義父母(義父は既に他界)には私の意向を尊重してもらいつつ大事にされ続けている“恵まれた嫁”の私なのだ。 
 そんな義母が結婚当初、出産のために仕事を退職した私を「子どもが生まれたら子育てで身動きがとれなくなるから、今のうちに美味しいものでも食べましょう」と言って、昼間ランチやお茶によく誘い出してくれたのだ。
 その飲食の席で二人でいろいろと語り合ったのだが、その中でこの相談者が書いているような義母からの“自慢話”の類の会話もあるにはあった。 我が家の場合、亭主が自分のプライベートを語ることに一切興味のない人間であるため、その時の義母からの「家」や亭主の歩んだいきさつ等の話は、私にとって亭主の育った背景を知るに当たって大いに参考になったものだ。 そして話が決して義母からの一方向ではなく、私の方からも同じように自分の生育背景等についても語り、義母が熱心に耳を傾けてくれたものである。
 (その後年月が流れて義父が痴呆症気味になって以降、日々介護に苦しむ義母の“愚痴”の聞き役は快く引き受けた私でもあるのだが。)


 “悩みのるつぼ”の今回の回答者は作家の車谷長吉氏であるのだが、その回答内容から私が同感できる部分を抽出して以下に紹介しよう。
 世の中には自慢話の好きな人がいるが、ある意味では幸福な人種だ。 自慢話と愚痴・小言・泣き言、どちらも聞かされる側は苦痛に変わりないが、まだしも自慢話の方が少し聞きよいように思う。 ただ、世の中の半分以上は自慢話の好きな人種である。もし相談者が義父母の自慢話に耐えられないのなら、耐えられないとはっきり言えばいい。 その結果、重大なことが起きれば、その責任を相談者が取ればいい。嫌なことに耐えるよりずっと気持ちが楽になるはず。 人間世界には楽な道はない。


 最後に私論に戻るが、義父母と“嫁”との関係においても「信頼」がその基本に位置付けられることは明白である。
 現在の核家族化社会において、義父母と同居している“嫁”は少数派であると推測するが、たとえ別住まいであろうと“嫁”の立場で亭主の実家とのある程度の信頼関係を築いておいた方が、生涯に渡って様々な意味合いで得策かと私は捉えるのだが…。
 この相談女性の場合、1年に2度程度の亭主の実家訪問であるらしいのだ。 それ程の少ない頻度ならば頭ごなしに義父母の“自慢話”を拒否するのではなく、その話に乗るふりをして“嫁”である自分側の自慢話も披露できる程の会話力を身に付けられたならば、相談者の視界も移り変わっていくであろうに、とも考察できる。 「ちっぽけな自慢話がプライドを保つ方法なのだろうか」などと、義父母よりも人生経験の少ない相談者の方こそが“ちっぽけ”な被害妄想の発想に囚われていないで、義父母の自慢話を少しはうまくかわせる力量も身に付けたらいかがなものか、とも思ってしまう。

 それがまだ不可能であっても、とにかく鬱陶しいだけの人の“愚痴”と“自慢話”などに涙をこぼしていないで、軽めに受け流して聞き捨てましょうよ。
      
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日本に「ハブ空港」が必要か?

2009年10月14日 | 時事論評
 国民が一読一見して理解しにくい“新カタカナ混在語”を政府が率先して公然と使用して日本語を乱し続けることはもう勘弁して欲しい、とまず思ったのがこのニュースを見聞した私の第一印象である。

 先日から話題になっている「ハブ空港」であるが、皆さんはこの言葉の正確な意味をご存知であろうか。
 参考のためにここで解説すると、「自転車の車輪の軸(ハブ)からタイヤに向かってスポークが延びるように、世界各地への航路と、周辺地域への路線の中継地点となるような空港のこと。 発着が盛んになるため着陸料の増収が期待できたり、周辺での物流産業の活発化や国際会議などの招致にもつながり、地域や国の経済活動にプラスに働くとされる。」とのことである。(以上、朝日新聞記事より引用)
 ならば「国際拠点空港」とでも和訳すれば済むし、その方が国民にわかりやすいのではないのか?


 八ッ場ダム問題に引き続き、今度は「ハブ空港」問題でまたもや地方自治体の反発を煽って物議を醸しているのは、新政権の国土交通大臣であられる前原氏である。
 前原氏は昨日(10月13日)の閣議後の会見において、羽田空港を24時間使える国際的なハブ空港にしていく方針を明らかにした。 今まで国際線は成田空港、国内線は羽田空港を中心にしてきた「内際分離」の原則を転換し、来年10月の羽田拡張を機に、アジアの有力空港と競争できる体制づくりを目指すとのことである。(朝日新聞13日夕刊トップ記事より引用)

 (引き続き朝日新聞同記事よりの引用であるが)前原氏は、韓国の仁川空港に日本のハブ空港の機能を取られてしまっていることを問題視した上で、「日本にハブ空港を作らなくてはならない。ハブになり得るのは、まず羽田だ」として、「羽田の24時間国際空港化を目指して行きたい」と会見で述べた。
 羽田は成田よりも都心に近く、ビジネス客を中心に内外からの利用増を見込める。ただ、成田には激しい建設闘争を押し切って開港した経緯もあり、今まで国交省は羽田の国際化に慎重な姿勢をとってきている。 これに対して前原氏は「成田から羽田に便を移すものではなく成田も使っていくし、大阪の3空港に関しても羽田のハブ化の筋道をつけた後で、その役割分担も含めて検討する」としている。
 これに対して、大阪の橋下知事は「関空がハブ空港でなければ府としてお金をつぎこむ必要はないため、府民の生活に金を振り向ける」と表明している。
 一方で、成田市長はじめ成田地元市民の間では「地元の意見を聞かずに決めるのは八ッ場ダムと同じ構図だ」との困惑が広がっている。成田空港は今月下旬、延伸されたB滑走路の供用がやっと始まり、国際空港らしい体裁が整ったその矢先に冷水を浴びせられた形だ。 長く激しい空港建設闘争による地域分断の苦しみを味わいつつ、苦渋の決断として空港建設を受け入れてきた歴史を考慮していない、とする成田空港対策協議会の批判もある。(以上、朝日新聞記事より要約引用)


 今日昼間のNHKニュースを見聞していると、「ハブ空港」に関する短時間の報道の中に、前原氏の「千葉県の森田知事は勘違いしている。私は何も成田空港を潰すとは言っておらず羽田と共存させるつもりだ」云々とのコメントがあった。 このコメントは一般市民である私が見聞しても、千葉県知事である森田氏を“バカ”と侮ったように受け取れる発言であり、その真意はともかくも国交省の大臣たる立場での発言としては国民の誤解を生むだけである。

 前原氏が如何なる対処をしようとも、羽田ハブ空港化により成田空港が大打撃を受けることは素人目にも明確な事実であろう。
 加えて、あの激しい成田空港建設闘争の歴史を慮っただけでも、地元の皆さんの苦渋の歴史はこの私にも痛いほど理解できる。 それを、新与党のマニフェストに掲げられている政策だからと言って、大臣が一言で一蹴して済むはずもない。


 新連立与党は夏の終わりに政権を取って以降、短期間の内になぜこのような同じ過ちを何度も繰り返すのか?
 “マニフェスト先にありき”の我が身息災な考え方を今一度冷静に再考できないものなのか? こんな失策を繰り返してばかりいるのでは、やはり来年の参議院選挙に向けて“票取り”に焦っているとしか選挙民である庶民には捉えられないのではなかろうか。
 今回の「ハブ空港」問題とて、苦渋の歴史を積んで来ている成田地域住民への配慮こそが真っ先に行われるべきだったであろうに…。

 しかも、今回の場合、羽田24時間国際空港体制における新たな騒音等の公害問題も発生する。(これに関しては既に千葉市長よりその旨提言されているのだが。)
 
 日本には“根回し”などという良きにつけ悪しきにつけ独特な文化もある。 新政権が自らのマニフェストをどうしても成就したいのであれば、(あくまでも権力や金力がからまない範囲ならば)この“根回し”手段とて指導者としての一つの力量、手腕として利用できるであろうに、と言いたくもなる。 一般庶民にそんな発想さえ抱かせる程、今の国交省(をはじめ各省庁の)各方面の政策決定発表は唐突で“素人もどき”で見ていられないのだ。


 あっ、最後に本記事の表題に戻るが、環境面からそして経済効果からも今の日本の現状を考察した場合、前原氏がおっしゃるほど今の日本に「ハブ空港」が必要とも思えない原左都子でもあるのだが…。
 アジアの発展という国際外交関係の観点からも、新政権はもっと大らかな心でお隣の韓国やシンガポールにその役割をお任せしておいてはいかがなものなのか??
              
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「家飲み」反対派の私

2009年10月12日 | 
 自他共に認める“底なし飲兵衛”の私であるが、家族が同居する我が家に人を招いて酒宴を開いたり、他人様のご自宅に伺って「カンパーイ!」をすることだけは避け通したいと、30余年来の“飲んだくれ”遍歴を積み重ねてきた今、身に滲みて実感する原左都子でもある。


 我が過去における独身黄金時代においては、「家飲み」は日常茶飯事だった。 恋人はもちろんのこと、親しい友人等と我が一人暮らしの部屋や相手の部屋で朝まで飲んだくれては夕方近くまで寝込むなどという“荒業”を成し遂げられたのは、若気の至り故のパラダイスでもあり失策でもあったのだろう。 それでもまあ、それは独り身故の自己責任の範囲内で片付けられる話である。

 そんな私が家庭を持ってからも、幾度か友人知人を招いて我が家で酒宴を開く機会があった。
 「家飲み」においても、客を“招く”立場の場合はまだしも気が楽とも言える。 “類は友を呼ぶ”とは言うが、何分飲兵衛の私であるが故にご訪問下さる友人知人も私に勝るとも劣らぬ“飲兵衛”ぶりである。“駆けつけ3杯”という訳ではないが、“飲兵衛”ペースでとにかく最初からアルコールをどんどん与えておいて、その後適当にあしらえた下手な料理を出しても、それに話題が及ばずに済んだものだ。 (何分、わが人生を一貫して料理嫌いな原左都子なもので…  詳細は本ブログバックナンバー「料理嫌いな女」をご参照下さい。)

 一方、他人様のご自宅にお酒を“およばれ”する場合は、そうは問屋が卸してはくれない。 大抵のお宅では、料理担当の奥方がさほどお酒を召し上がらないのが世の常である。
 例えば私がその奥方と親しい場合、私が“底なし飲兵衛”であることは既存の事実ではあるのだが、奥方以外のご家族の前でまさかその醜態は晒せない。
 私がそのお宅の旦那と知り合いの場合など、台所でせっせと料理を作っている面識の浅い奥方に遠慮申し上げて、(早く酒飲ませてくれよな、とイライラしつつも)「何かお手伝いしましょうか?」などと心にもない気遣いもせねばならず、真正飲兵衛としては欲求不満ばかりが募るものである。(こういう場面で今尚男尊女卑を実感させられるのが悔しいよなあ…。)
 と言う訳で、他人様のご自宅での飲み会とは“底なし飲兵衛”の女の身には欲求不満ばかりが募る“過酷”な会合以外の何でもないのだ。

 
 今回、本ブログでこのような記事を書くに至ったのは、10月10日(土)朝日新聞“家庭欄”(?)の記事「『家飲み』友とゆるり」がきっかけである。
 この記事によると、現在、費用が抑えられ時間や周囲を気にせず過ごせる気軽さが受けて、若い世代の間で「家飲み」がじわりと広がっているとのことである。
 この朝日新聞記事の場合、「家飲み」を催しているのが20、30歳代とのことで、その世代の若さであればある程度気兼ねもなく他人の自宅での「飲み会」を楽しめるのであろうとも考察する。

 ところが、やはり私のような“真正飲兵衛”にとって災いとなるのが、この朝日新聞記事に添えられていた“専門家”とやらの女性のコメントである。
 ファッションスタイリストと称するその“専門家”女性は、そのような「家飲み」にあたってのキーポイントはやはり「料理」だと断言しているのだ! そして料理が苦手な“女性”へのメッセージとして「自分が“出来ること”で料理を作りましょう」云々と提言している。 しかも、他人のお宅に招待された女性客は、台所での準備に協力・参加することで負担を感じなくて済むとの提言である…
 やっぱり女とは「お酒」の席においてさえ、今の時代に至って尚、その裏舞台で料理を作ることを強要される存在でしかないのであろうか??? 
 そんな人生を30年前から一切歩まず、自由奔放に飲兵衛人生を徹底して楽しんで来ている私にとっては、料理作りを強要される「家飲み」など鬱陶しいだけの存在である。


 実は、我が義母が家庭料理を手始めに長年すばらしい創作料理を創り続けた手腕の持ち主であられるのだ。 そんな凄腕料理の母を持つ亭主の実家へ結婚以来幾度となくお邪魔し、何日も前から下ごしらえして手塩にかけて創った義母の真心こもった料理を肴にお酒を堪能してきた私でもある。
 それでも義母の加齢に配慮した私は、その料理を亭主の実家で頂く事を私の意向できっぱりと終焉して以降もう10年程の年月が経過している。 高齢にしてその凄腕料理に臨む義母の労力の負担を鑑みての配慮であった。
 今では、義母との会合には外部の飲み食い処の個室等を予約して(その会計は義母が喜んで全額負担してくれるのだが、トホホ… )、飲み会の席において老若男女にかかわらず誰しもに料理や片付けの負担の偏りを無くし、皆が心置きなく飲んで楽しめる措置を採っている我が一族である。 (そんな私の合理的思考を率先して理解してくれる義母を持つ恵まれた私でもある…)


 結局、現在の不況真っ只中の日本における「家飲み」の実態とは、庶民にとっては外で飲むには“金力が乏しい”故であることは多少理解も出来る。
 そうかと言って家で他人も含めたメンバーが集まって飲む場面において、今の時代に至って尚“女の料理労働力”が期待されているというこの時代遅れの実態はどうしたことであろうか???

 ちょっと、冗談じゃないよ!
 家で飲むなら男も料理を作って飲兵衛の女に振舞ってくれよ。
 それが嫌なら、皆が割り勘で金出し合って外で飲もうよ。
 それも嫌だと言うならば、酒飲まなきゃいいだろが!! 
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実力と人気と使い易さの3次方程式

2009年10月10日 | その他オピニオン
 秋も深まりつつある今、そろそろ8月の民主党のあの圧勝劇も“過ぎ去りしひと夏の出来事”として国民の熱が冷め始め、一般庶民の間では早く各種手当てが支給されることのみが待たれる段階に突入している感もする今日この頃である。

 今回の選挙における民主党の当選者の場合、候補者自らの政治家としての実力(潜在力)が有権者に評価、支持されて当選した人物はごく少数派なのではなかろうか。
 国政選挙とて結局はそういうレベルの話にしか過ぎないのであろうが、政界においても、経済界においても、芸能界においても、「実力」と「人気」と「使い易さ」の3要素こそが指導者にとって後進を掘り出して育てていく基本原則と位置づけられるのではなかろうかとの感を抱く原左都子である。

 今回の記事は国政とは一切関係なく、上記3要素の相関関係について考察する内容であることを最初にお断りしておく。


 何故に突然この3要素の概念が頭に浮かんだのかと言うと、きっかけは「モーニング娘。」である。
 ダンス好きな私であるが、秋になってフィットネスクラブに入会して以降はそこで「ヒップホップ」と「エアロビ・ステップエクササイズ」に励んでいる。 それ以前はもっぱら、ユーチューブの70年代ディスコサウンドやピンクレディやそして「モーニング娘。」の曲に合わせて、一人で踊りまくって自主トレしていたのである。(ちなみに、ピンクレディはほぼ全曲踊れるし、モーニング娘の“恋愛レボリューション21”は私のダンスの得意ナンバーであるのだが。


 今は廃れた(失礼!)「モーニング娘。」であるが、今その全盛時代の影像を見るとなかなかのエンターテイメントぶりである。歌はともかく踊りは本格的だ。全員が基礎基本を一応きちんとマスターしている様子で、舞台やスタジオでの激しいダンスの動きに最後まで手抜きがない。

 そんな中、踊り以外で興味深いのはメンバーの「人気」と「実力」とそして“私の好み”が一致しないことである。 “この娘(こ)がグループの中で一番の人気者だったはずだけど、私の目には魅力的に映らないなあ。こっちの娘(こ)の方がずっと洗練された魅力があるし踊りもうまいのになぜこんな隅っこにばかり追いやられているのだろう? 私がプロデューサーならば、この子こそ中心に置きたいけどなあ。”といった具合である。

 この「モーニング娘。」に関しては、プロデューサーのつんく氏によりデビュー当初より興味深いプロデュースの試みがなされていたようだ。 単独リードボーカルを立てず、ほぼ全員を入れ替わり立ち替わりソロ、デュエット等に起用し、その持ち時間の長短はあれど、一曲中に全員が一度は“日の目をみるよう”メンバーを配置したのがその特徴のようだ。 このような構成は見る側の“好みの多様性”を尊重したものに他ならない。 そして、グループが陳腐化して「人気」が廃れる前にメンバーを少しずつ入れ替えつつその“鮮度を保つ”という、今までの芸能界にはない斬新な試みをしたのも、つんく氏による「モーニング娘。」プロジェクトが初めての事例ではなかっただろうか。

 そのような斬新なプロデュースの試みの「モーニング娘。」においてさえ、やはり中心メンバーをつんく氏は立てていた。 実名を挙げて申し訳ないが、初代の中心メンバーは“阿倍なつみ”だったのだが、私個人的には個性が乏しく感じるし歌唱力も大したことがなくメンバーの中で一番印象が薄い存在と捉えていた。 それでも、つんく氏が何故に“阿倍なつみ”を中心に据えたのかを私は理解できるような気がする。
 それはプロデューサーの立場として“阿倍なつみ”が「使い易い」からに他ならないからだと私は考えるのだ。(いや~、真実は知りませんよ。つんく氏の個人的な好みだったのかもしれないし~。)


 実はつんく氏の「モーニング娘。」プロジェクトに限らず、学校のクラスや職場、そして国政等において、上位の立場の人間が下位の生徒や部下や新人議員を扱う上でもこの「使い易さ」という概念は欠かせない要素であると、私は以前より考察しているのだ。
 例えば、教員の立場として学級委員はこの生徒にやってもらうと自分の意思伝達がスムーズに運んでクラス運営が容易となる、といった魂胆で教員自らが指名することも多かったように記憶している。 職場においても、真に実力のある部下とは能力のない上司には扱いにくい存在である。そこであえて「実力」ではなく「使い易い」人材を採用するのはどこの職場でも常識であるとも言える。
 今回の民主党圧勝により誕生した“小沢チルドレン”に関しても、結局小沢氏が「扱い易い」人材を周囲に蔓延らせようとした結果でしかないのであろう。


 ところが残念ながら、世の中のシステムとは、狭い集団内における(名目だけ)上の立場にいる人間が下の人間を「使い易い」という安易な論理のみで扱っていたのでは発展し得ないものである。
 組織の如何にかかわらずその“長”たるものは、世の中をオープンシステムとみなして自分の都合や狭い見識のみではないグローバルな視野で捉え、真に「実力」のある人材を勇気を持って育成していかないことには、結局はオープンシステムにおける長続きする「人気」を確保できず、その発展も望めないのではなかろうか。

 真の実力がものを言い、それが世を動かす時代に早く移り変わって欲しいものである。
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